
1976年、ロンドンの小さなレコード店から始まったRough Tradeが今年50周年を迎えた。それを記念し、9月30日に大阪、10月1日に東京でアニバーサリー公演を開催。ロンドン拠点の8人組carolineと、元black midiのキャメロン・ピクトン率いるMy New Band Believeが出演するほか、Rough Trade創設者のジェフ・トラヴィスと、パブリック・イメージ・リミテッドの初期メンバーとして名盤『The Flowers of Romance』のジャケットを飾ったことでも知られる共同経営者ジャネット・リーがDJとして来日する。ポスト・パンクのDIY精神を支え、時代を切り拓く才能を世に送り出してきたRough Tradeの思想、レーベルが歩んだ半世紀を、ele-king編集長の野田努が解説する。
思想としての「インディ」
まず断っておきたいのは、「インディペンデント」レーベルであることが、必ずしも正当性と誠実さを象徴する、高貴で誇るべき存在とは限らないということだ。それは単に利益を追求する小組織に過ぎないかもしれないし、商業的なメインストリームを目指しながらも、まだ芽が出ていないだけのレーベルかもしれない。あるいは、大手メジャーと提携して一獲千金を企むレーベルもあるだろう。それ自体は決して悪ではない。しかしそこには、ぼくたちが「インディペンデント」という音楽用語に抱きがちな、ある種の純粋さ、もしくは夢のようなものは存在しない。
歴史を振り返れば、インディペンデント系レコード・レーベルは1940年代以前からあった。1939年に創設された高名なジャズのBlue Noteもインディペンデント・レーベルで、ほかにも、ブルースで有名なChessは1950年、エルヴィス・プレスリーで有名なSunは1952年に誕生した。ヒット工場と言われた1959年創設のMotownもインディだった。英国も同様だ。スモール・フェイセズやロッド・スチュワートを擁したImmediate(1965年創設)、クリス・ブラックウェルのジャマイカ生まれのIsland(1962年英国進出)、プログレッシヴ・ロックの名門Charisma(1969年創設)など、元インディペンデント・レーベルは数多い。それらの誕生には突出した野心家たちの明確なビジネス的モチベーションと「読み」、あるいは「趣味」への愛やこだわりはあったが、音楽業界の慣習を打破し、アーティストとの契約からスタッフの働き方まで、その構造を変革するような理想主義、ヴィジョンがあったわけではない。
今日、ぼくたちが「インディ」と呼ぶときのルーツにあるRough Trade(1976年レコード店開業、1977年流通事業、1978年レーベル事業開始)は、ブランディングやマーケティングをもって生まれたわけではない。それは哲学的、あるいは政治的なヴィジョンのなかで登場した。Rough Tradeに続いたFactory、4AD……などもそうだ。これらレーベルから発信される音楽を好むアンダーグラウンド志向のロック・ファンで、音楽メディアの熱心な読者でもあった当時の若いリスナー(通称インディ・キッズ)が支持する音楽、これこそが、80年代を通じて「インディ」と呼ばれるようになった音楽の、歴史的な実態、すなわち真実の姿である。
ちなみに、Rough Tradeにとって最初の大ヒットとなったザ・スミスのような、白人男性4人組によるジャングリーなギター・ロックを、ぼくたちはなんとなく「インディ・ロック」と呼びがちだ。しかし、それは誤解にすぎない。ある時期から、それは単なるマーケティングの手法へと変質してしまっている。実際、ブラーもオアシスも、本来の意味での「インディ・ロック」ではない。
繰り返そう。もし、「インディペンデント」レーベルであることが高貴で誇らしいと言えるなら、それはRough Tradeが、そのヴィジョンに対する誠実さを持ち続け、本質的な生命力によって実現したからである。順を追って話そう。
ポスト・パンク/DIYシーンの勃興
まずはパンク・ロックがあった。1976年から1977年の英国において体制に真っ向から喧嘩を売ったこのムーヴメントは、不満を抱えた多くの若者たちを巻き込んだものの、しかし、1978年には息絶えようとしていた。もともと米国では、4トラックや8トラックの安い機材で録音され、安価な7インチ盤という「自分たちの現場に忠実」だったはずのパンクも、その一部は、大企業が用意する豪華なスタジオへと場を移し、パンクが生まれたストリート・シーンからはかけ離れた、高音質な音楽へと姿を変えてしまった。シーンの核だったセックス・ピストルズは解散し、他方では、二番煎じのコピー・バンドたちがパンク・ロックをマッチョな怒鳴り合いへと変質させていた。
しかしながら、パンクの影響はより本質的な意味においても絶大だった。ポップ・チャートや大手メジャーに媚びない、ただ自分たちが好きなことを好きなようにやるという信念のもと、多くのDIY主義者たちが、パンクのスピリットを受け継ぎながらパンクにはできなかったことをやろうと、もはやロックという様式からも自由な音楽をいろんなところで鳴らし始めたのである。アンダーグラウンドで拡大していったこのDIYムーヴメント──今日では「ポスト・パンク」と括られるシーンの最初にしてもっとも重要なプラットフォームとなったのが、Rough Tradeだった。
Rough Tradeは、ただレコードを売っただけではない。メジャーの流通システムには乗れない作品、つまり少部数の手作りの自主制作盤を全国流通させるべく、インディ・レーベルのためのディストリビューション網を構築し、そして自らもレーベルとなって、その時期のもっとも重要な作品をリリースしていった。当初はスタッフ全員の給料が同額、アーティストとの契約は拘束のない、利益は平等に分けるという理想主義的な条件だった。
Rough Tradeの共同体的なアティチュードが、英国の自主制作盤を中心としたDIYシーンに瑞々しい活気をもたらしたのである。それは、シーンが拡大していくための基盤にもなった。そして、シーンからメインストリームにも影響を及ぼすような何枚もの名作が生まれていった1980年代、それこそが「インディ」という言葉が音楽ジャンルとして定着した時期でもあった。
Rough Tradeが誕生したのは1976年2月、場所はロンドンの西側、ノッティング・ヒル地区のラドブローク・グローブのあたりである。いまでこそ”超”高級住宅地となってしまった同エリアだが、70年代は、家賃は格安で空き家も多く、ボヘミアンやヒッピー、サイケデリック・ロッカー、スクワッターたちがわんさといる地域として知られていた。また、そのエリアは西インド諸島系コミュニティのど真ん中でもあり、多くのジャマイカ移民たちが暮らしてもいた(この時期のラドブローク・グローブのあたりのスクワッター/ヒッピー崩れのボヘミアンがどんなだったかを知りたければ、映画『ウィズネイルと僕』を見ればいい)。
ケンブリッジ大学を卒業し、およそ2年間のカナダ〜アメリカ生活から帰国したジェフ・トラヴィスは、旅行中にフリーマーケットで購入し、いつの間にか400枚にも膨れあがった自分のレコード・コレクションを滞在先のサンフランシスコから英国まで船便で送ると、さて、ではこれらヴァイナル盤をどう扱えばいいのかとふと考えた。答えは簡単、レコード店を開くこと、その一択である。
というのも、すでにトラヴィスには、店という場所に関するヴィジョンがあったのだ。「それはアメリカで見つけた、単に商品を売るだけでなく、コミュニティの人間やシーンの住人がふらりと立ち寄る場所としての小規模な店に触発されたものだった。(…)”レコード店というものが、単に薬局に薬を買いに行くような場所ではなく、それ以上の存在になれるという確信のもとに店を始めたんだ”と、トラヴィスは1979年に語っている」*
実際Rough Tradeは、レコード店以上の場所だった。「そこでは音楽や、レコードが持つ音楽的・イデオロギー的な価値について議論が交わされた」「理想主義は本物だった。見せかけでも、気取ったポーズでもなかった。ジェフは本気で挑んでいた。彼は理想主義的でマルクス主義者でもあり、既存のパラダイムを打ち破りたがっていた。一種の実験と言える*」──こう証言するのはトラヴィスの学生時代からの旧友で、ジャーナリスト/研究者のヴィヴィエン・ゴールドマンである。
Rough Tradeに、自分でも何かを始めたいと思っている人たちが集まったのも当然の成り行きだ。パンクに触発された若きレーベル主宰者たち──ダニエル・ミラーからジェネシス・P・オリッジまで──も、ヒップな客が集まるこの店に自分の自主制作盤を卸すことになる。そして音楽メディアがその自主制作盤を褒めると、他の小売店もそのアイテムを自店で売りたいと、Rough Tradeに電話をかけてくる。1977年の時点で、こうしたことが頻繁に起こるようになった。Rough Tradeは早々と流通網としても機能し始めたのである。メジャーのビジネス・システムには乗っからない自主制作盤、すなわちインディ・レコードが、Rough Tradeを経由して全国に行き渡るようになった。
1978年〜1982年のRough Tradeリリース楽曲をまとめたプレイリスト
「50対50」の理想主義
DIY文化の拠点となったRough Tradeが、レーベル機能を持つのも時間の問題だった。初期Rough Tradeの従業員のひとりに、シャーリー・オロックリンとアナ・ダ・シルヴァがいる。女性がレコード店の店員になること自体が珍しかった時代だったが、ふたりのうち前者は、やがて後者が始めるザ・レインコーツというバンドのマネージャーになった。90年代に米国のグランジやライオット・ガールからも発見され、あらためて評価を高めたそのバンドの作品は、Rough Tradeが1978年からはじめたレーベルからリリースされている。
また、ラドブローク・グローブのサイケデリック・ロッカー、ソフト・マシーンのメンバーにしてマルクス主義者のロバート・ワイアットが、当時、Islandで働いていたヴィヴィエン・ゴールドマンを介してRough Tradeと繋がるのも、いたって自然の流れだったと言えるだろう。ワイアットはこう回想している。「Rough Tradeとは友だちのようだった。人間の仲間のためにレコーディングしている感覚だった」
ワイアットがそれまで所属していたVirginにおけるリチャード・ブランソンの企業拡大の帝国志向とは、真逆だったのである。
いまでは伝説のひとつだが、初期Rough Tradeでは、お店でレコードを売るスタッフも倉庫番も社長であるトラヴィスも、全員が同じ給料だった。こうした彼のユートピア主義を象徴する話のひとつが、アーティストとレーベルが利益を平等に分かち合う、オープンで拘束力のない「50対50」の契約である。この利他的な試みは、経済力のないアーティストを助ける、前例のない条件だった。おのずとアンダーグラウンドで活動する才能たちが集まり、1979年から1980年にかけては、じつに多くの歴史的ポスト・パンク作品──スウェル・マップス、ザ・レインコーツ、ザ・ポップ・グループ、ヤング・マーブル・ジャイアンツ、キャバレー・ヴォルテール、デルタ5、ザ・フォール、スクリッティ・ポリッティ等々──がRough Tradeからリリースされている。蛇足ながら言っておくと、当時は、キャブスもTGも、デペッシュ・モードもみんな「ロック」という括りのなかで聴かれて、語られていた。80年代の「インディ・ロック」とは、今日そう呼ばれるものとはだいぶ違っている。型などなく、自由である。
ユートピアの崩壊と再生
少し話は逸れたが、以上の説明をもって、Rough Tradeがいかに偉大であったかがわかってもらえると思う。で、この先の物語、つまり1990年代以降の話に関しては、少しばかり複雑で、申し訳ないが別の機会に譲りたい。とはいえいくつかの要点のみ、ここに記しておこう。80年代の半ばを過ぎた頃には、Rough Trade内にもきしみが生じてくるのである。
まずは「50対50」契約。理想主義的発想にもとづいたこのやり方は、メジャーにとっても好都合だった。なぜなら、レコード会社が初期投資する「新人開発」のところを、インディが身代わりしているからだ。Rough Tradeで大きくなったアーティストを引っこ抜けばいい。その最初の例が、スクリッティ・ポリッティだった(そして、その次がアズテック・カメラだ)。
それから、先述したように、「インディ」なる言葉が定着するほど、1980年代を通じて、英国インディ・シーンは文化現象および経済基盤の両面において多大な発展を遂げている。これに呼応したRough Trade内のディストリビューション部門もまさに著しい経済成長を遂げたわけだが、その肥大化は同グループにおけるレーベル部門との軋轢を加速させることにもなった。
レーベルにとって初めてメインストリームで成功したザ・スミスに関しても、ある意味、いつ爆発してもおかしくない爆弾でもあった。当時のRough Tradeにはその規模のアーティストを扱った経験もなく、やがてモリッシーが歌詞のなかでジェフ・トラヴィスを揶揄するほど、バンドとの関係も悪化していったのだ。
1986年には、ジャネット・リーという最強のビジネス・パートナーが加わったRough Tradeだったが、レーベルを覆い始めたこうした暗い影を追い払うことはできなかった。巨大化したディストリビューション業のために巨額を投じて導入したコンピュータ・システムの不備によるキャッシュフローの悪化、レーベルの財政を支えていたザ・スミスの解散、そして長年にわたってのどんぶり勘定の放漫経営のツケがたたって、1991年から1992年にかけてRough Tradeは倒産に追い込まれたのである。
そのとき、Rough Tradeを援助しようと多くのバンドが協力したことも書いておきたい(*)。当時、もっとも商業的にヒットを飛ばしていたザ・KLFなどは、「世話になったんだからもっと助けろ」とメディアからも言われたほどだ。インディ・シーンの誰もがRough Tradeに恩義を感じていたのだろう。こんなレーベルは、いまだほかにない。
90年代後半には、倒産からの復活と第二期黄金期という、ドラマチックな物語がはじまる。商標を取り戻したRough Tradeは、当初はメジャー資本(BMG等)の傘下に入りつつも、ザ・ストロークス、そしてザ・リバティーンズを立て続けにデビューさせ、ザ・スミス以来の商業的な大成功を成し遂げたばかりか、2000年代初頭のインディ・ロック・リヴァイヴァルの決定的な引き金にもなった。
2007年にはイギリス最大の巨大インディ組織であるBeggars Groupに加わったことで、Rough Tradeは、もはやメジャーに魂を売ることなく、ジェフ・トラヴィスとジャネット・リーが純粋に好きな音楽をリリースできる拠点となった。ブラック・ミディ、スリーフォード・モッズ、ジョックストラップ、ランクム、キャロライン等々……音楽的に実に多彩で、個性的な、スタイルとしても多様な面々である。50年目にしてこの自由さは、最初にレーベルを始めたときに近いのかもしれない。素晴らしいではないか。
1976年にRough Tradeが目指した、音楽を愛する者たちが団結し、商業主義の貪欲さに立ち向かうためのユートピア的共同体を作ること、その夢は打ち砕かれたかもしれない。しかし、インディの精神は残っているし、インディ・ミュージックは生きている。これ以上のことをRough Tradeに求める人間がいたら、よほどの無知か、心のない人間だろう。
(*)ロバート・ワイアット、アズテック・カメラ、ザ・シュガーキューブス、ザ・シャーラタンズ、サンディ・ショーらが『A Historical Debt』というアルバムに楽曲を提供。その収益は、Rough Trade流通の破綻によって損失を被ったレーベルへと寄付された。また、ダニエル・ミラー(Mute)やアイヴォ(当時の4AD)といった人たちもジェフ・トラヴィスをサポートした。
*参考文献(および引用元):Rob Young『Rough Trade: Labels Unlimited』Black Dog Publishing(2006)
今日のRough Tradeリリース楽曲をまとめたプレイリスト

ROUGH TRADE 50TH ANNIVERSARY
2025年の初来日公演も各地ソールドアウトとなったロンドンの8人組carolineと、元black midiのキャメロン・ピクトンによる新バンドMy New Band Believeが、それぞれフルセットで出演。さらにRough Trade創設者のジェフ・トラヴィスと、共同経営者で元PiLのジャネット・リーがDJとして来日。
2026年9月30日(水)大阪・Yogibo META VALLEY
2026年10月1日(木)東京・Spotify O-EAST
OPEN / START:18:00
チケット:前売:10,000円(税込/別途ドリンク代)
※未就学児童入場不可
公演詳細:https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=15803
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