漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。

→これまでのお話はこちら


今回のテーマは「尊敬する人」である。

働き方も多様化してきたが、やはり何らかの企業に所属し賃金を得ている人の方が多数派だろう。

片や私のように、どこにも所属せず、決まった勤務時間も賃金もなく絵や文章を書いて暮らしている者もいる。

そのような仕事をしている人間は「そういう才能」があったからそのような職に就いたと思われがちだし、実際そういう人もいる。

しかし、実際は執筆の才能があるわけではなく「企業に勤める才能がなさすぎる」ため、消去法でやっている人間の方が多かったりするし、私ももちろんそれである。

つまり「所属しない」という自らの選択ではなく「所在がない」という、幅寄せに幅寄せされまくった結果、この隙間に挟まっていたという、前歯の間の紅ショウガみたいな存在なのだ。

たまに「何をきっかけに会社を辞めて専業作家になったのか」と聞かれるが「私に選択権がある」と思っている時点でインタビュアーとして青い。

手練れであれば「何が原因で辞めさせられたんですか?」と聞くところである。

実際、作家として目処が立ったから辞めたとかではなく「ある日個室に呼び出され、辞めざるを得なくなったので辞めた」としか言いようがなく、それがなかったら今も会社にいた可能性はなくもない。

そんなわけで、学校を卒業以来、無職と会社員の反復横飛びを続けていたが、ついに無職ゾーンに飛んだ瞬間足首がグニャアとなり、ここから出られないまま3年経った。

おそらく社会の中で人様と仕事をしていたのは正味10年ぐらいだと思われる。

ジョジョの「さすがディオ! おれたちにできないことを平然とやってのけるッそこにシビれる! 憧れるゥ!」という言葉がいまだに語り継がれているのは突飛なシーンのように見えて「自分にできないことができる人間は尊敬に値する」という、極めてシンプルな人間の心理を表現しているからだろう。

よって、その前のコマでディオ様がやったことが、軽性犯罪ではなく「目覚ましを3コール以内で止めて定時出社」とかでも、それができない人間は十分全身が痺れて動けなくなるのだ。

よって私にとって、外で働いている人は全員リスペクトの対象である。

なんだったら、家の前の公園で子どもを遊ばせながら、井戸端会議をしているママグループに対しても尊敬の念を抱いている。

もはや社会で他人と「やっていってる」というだけで憧れるし、来世はあの輪に入れる人間になりたいと切に願っている。

そう言った意味では、長年外で働きながら親としてもやっていった母上のことはかなり尊敬しているし、社会でかなりやっているうえに、やれない側である私ともやっていっている夫のことも尊敬している。

ちなみに、夫のように「社会でやっていけてない人とも何とかやっていこうとする人」というのは、社会不適合者に依存されがちなので、気をつけた方がいい。

このように、できることが少ないと、人を簡単にリスペクトできるという利点がある。人を舐めたり見下したりして良いことはあまりないのだ、

これは相手のためというわけではない。舐めた方はすぐ忘れるだろうが、舐められた方は舐められた瞬間も嫌だがそこがどんどん異臭を放ち始めるので忘れるはずがない。つまり復讐の恐れがある。

また今の世の中何が起こるかわからない。特に作家というのは誰がいつ当たるかわからない職業である。偉そうに接した新人作家が来年鬼滅の刃や呪術回戦を描いている、ということが平気で起こるのだ。

よってむしろ「幼稚園児相手にも敬語」というコミュ症仕草の方が正しかったりする。

ただし、人を尊重することは大事だが、あまり他人を神聖視、そして己を下げ過ぎない方がいい。

一見、謙虚で他人を立てる人間のように見えるが、人を尊敬の果てに神聖化するというのは、文字通り相手を「人間扱いしていない」ということになる。

相手を自分と同じ人間と思っていない、ということは「これをしたら相手は自分と同じように傷つく」という想像力が全く働かなくなるし、ちょっとしたことで勝手に幻滅したりしてしまう。

また、ディオ様に痺れていた二人組は憧れながらもディオ様みたいになろうとは1ミリも思っていないはずである。

自分もこんな風になりたいというリスペクトなら良いのだが「自分はこんな風になれない」という諦め、そして「こいつは神だからできるんだ」という相手の努力の否定になってしまっているリスペクトもあるのだ。

ディオ様のように、リアル人間じゃなくなるタイプもいるが、どれだけ尊敬に値する、自分とは別次元の人でも人間は人間である。「死ぬまで殴れば死ぬ」など「自分と大差ない部分もある」ということは忘れてはならない