
ロック界屈指のアンダーグラウンド・ヒーロー、スティーヴ・アルビニ(Steve Albini)の死から2年。パートナーや家族、バンド仲間、仕事を共にしたアーティストなど、数十名に及ぶ関係者の証言から、彼が遺した「複雑な遺産」の真実に迫る。
妻が語る「風変わりな男」の素顔
2024年11月の肌寒いある日、シカゴのベルモント・アヴェニューにある2階建てのレンガ造りの建物の前に人々が集まっていた。その建物が特別な場所であることを示す唯一の手がかりは、小文字の「e」が記された赤いドアだけだった。家族や友人、ファンたちは、6カ月前に61歳で心臓発作のため亡くなった、敬愛されるレコーディング・エンジニア、スティーヴ・アルビニに敬意を表するために集まっていた。シカゴ市は彼を称え、長年にわたり彼の拠点だったElectrical Audioスタジオに面する通りを「Steve Albini Way」と命名した。
それは実にふさわしい顕彰だった。アルビニの流儀──バンドの生演奏の響きを重視し、数十年にわたるロック・ミュージックに影響を与えた独自のレコーディング手法から、若い頃には女性蔑視や人種差別だと非難されることも少なくなかった、気難しく辛辣な論評に至るまで──は、まさに唯一無二のものだった。アルビニはまた、仲間に対して義理堅い人物でもあり、しばしば容赦ないユーモアを交えながら示される彼独自の公平感覚が、人生の指針となっていた。そして晩年の数十年間には、自身を大きく変える贖罪にも似た転機を迎えていた。彼に近しい多くの人々は、その変化を、2009年にアルビニと結婚したヘザー・ウィナの存在によるものだと考えている。
通りの命名式典で物静かなウィナに会ったとき、彼女はRolling Stone誌に対し、深い悲しみもあって声が出なくなっているのだと語った。それから5カ月後の2025年4月になっても、彼女の声量は図書館で話すような小声から、かろうじて聞き取れるささやきの間を行き来していた。それでも彼女は、自身の生涯の伴侶について語る準備ができていた。その詳細なインタビューは夜通し続いた。彼女は、シカゴのエッジウォーター地区にある自宅のアール・デコ調の雰囲気に調和する、レース付きの白いヴィンテージ・ドレスを身にまとっていた。ある場面では、2008年にアルビニがプロポーズの際に贈った婚約指輪が収められた、赤いベルベットのジュエリーボックスを取り出した。それもまたヴィンテージ品で、指輪は彼の祖母のものだった。
アルビニがプロポーズしたとき、彼女は「もちろんイエスよ。でも、どうして?」と答えた。2人はすでに16年間一緒にいたからだ。彼女はその後の出来事を思い出して笑う。「そのあと彼、私を置いて行っちゃったの」と彼女は語る。アルビニはそのままイタリアへ向かう途中だったという。「それを普通だと思うのは、ほんとスティーヴくらいよ。プロポーズして、そのまま出発するなんて。”じゃあね”って」。結婚を申し込む場面ですら、社会的に適切とされる反応を示さなかったそのエピソードは、多くの関係者が抱くアルビニ像そのものでもある。彼は風変わりだった。並外れた才能の持ち主だった。そして、簡単には理解できない人物だった。
ポラロイド写真に写るアルビニと妻のウィナ、撮影時期は不明(Courtesy of Heather Whinna)
ウィナとアルビニが出会った1993年は、アルビニがレコーディングを手がけたニルヴァーナ『In Utero』のリリースからわずか数カ月後のことだった。エンジニアとしての卓越した腕前と、辛辣な性格の両面で、彼の評判はすでに広く知られていた。ただ、ウィナ自身も彼の名前は知っていたものの、すぐにはそのスティーヴ・アルビニだとは結びつかなかったという。
2人が最初に顔を合わせたのは、シカゴのライブハウスEmpty Bottleだった。共通の知人である漫画家が、友人のスティーヴとして彼を紹介した。するとアルビニは彼女に「君、いい匂いがするね」と声をかけた。その晩の後になって、彼はさらに「君、自分に何が必要かわかってる?」と尋ねた。彼女は皮肉っぽく、「へえ、教えてよ。私に何が必要なの?」と返した。
「彼はこう言ったの。”君に必要なのは、一途で、ちゃんと定収入のあるボーイフレンドだ”って」と彼女は振り返る。「もう、”なんで私の人生知ってるの?”って感じだった」。どうやら彼の言うことが図星だったらしい。当時のウィナは郊外のコメディ・クラブでナイトマネージャーとして働いており、生活苦で、経済的余裕もなく、当時付き合っていた恋人とも頻繁に衝突していた。
それからほどなくして、2人はすでに閉店したライブハウスLounge Axの向かいにあったダイナーへ出かけた。それが結果的に初デートになった。「その時点でも、まだ私は”あのスティーヴ・アルビニ”だってわかってなかった」と彼女は言う。「しばらく話していたんだけど、彼、すごく生意気でひねくれた感じだったの。”この人、何者?”って思ってた」。だがその後、スマッシング・パンプキンズのメンバーたちが車で現れた。「そしたらスティーヴが彼らをからかい始めて。そこで”あっ、やばい。この人、スティーヴ・アルビニだ”ってなったの」と、彼女は芝居がかったささやき声で語る。

1993年撮影のアルビニ(Photo by Gail Butensky)
2人は数カ月ほど交際を続け、1994年には正式に恋人同士となった。彼らはまず、アルビニがフランシスコ・アヴェニューの自宅に有名なホームスタジオを作っていたシカゴのバンガローで暮らし、その後1996年には、まだ建設途中だったElectrical Audio内のアパートへ移り住んだ。2人はそこで20年近く暮らした後、ようやく一緒に家を購入した。
ウィナは、交際初期のアルビニの人格を誰よりも間近で見ていた1人だった。「彼はものすごく頭が良くて、私のこともすごく大切にしてくれた。でも、不適切なことを平気で口にする人でもあった」と彼女は語る。付き合い始めて間もない頃、彼はレストランで人種差別的なスラングを口にしたという。「”もし誰かがあんたをぶん殴りに来たら、その時は私、その人のためにドア開けて待ってるからね”って言ったの」と彼女は振り返る。「彼、すごく驚いて、”だって響きが面白いと思ったんだ”って言うの。でも私は、”いや、面白くないし、そう呼ばれる側の人たちにとっても面白くないから”って伝えた。彼がそれを理解するまでには、本当に長い時間がかかった」。だが最終的には、彼も理解したという。
カート・コバーンは生前に、「アルビニが素晴らしいサウンドのアルバムを作れるなら、彼のネガティブな部分には目をつぶれる」と語ったことで知られている。そして実際、アルビニは何度もそれを証明してみせた。彼の目標は常に、スタジオの小細工を使わず、バンドの生演奏そのものの響きを捉えることだった。ただ純粋に、音楽の剥き出しの姿を記録しようとしていたのである。キャリア中盤の時点で、アルビニ自身、すでに数千作もの作品を録音してきたと見積もっていた。それぞれの作品には独特の鋭さがあり、その音を聴き取り、記録できるのは彼だけのようにも思われた。
アルビニの死後1年間にわたり、Rolling Stone誌は、ウィナをはじめ、アルビニの母親や兄弟、Electrical Audioのスタッフ、さらにシェラック、レイプマン、ビッグ・ブラックで活動を共にしたバンド仲間たちなど、彼をよく知る数十人に取材を行った。また、PJハーヴェイや、ピクシーズ、ブリーダーズ、ジーザス・リザード、ロウ、サンO)))のメンバーら、アルビニと仕事をした多くのアーティストたちも、彼との制作が人生や世界観にどのような影響を与えたのか、そしてアルビニ自身がどのように変化していったのかを語ってくれた。
「挑発的な音楽家」の原点
スティーヴ・アルビニが幼い頃、アルビニ一家は、父親の山火事研究の仕事の都合で各地を転々としていた。フランクとジーナ・アルビニ夫妻には、スティーヴが1962年7月22日にカリフォルニア州パサデナで生まれる前から、すでに2人の子どもがいた。長男のマーティ(現在は機械技師)と、真ん中のモナ(会計士、今回の取材は辞退)である。一家は全米をジグザグに移動した末、最終的にモンタナ州ミズーラへ落ち着いた。
「思ったことをそのまま口にする子だったから、そのせいでしょっちゅうトラブルを起こしていた」と母親は語る。
スティーヴは小柄な子どもで、そのせいでよくからかわれていた。興味の対象も多く、模型ロケット、絵を描くこと、野球、マジックショー、そして後には演劇や写真にも夢中になった。「スティーヴは、何か趣味や計画やテーマに取り憑かれると、1年、2年、時には3年くらい猛烈に没頭するんだ。でも、そのあと急にやめてしまう」と兄のマーティは振り返る。
子どもたちは、両親が聴いていたフォーク・ミュージックのレコードを聴きながら育った。スティーヴ自身もしばらくクラリネットを吹いていたが、ヘルゲート高校でラモーンズに出会う。最初は彼も友人たちも、ニューヨーク・パンクの始祖たちのサウンドを馬鹿っぽいと思っていたという。「でも時間が経つにつれて、ラモーンズの最初のアルバムには不思議な引力があることに気づいて、何度も聴き返すようになった。そして、あれこそ史上最高のレコードなんだって理解したんだ。それに、”自分はこういう生き方がしたいんだ”って思った。友達とつるんでバカをやって、挑発的でくだらない音楽を書く、そんな生き方をね」と、スティーヴは後に振り返っている。

左から小学2年生/中学1年生/高校2年生のアルビニ(Courtesy of the Albini Family)
17歳のとき、スティーヴはオートバイ事故で脚を骨折した。療養中に独学でベースを覚え、高校最終学年を迎える前の夏には、友人のヘザー・ゴンシアーらとともにジャスト・ダッキー(Just Ducky)というバンドを結成した。「たぶんミズーラ初のパンク・バンドだったと思う」と彼女は語る。「演奏はひどかったけど、すごく楽しかった」。
高校時代、スティーヴは複数の殺害予告を受けていたという。その多くは、彼が高校新聞に書いていたレコード・レビューが原因だったとマーティは話す。
家庭内では、子どもたちと父フランクとの関係は複雑なものだった。マーティによれば、父親は「愛情深かったが、時には厳しい人」だったという。そしてこう続ける。「父はアルコール依存症だった。僕らは少し怖がっていたんだ。暴力を振るう人ではなかったけど、とても頭が良くて、皮肉のセンスが鋭かった。その矛先が自分に向くと、本当にきつかった」。
2000年頃、感謝祭の日に、スティーヴはフランクに向けて書いた賛辞の文章を贈り、父を驚かせたと母ジーナは語る。「その時スティーヴは、自分が法的に”フランク”をミドルネームにしていたことを父親に伝えたの。夫は本当に感激していたわ」。なお、フランクは2005年に癌で亡くなっている。
1980年、18歳になったスティーヴは、ミズーラを離れ、シカゴ郊外エヴァンストンにあるノースウェスタン大学メディル・スクール・オブ・ジャーナリズムへ進学した。母親は、彼がその道に進むものと思っていたという。「音楽に出会って、こんなに長く続けるとは思わなかった。どうせまた別の興味が現れると思っていたの」。
ノースウェスタン大学で、アルビニはすぐに学内バンド、アージ・オーヴァーキルのメンバーたちと親しくなった。ボーカル兼ギタリストのナッシュ・ケイトーは、学生新聞『Daily Northwestern』でアルビニと一緒に仕事しており、2人は辛辣なユーモアのセンスを共有することで意気投合した。「誰を怒らせようが気にしない連中だった」と、アージ・オーヴァーキルのエディ・”キング”・ローザーは語る(ケイトーは今回の取材を辞退)。ローザーによれば、アルビニはまるでロックスターのように振る舞っていたという。「自分だけのスタイルを持っていて、自信満々で、自分には同世代の人間にはない超人的な知性があるってわかっている、そんな感じだった」。
アルビニは、写真修整の仕事を1日14時間こなして生活費を稼ぎ、ケイトーはその助手を務めていた。DIY精神を持っていたアルビニは、その昼間の仕事で得た金を音楽活動へ注ぎ込み、地元スタジオでアージ・オーヴァーキルの初期音源を録音したりもしていた。「彼が”バンドの録音方法”を覚えていくその時期に、すぐそばにいられたのは幸運だった」とローザーは振り返る。「たぶん彼は、単純にやり方を学びたかっただけなんだと思う」。
過激で、不謹慎で、悪名高き時代
80年代半ばになる頃には、アルビニは”人間の最悪な部分に魅了された、長身で口の悪い気味の悪い男”というキャラクターで名を知られるようになっていた。彼のバンド、ビッグ・ブラックは、児童虐待(「Jordan, Minnesota」)、放火癖(「Kerosene」)、残虐な処刑(「Colombian Necktie」)といった題材を、狂騒的なアート・パンクとして吐き出していた。アルビニは金属製ピックでギターを弾いていたため、そのリフは、バンドメイトのサンティアゴ・デュランゴによる屈強なギターの猛攻や、”ローランド”と呼ばれていたドラムマシンの機械的ビートと比べて、乾いた硬質な響きを持っていた。
同じ頃、アルビニは『Forced Exposure』のようなZINEで、皮肉に満ちた、わざと不快感を与える論説も書いていた。さらに後には、気に入らないミュージシャン(友人のバンドも含めて)について、メディア相手に好き放題毒を吐いていた。「彼は信じられないようなツアー日記を書いていたよ」と、ジョーブレイカーのブレイク・シュワルツェンバックは振り返る。「ある日記では、”ドイツで猛烈にムラムラして、ヒトラー青年団の少年みたいな見た目の女を探していた”なんてことを書いてた」。

ビッグ・ブラック、1986年撮影(Photo by Gail Butensky)
アルビニは、その悪趣味なキャラクターをステージ外でも貫いていた。「彼の家に行くと、自分の足を撃ち抜く人間とか、股間を板に打ち付けて歩き回ろうとする人間のビデオを見せられるんだ」と、元スリントのギタリスト、デヴィッド・パホは語る。この時期、アルビニはあるレコードに極めて差別的な『Hey N——er』というタイトルを付けようとしたこともあったが、バンドメンバーたちが反対した。
今読むと顔をしかめたくなるような、意図的に悪趣味な振る舞いばかりだったにもかかわらず、アルビニの挑発的な言動は観客を惹きつけた。シアトルで行われたビッグ・ブラック最後のライブには、サウンドガーデンのキム・セイル、マッドハニーのマーク・アーム、そしてニルヴァーナのカート・コバーンも足を運んでいた。また、ビッグ・ブラックの所属レーベルだった〈Touch and Go〉 によれば、バンドの2枚目にして最後のアルバム『Songs About Fucking』は、1987年に同レーベルで最も売れた作品となり、その後も毎年トップセラーであり続けたという。
1987年8月9日、ビッグ・ブラック最後のライブ(フル映像)
アルビニの次のバンドは、ビッグ・ブラックの攻撃性にブルージーでグルーヴ重視の要素を加えたものだった。しかし、彼が選んだバンド名──日本の漫画から取った「レイプマン」──は、多くの潜在的ファンを遠ざけた。「信じてほしいけど、名前の候補は他にもあったんだ。それでも彼はあれを選んだ」と、レイプマンのドラマー、レイ・ウォシャムは語る。ウォシャム自身、その名前を後悔しているという。「誰にバンド名を伝えても、”うわ、マジかよ?”って反応だった」。
数十年後、アルビニ自身も、その最も悪名高いバンド名について考え直すようになっていた。「あの選択を正当化することはできないね」と、彼は2014年にRolling Stone誌へ語っている。「バンドには誇りを持っているし、自分たちの作った音楽も誇りに思っている。でも、あの名前は擁護できない。ただ、だからといって謝罪するつもりもない」。
エンジニアとしての絶大な信頼
そうした物議を醸す存在でありながらも、アルビニはミキシング・デスクの向こう側で、新たなキャリアも築き始めていた。80年代半ば、アージ・オーヴァーキルやプッシー・ガロアのセッションは、低予算かつ短期間で行われ、それがさらに多くの仕事へとつながっていった。2000年代半ばまでには、自身が手がけたアルバムは1500枚から2000枚に達していると見積もっていた。
彼の伝説を決定づけた作品となったのが、1988年に発表されたピクシーズの『Surfer Rosa』だった。ギターは唸り、ノイズを撒き散らし、ボーカル──「Broken Face」でのブラック・フランシスの絶叫、「Where Is My Mind?」での甘い歌声、そして「Gigantic」におけるキム・ディールのメゾソプラノ──は、リスナーを包み込むように響いていた。「ピクシーズって、もともとはちっぽけで頼りない感じのバンドだったんだ。でも[レーベルは]、もっと”ラララ!”って感じの勢いを求めていて、それをスティーヴ・アルビニが実現してくれた」と、フランシスは語る。このアルバムは、その後アルビニが録音を手がけることになるニルヴァーナからPJハーヴェイに至るまで、多くのアーティストへ絶大な影響を与えた。
この頃のアルビニは、スタジオ実験の技法にも強く傾倒していた。スリントの『Tweez』では、天井からマイクを吊り下げ、ボーカル兼ギターのブライアン・マクマハンの耳の周囲で振り回したり、バンド自身が鉛筆を使ってテープを引き伸ばし、巨大なテープループを作ったりもした。ジーザス・リザードの「Nub」では、フロントマンのデヴィッド・ヨウが仰向けに寝転がり、胸の上にマイクを設置。アルビニはさらに、口元近くのスタンドにも1本、天井からももう1本マイクを吊るした。「録音が始まると、彼はそのマイクを軽く放り投げるんだ。そうすると、曲の間ずっと僕の周囲をぐるぐる回り続ける」とヨウは振り返る。「位相が絶えず変化していくんだよ」。
ピクシーズのキム・ディールは、その後、自身の別バンドであるブリーダーズの録音もアルビニに依頼することになり、彼の率直な人柄によって長年の友情を築いていった。「彼は[機材や技術についての]質問に、普通の言葉で答えてくれた。それで最後に、たぶん何か面白いことを一言付け加えるの」と彼女は振り返る。同様に、PJハーヴェイが1993年作『Rid of Me』を録音していた際、アルビニは彼女に自信を与えていたという。「彼は、”僕はただ録音してるだけだ。この曲を書いたのは君なんだから”って言ってくれた」とハーヴェイは語る。

1991年撮影のアルビニ。料理好きとしても知られていた(Photo by Gail Butensky)
一方のアルビニ自身も、1992年頃から再び自分の音楽活動へ戻っていった。ドラマーのトッド・トレイナーと演奏を始めたのだ。「彼が、”28歳になってまだバンドをやってるなんて思ってた?”って言ったのを覚えてる」とトレイナーは振り返る。「特にパンク・ロックの感覚からすると、その年齢は完全に”終わった歳”みたいに思えたんだ」。やがてベーシスト兼レコーディング・エンジニアのボブ・ウェストンが加入し、アルビニがシェラックと名付けたバンドの陣容が固まった。「彼がその名前を気に入ってたのは、”昆虫由来で作られる数少ない工業製品のひとつ”だったからなんだ」とウェストンは語る。
徹底したDIY精神を持つ3人は、天候に合わせてツアー日程を組み、サウンドチェックの時間を節約するためにトレイナーをステージ前方に配置し、契約書も一切交わさなかった。「スティーヴは、僕なら絶対ハマらないような、とんでもなくノイジーで攻撃的な音楽が大好きだった」とウェストンは振り返る。「僕はELOが好きだったし、トッドはスタジアム・ロックにどっぷりだった。でも全員、パンクやポストパンク、それにレッド・ツェッペリンやAC/DC、ZZトップみたいなハードロックへの深い愛情は共有していた」。そうした要素が結びつき、シェラックの楽曲は、鋭利で皮肉に満ちたものになっていった。たとえば猛烈にヘヴィな「Prayer to God」では、アルビニが、自分を捨てた女と、その女を奪った男を神に罰してくれと懇願する。「女みたいに泣かせてくれ」とアルビニは歌う。「特定の”女”って意味じゃないけどな」。
「多くの人は、シェラックを”怖くて意地悪なバンド”だと思ってたと思う」とウェストンは言う。「でも僕ら自身は、あのバンドを馬鹿馬鹿しくて、ハチャメチャで、楽しくて、おかしいものだと思ってたんだ」。
ニルヴァーナが『Nevermind』に続くアルバムの録音をアルビニへ依頼したとき、彼は4ページに及ぶFAXを送り返し、「数日で一気に録音を終わらせよう。音質は高水準に保ちつつ、プロダクションは最小限にして、レコード会社の頭でっかちな連中には口出しさせない」と主張した。さらに彼は印税も拒否し、何百万ドルもの利益を生み得た作品に対して、10万ドルとされる固定報酬のみを受け取った。「俺たちはスティーヴに実力を証明しなきゃいけなかった」と、ベーシストのクリス・ノヴォセリックは2013年に振り返っている。「だからスタジオに入って、(収録曲の)『Serve the Servants』を一発録りで決めたんだ」。
実際、ニルヴァーナのレーベル側は、アルビニによる剥き出しで生々しいサウンド作りに不満を漏らし、後にカート・コバーンはR.E.M.のプロデューサーだったスコット・リットに数曲のリミックスを依頼した。それでもバンド自身は、レコーディングの過程に大きな満足感を抱いていた。デイヴ・グロールは3日間でドラムを録り終え、コバーンもおよそ7時間で全ボーカルを録音してしまった。
この経験によって、さらに多くのバンドがアルビニのもとを訪れるようになり、90年代にはブッシュ、ヴェルーカ・ソルト、チープ・トリック、さらには元レッド・ツェッペリンのロバート・プラントとジミー・ペイジらによるメジャー作品も手がけるようになった。10年代の終わり頃には、彼はより型破りな仕事も受けるようになり、その対象はやがてジョアンナ・ニューサム、ゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラー、ロウのような、静かで繊細な作品群にまで広がっていった。「彼が、その挑戦を心から楽しんでいたのが伝わってきた」と、ロウのアラン・スパーホークは語っている。
「いい人になった」成熟の背景
Electrical Audioがオープンしたのは1997年のことだった。「彼のスタジオ設計は、独学と音響への理解が混ざり合ったものだった」とボブ・ウェストンは語る。「彼やバンドがやってきたことは、全部DIY精神に根差していた。”やり方を自分で見つけろ。本を読め、経験を積め、質問しろ。そして仲間と一緒に実現方法を考えろ”っていう人だったんだ」。
アルビニと友人たちは、その多くがバンド活動をしていたこともあり、自分たちのパンク的価値観をスタジオの壁そのものに刻み込んだ。メインの施工業者はミュージシャンのピート”フラワー”・コンウェイで、Tarのベーシスト、トム・ザルッキイが大工仕事全般を担当した。Pegboyのジョー・ハガティが配管工事の大部分を手がけ、ウェストンは配線を担当。さらにビッグ・ブラック/ネイキッド・レイガンのジェフ・ペザーティが空調設備の設置を手伝い、配管工でもあったネイキッド・レイガンのピエール・ケズディも作業に加わった。
Rolling Stone誌が2024年7月──本来ならアルビニの62歳の誕生日になるはずだった日に──スタジオを訪れると、2階には青い作業用ジャンプスーツがフックに掛けられていた。壁には、ダイアノガのベーシストでヴィジュアル・アーティストでもあり、Electrical Audioの建設にも携わったジェイ・ライアンによるシルクスクリーン・ポスターが飾られている。1階のStudio Aには、2台のグランドピアノ、多種多様な楽器、3つの演奏スペース、そしてラウンジ風のコントロールルームが備えられている。2階にはキッチン、オフィス、ラウンジ、さらにStudio Bのコントロールルームがあり、その広大なライブ・ルームは吹き抜けで2階分の高さがある。Studio Bの機材の多く──コントロールルームのコンソールも含めて──は、アルビニのホームスタジオから直接持ち込まれたものだった。チーフ・エンジニアのグレッグ・ノーマンによれば、アルビニは「嫌な奴じゃない限り」、誰の録音でも手頃な料金で引き受けていたという。ノーマンは19歳でElectrical Audioに入り、1996年の建設段階から携わっていた。

アルビニは、自身のレコーディング哲学を具現化する空間として、エレクトリカル・オーディオを築き上げた(© Monfourny Renaud/DAPR/ZUMA)
90年代を通じての絶え間ない仕事のせいなのか、あるいはウィナの影響なのか、アルビニの友人たちは彼の変化に気づき始めていた。「彼、いい人になったのよ」とヘザー・ゴンシアー(高校時代の友人、Just Duckyでのバンドメイト)は語る。「90年代後半のある時、彼がコンサートでポートランドに来ていて、私は彼を見て思わず、”スティーヴはどこ? あなた、彼に何したの?”って言っちゃった」。
2018年頃になると、荒れていた時代からアルビニを知るサンO)))の中心メンバーたちも、彼の成熟を感じていた。「90年代初頭の彼は、典型的な”感じの悪い奴”って印象だった」とグレッグ・アンダーソンは振り返る。「女の人と付き合っている姿なんて全然想像できなかった。グリンチみたいな人だったからね……。だから、彼が変わっていったのを見ることができてよかったよ」。
シンガーソングライターのシャノン・ライトは、セッションを依頼し、その後友人になるまで、アルビニの過去について何も知らなかった。彼女は、シェラックの前座を務めていたある夜のことを覚えている。客席の男性ファンが、女性差別的な野次を飛ばしてきたのだ。「スティーヴは本当にがっかりしていた」と彼女は語る。「彼があれほど深く傷ついていたことが、私にはすごく大きな意味を持った」。後になってアルビニの過去を知ったときも、彼女はそれほど気にしなかったという。「彼も私たちみたいに、愚かな過ちをしたというだけ」と彼女は言う。「ただ、その失敗がZINEに載って残ってしまっただけ。そういうものって永遠に消えないから。でも彼は、本当にそういう部分を乗り越えていたと思う」。
アルビニと定期的にポーカーをしていた友人たち──彼は2018年と2022年にワールド・シリーズ・オブ・ポーカーのブレスレットを獲得しており、その賞金は収入の25〜30%を占めるほどだった──によれば、近年の彼は、仲間内の会話や価値観を前進させる存在でもあったという。アンディ・コシンスキーは、ゲーム中にアルビニが左派的な政治観を主張したり、保守的な考えを持つ見知らぬ相手にトランスジェンダーの人々を擁護したりしていたことを覚えている。また彼は、仲間同士で侮辱として使っていた「今では一般的に不快だと考えられている特定の言葉」をやめるよう、グループを説得した。

晩年のアルビニはポーカーに本格的にのめり込んでいった。写真は2008年のAll Tomorrows Partiesフェスティバルでの一枚(Photo by Roger Kisby/Getty Images)
2016年の転機、突然の最期
だが、アルビニが社会正義への意識を持つようになったのは、一夜にして起きた変化ではなかった。ウィナは2002年、シカゴの即興コメディ名門劇団セカンド・シティで働いていた。その頃、(コメディアンの)デイナ・ミン・グッドマンとジュリア・ウォロフが、ルイ・C・Kにホテルで自慰行為を見せられたと周囲に打ち明けていたという。そして15年後、その経験は公になる。(ルイ・C・Kは当時の声明で、その話が事実であることを認めている。「これからは一歩退いて、長い時間をかけて耳を傾けるつもりだ」と、彼は2017年にニューヨーク・タイムズ紙へ語った)。アルビニは『Louie』のファンであり、ウィナからその話を聞かされた後も番組を見続けていた。
ウィナによれば、アルビニは次第に、自分が白人男性として生きてきたことで、多くの人たちとはまったく異なる現実の中で暮らしていたのだと理解し始めたという。たとえば、彼らの家に滞在していた黒人女性の友人が車を借りる際、警察官に危険視されることを恐れたウィナが、「この女性には車を使う許可があります」と書いたメモを持たせなければならなかったことも、その一例だった。
ウィナによれば、転機となったのは2016年11月の大統領選挙だった。「私たちは、”この国の大多数は人種差別的で、白人至上主義は現実に存在する”ってよく議論していたの」と彼女は語る。「でもスティーヴは、それを信じてなかった」。2人はその件で賭けまでしていたという。だがドナルド・トランプが勝利すると、彼はもはや否定できなくなった。
「快適な立場と特権に甘えた無知さから、僕がこれまで口にしたりしてきたことの多くは、明らかにひどいものだったし、後悔している」と、アルビニは2021年、広く拡散されたTwitterスレッドに記している。「そんな過去を、誰かに大目に見てもらう権利なんて自分にはないし、自分自身を償う責任があると思っている」。彼はまた、「理解や寛容を期待しているわけではない」とも書き、「”過激ぶって人を不快にさせる”ようなくだらないノリを、自分が助長してきたことについて、ちゃんと向き合うべき時期はとっくに来ている」と付け加えた。
そして彼は、その言葉どおり、晩年の数年間、自らの過去について率直に語り続けた。「議論の中で一番馬鹿な人間が自分と同じ側にいると気づいた時、それはつまり、自分が間違った側にいるってことなんだ」と、彼は2023年にガーディアン紙へ語っている。

アルビニとウィナは、1996年に慈善活動「Letters to Santa」(貧困家庭の子どもたち/家族へプレゼントや生活支援を届ける活動)を立ち上げた(Courtesy of Heather Whinna)
友人たちへの愛情は、次第に彼の攻撃的な気質を上回るようになっていった。「彼は友達への愛情を、すごく率直に口にするようになっていた。ある時から突然、電話を切る時に”愛してるよ(I love you)”って言うようになったんだ」と、ポーカー仲間のコシンスキーは語る。デヴィッド・パホも、2024年初頭、コンサート会場でアルビニと最後に会った時のことを覚えている。「別れ際に、”愛してるよ”って伝えたんだ。すると彼の目がすごく優しくなった。マスクを二重にしていたけど、笑ってるのがわかった。それで彼は、”僕も愛してるよ、デイヴ”と言って去っていった」。
「自分の過去を見直し、成長し続ける柔軟さ──それこそ、社会にポジティブな男性像が不足している今、理想的な男性のあり方だと思う」と語るのは、ウィルコのジェフ・トゥイーディだ。彼は90年代初頭、セントルイスのバンド、ダズリング・キルメン(Dazzling Killmen)の作品を一緒にプロデュースした際に、初めてアルビニと出会った。アルビニは、トゥイーディの妻スー・ミラーが共同経営していたライブハウスLounge Axの常連でもあり、2人は親しい友人になっていった。「あれほど強烈なのに、同時に変化する柔軟さも持った人間を友達に持てたことは、本当に美しい経験だった」とトゥイーディは付け加える。

2007年、シェラックのステージに立つアルビニ(Photo by Marc Broussely/Redferns/Getty Images)
2024年4月下旬、アルビニとElectrical Audioのグレッグ・ノーマンは、レコーディング技術のセミナーを行うためフランスへ飛んだ。アルビニは5月4日にシカゴへ戻り、そのままレコーディング・セッションへ向かった。アート・ロック・バンドのFACSが、新作『Wish Defense』の録音とミックスを彼に依頼していたのだ。数日後の5月7日、作業を終えようとしていた時、FACSのブライアン・ケースが、当時リリース前だったシェラックの新作『To All Trains』についてアルビニに尋ねた。「すると彼、30分くらい延々と話し始めたんだ」とケースは振り返る。「それで最後に、”Hasta mañana(また明日)”って言った」。
いつものように、その後アルビニは帰宅し、ウィナのために夕食を作った。彼女は2階へ上がり、パソコンで作業をしていた。しばらくしてアルビニも上がってきて、「胸が締め付けられる感じがするから、救急診療所へ行く」と告げた。彼女は病院へ連れて行くと言ったが、その直後、彼は階段で崩れ落ちた。「その夜ヘザーから電話があって、かなり取り乱していたから、僕らはすぐ家へ駆けつけた」と、シルクワームのティム・ミディエットは語る。彼と妻が到着した時には、すでに救急隊員たちが現場にいた。そのうちの1人がウィナを2階へ連れて行ったという。「本当は行きたくなかった」と彼女は振り返る。「ずっと彼のそばにいたかったの」。
アルビニは病院へ搬送されたが、医師は、彼が助からなかったことを告げた。
アルビニを知る人々が愛した「真の人間性」
世間はこれからも、アルビニを、彼が手がけた数々のレコードと、率直で対立的なパブリック・イメージによって記憶していくだろう。しかし、実際に彼を知る人々にとっては、惜しみなく人に与える寛大さ、卓越した知性、誠実さ、そして互いを支え合う結束の強いコミュニティを育んだ人物として記憶されている。
キム・ディールは、双子の妹でありブリーダーズのバンドメイトでもあるケリーと話した時のことを振り返る。ケリーはこう言ったという。「彼が長年音楽に関わってきたことが、彼自身の魅力の中でいちばん重要だとは思わない。あの人は、あらゆる物事に対して素晴らしい視点を持っていた。ひとつのテーマについて、パラグラフ(段落)単位で延々と語れる人だった」。
アルビニは、どんなテーマであれ、友人たちと議論することを楽しんでいた。「彼は、自分でも擁護できないような立場をわざと選んで、その立場のために議論すること自体を楽しんでいるように見えた」とジェフ・トゥイーディは語る。「本当は守る必要なんてないと思っているものを、あえて弁護するのが楽しい挑戦だったんだ」。
そして彼は、困っている人には惜しみなく金を渡していた。「彼は、お金が人の人生を支配して、壊してしまうほどの力を持っていることを嫌っていた」とウィナは語る。「たぶん私たちが本当に共有していたのは、2人とも”強欲(greed)”というものに強い嫌悪感を抱いていたことだったと思う」。

2024年11月、パートナーのウィナ(中央)、キム・ディール(右)、Electrical Audioのスタッフたちが、「Steve Albini Way」の道路標識を披露(Photo by Althea Legaspi)
彼の死後、世界中のコンサートでアルビニへの追悼が行われた。彼が亡くなった年の夏、バルセロナで開催されたPrimavera Soundでは、パルプとPJハーヴェイがそれぞれのステージで彼に敬意を表し、フェスティバル側も、シェラックが出演するはずだったステージに彼の名前を冠した。また友人たちは、イリノイ州のミシガン湖畔で4日間にわたる集まりを開き、アルビニの人生を祝福した。ツナミのジェニー・トゥーミーは、シカゴのライブハウスHideoutで、アルビニが愛したサイコロゲーム「Kariki」を教えるイベントを開催した。そのイベントでは、アルビニとウィナが1996年に始めた慈善活動「Letters to Santa」のための資金も集められた。この活動こそが、アルビニが後年に見せた前向きな変化につながったのではないか、と語る人も多い。
そして彼の遺産は、今もElectrical Audioに生き続けている。アルビニが亡くなった翌日、スタッフたちはまだショックの中にいて、友人であり、師であり、リーダーでもあった彼の死を悲しむ暇すらほとんどなかった。それでも彼らは、アルビニならそうしたであろうように仕事へ戻った。FACSのブライアン・ケースは、アルビニの死の翌日、Electrical Audioのエンジニア、テイラー・ヘイルズから電話を受けた時のことを覚えている。「”明日、続きやりに来る?”って言うんだ」とケースは振り返る。そして彼らは翌日、再びスタジオへ戻った。
アルビニの遺産を受け継ぐElectrical Audio
2025年5月、アルビニの死から1年を迎える数日前、私たちが再びElectrical Audioのスタッフを訪ねると、彼らは”アルビニ不在”という新しい日常を生きながらも、なお深い悲しみを抱えていることがはっきりと伝わってきた。場所はStudio Aのコントロールルーム。アルビニが最後のセッションを指揮した場所であり、入口近くには、彼が着ていた青と緑、2着のジャンプスーツが今も吊るされたままになっている。
Electrical Audioには数多くの逸話が残っているが、そのひとつが、「アルビニは仕事中いつもジャンプスーツを着ていた」というものだ。その習慣の起源は、90年代半ばのスタジオ建設時代にさかのぼる。当時アルビニは、ペイジ&プラントの仕事やシェラックのツアーで何カ月も不在にしていた。残ったスタッフたちは工事を続けていたが、解体作業の最中で粉塵が舞い散っていたため、服を守るためにジャンプスーツを着始めたのだ。「”スティーヴが戻ってきたら、全員ボロボロの『e』ロゴ入りジャンプスーツを着て、髭ぼうぼうの囚人労働者みたいな格好で出迎えよう”っていう、ふざけたサプライズを思いついたんだ」とノーマンは振り返る。アルビニは帰ってくると、その格好を”連帯の証”として自分も取り入れた。「彼はただ、クルーの一員でいたかったんだよ」とチーフ・エンジニアは付け加える。

生前のアルビニが着用した『e』ロゴ入りジャンプスーツ(Photo by Althea Legaspi)
スタッフたちは、スタジオでアルビニと過ごした日々の思い出を語ってくれた。ふわふわの泡が乗ったコーヒーが大好きだったこと。スタジオで暮らしていた猫のフルスが、彼の手がけたレコードでしばしば”プロデューサー”としてクレジットされていたこと。そして、自分の愛する人たちだけでなく、Electrical Audioで録音することを選んだすべての人へ惜しみない献身を注いでいたこと。
アルビニが亡くなる前から、スタッフたちはすでに、彼の引退後を見据えてスタジオの自立体制づくりを進めていた。彼は何年も前から、ウィナとともにハワイへ移住したいと話していたのだ。その準備として、アルビニは、かつてZINE『Forced Exposure』で共に執筆していた友人バイロン・コーリーに、自身の私物を売却する計画を相談していた。彼の死後、コーリーはその計画を引き継いだ。2025年5月初旬には「Steve Albinis Closet」が本格始動し、収益はアルビニの遺産管理のために充てられている。
アルビニは結局、引退後の夢を実現する前に亡くなってしまった。しかしElectrical Audioは、今も彼が望んでいた未来へ向かって動き続けている。「彼は、このスタジオにとって父親みたいな存在だった」とエンジニアのテイラー・ヘイルズは語る。「この場所はこれからも続いていく。そして、今度は”子どもたち”がここを引き継いでいくんだ。あなたは安心して夕陽の彼方へ去っていけばいい、っていう感じだった」。なおウィナによれば、2026年、スタジオは非営利・免税団体として「Electrical Audio Foundation」の認可を取得し、今後も同じ精神のもとで運営が続けられていくという。
スタッフたちは、アルビニが最も幸せそうにしていた姿を、最後にもう一度見ることができたことに感謝している。それは、シェラックの『To All Trains』を録音していた時の彼だった。「バンドの一員として、自分自身を録音している時の彼は、まったく別人なんだ」とノーマンは語る。「靴も履かずに、靴下のまま走り回っていて。興奮していて、子どもみたいにはしゃいで、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてるんだ」。
アルビニにはどこか神秘的なイメージがつきまとっている。しかし、なぜ彼がこの仕事を人生の使命として選んだのかと尋ねると、ノーマンはシンプルにこう答える。「純粋な情熱、それだけだよ」。
「彼は本質的に、バンドの人生そのものを、最も正確な形で記録する手助けをしていたんだ」と、Electrical Audioの長年のエンジニア、ジョン・サン・パオロも付け加える。「彼は、そのことにものすごく大きな意味を見出していた」。
そして今、すでに新しい世代がスティーヴ・アルビニの遺志を受け継ぎ始めている。Electrical Audioが最後にフルタイム採用を行ったのは2023年4月だった。彼らも、それ以前のエンジニアたちがシェラックのテープオペレーターを務めていたように、アルビニのためにPro Toolsを操作していた。アルビニ自身は、最後までアナログ・テープのみを使うやり方を貫いていた。
1年前、2階に吊るされていたあの青いジャンプスーツは、今では少し横のフックへ移されている。それでも、同じラックに掛けられたままだ。それは、Electrical Audio最年少のスタッフであり、初の女性エンジニアでもあるローレン・”マック”・マクドナルドのものだという。「セッションを回す時は、いつもこれを着るんです」と彼女は語る。「本当に、自信がもらえるんですよ」。

Photo by Althea Legaspi
From Rolling Stone US.
