「野球が好き」という人は多いだろう。投手と打者によって繰り広げられる数々の名勝負は、時として人の心を打ち、揺さぶる。筆者もそんな世界に魅せられた一人だ。このコラムでは、野球が好きなあまりプロ野球担当記者として働いたこともある記者が、これまでの取材経験もまじえながら、プロ野球についていろいろと語ってみる。初回はヤクルトのウラディミール・バレンティンについてだ。
前人未到のシーズン60号
その日、筆者はたまたま歴史的瞬間の場に居合わせた。2013年9月15日の神宮球場、ヤクルト対阪神戦。バレンティンが、王貞治が持つシーズン本塁打数のプロ野球記録、55本を49年ぶりに塗り替えた日だ。打球が左中間スタンドへ消えた瞬間、ふだんは猛烈なヤジを飛ばすトラ党ですら、総立ちでその偉業を称(たた)えた。結局、シーズン記録は60本まで伸びた。
それから4か月ほどの今年1月14日。バレンティンが離婚協議中の妻を自宅に監禁したなどの容疑で逮捕されたとのニュースが日本で流れ、驚いた日本のプロ野球ファンも多いだろう。と同時に、失望したファンも。
バレンティンの他にシーズン55本塁打を達成した選手は3人いた。1964年の王、2001年のタフィー・ローズ、02年のアレックス・カブレラ。プロ野球最速のチーム122試合で55号達成という"超驚異的"な量産ペースのバレンティンは別として、ローズとカブレラは半ば「聖域」と化していた王の記録を破らせまいとする世間の「空気」もあり、残り数試合はまともに勝負してもらえなかった。結果として、新記録達成はならなかった。
世界記録でもある通算本塁打数868本をはじめとする数々のプロ野球記録を持ち、世界に名を轟(とどろ)かせる王。それゆえに王のシーズン本塁打記録を破ることはタブーと見られていた向きがあるが、筆者は勤勉かつ誰に対しても分け隔てない態度をとる人柄も「王超え」を阻止する風潮を後押ししたのではないかと、勝手に考えている。
記者の労をいたわり、食事に誘う王
かつて、こんな話を記者仲間から聞いたことがある。あるソフトバンク担当記者は、その日のネタに困っており、当時ソフトバンク監督だった王を取材すべく、自宅前で夜遅くまで帰りを待っていたそうだ。普通ならば、夜間の自宅取材はよほど大きいネタを直撃取材をする以外は敢行せず、場合によっては記者に対して怒りをぶつける取材対象者もいる。だが、王は遅くまで待っていた記者を怒ることなく、逆にその労をねぎらい、食事に誘ったという。06年の第1回WBCで日本代表の指揮を執った際には、メジャーの名だたる選手が進んであいさつにかけより、サインをねだられたこともある男が、である。
一方で、かつてのライバル・野村克也は、王の勤勉さに驚いたことがあるという。現役時代、ある店で一緒に飲んでいた王と野村。宴もたけなわというところで、王はすっくと立ち上がり、打撃の師匠・荒川博の元へと帰っていったそうだ。荒川と二人三脚で取り組んでいたという一本足打法の練習は、野球ファンの間ではあまりにも有名だ。当時の王は、既に本塁打王のタイトルを何度か獲得していたにもかかわらず、毎日、荒川とともに個人練習に励んでいたのだという。
バレンティンの「功」と「罪」
まじめな努力家として「世界の本塁打王」までのぼりつめながら、誰に対しても気さくな性格。王の持つそんな人柄も、シーズン本塁打数記録を"神聖化"させてしまった一因となってしまったように感じる。ただ王自身は、「王超え」を阻もうとするプロ野球界や世間の風潮を望んでいなかった。昨シーズンにバレンティンが新記録を達成した際には、「2試合にほぼ1本のホームランは驚異的なペースであり、プロ野球新記録といった話題をも超越した圧倒的な数字」と祝福のコメントを寄せ、自身の記録が塗り替えられたことを喜んでいる。
それだけに、今回の騒動によって、49年ぶりのプロ野球新記録に少なからず汚点が付いてしまったことは残念でならない。バレンティンの記録はNPBが特別な処置を施さない限り、プロ野球記録として残り続ける。だが、ネット上では早くも「去年のホームラン記録は無効にすべき」といった非難の声があがるなど、人道面からタイトルホルダーとしての資格を疑問視しているファンも多い。
今回の一件は、図らずも「人格者」としての王の存在を浮き彫りにさせるかっこうになった。筆者が最も懸念しているのは、この騒動が引き金となって、「王の記録を破ることは許されない」というプロ野球界や世間の「空気」が、これまで以上に強固なものになってしまわないだろうか、ということである。
王は今回破られたシーズン55本塁打のほかにも、「3回のシーズン50本塁打以上」「15本の通算満塁本塁打」などのプロ野球記録を複数保有している。それらの記録が今後破られそうになったときに、少なからず今回のバレンティンの事件が及ぼす「影響」があるのではないだろうか。万一、その「影響」により、新記録達成が阻まれるようなことがあったら、それはプロ野球初のシーズン60号達成という「功」以上に大きい「罪」である。 (敬称略)