15年前、37歳でヨメこと妻・睦(むつみ)さんと結婚した清水浩司さん。入籍の翌月に睦さんの妊娠判明とともに直腸がんの告知を受けます。そして出産、闘病、別れまで、わずか1年4カ月。睦さんとの別れのあと、浩司さんはうつ病を発症し、治療しながらフリーランスでの働き方を選びます。

生きるとは、働くとは、幸せとはなにか考えるシリーズ「生きる、働く、ときどき病」。今回は清水浩司さんにお話を伺います。全3回のインタビューの3回目です。

再婚して3人家族に

睦さんが他界したあと、広島の実家に幼い息子・ぺ〜くんを預けて働いていた浩司さん。ぺ〜くんが3歳のころに新たなパートナーと再婚します。

  • 幼いころのぺ~くんと浩司さん

    幼いころのぺ~くんと浩司さん

「当時、広島で生活し始めたころは無職でうつ病でしたが、東京で働いていたころの同僚の女性がたまたま山口の実家に戻ると知らせがあって再会しました。彼女は子どももいる僕を受け入れてくれ『ぺ〜くんのお母さんになりたい』と言ってくれたのです。僕はとにかくぺ~に“お母さん的な存在"がいてほしいと思っていて、もしそれができるなら物心がつく前がいいとも考え、再婚を早めたところはありました」(浩司さん)

そして、浩司さんとパートナーとぺ〜くんの3人家族の生活が始まりました。

「ぺ〜とは面と向かってヨメの話をしたことはないんです。その代わりというか、小学校2〜3年生のころに『これ、なにかあったら読みなよ』と、ブログを書籍化した小説 『がんフーフー日記』を渡しました。自分の産みの母がどういう人で、どういう状況で彼を産んだのか、そこには書かれています。でもそのあとぺ〜がその本を読んだかどうかは聞いていません。

ぺ〜を産んだ母親のことを詳しく話してはいませんが、毎年お盆と正月にはヨメの実家の福島にも連れて行っています。彼にはおじいちゃんとおばあちゃんが3人ずついる、という感覚です。福島へ行くと友達も集まって、ヨメの思い出話をたくさんします。ぺ〜がそれをどういう感じで聞いているのかはわかりませんが、いつか彼が自分のルーツに 向き合いたいと思ったときのためにも、ヨメとの縁や関係性は守っていきたいと思っています」(浩司さん)

今、ぺ〜くんは16歳の高校2年生。身長も浩司さんより高く成長し、熱心に野球に打ち込んでいます。

ヨメは不幸だったのか?

今から約15年前、1年4カ月の間に結婚・出産・闘病・死別を経験し、さらに自身のうつ病もあった浩司さん。激動の数年間を経て、浩司さん自身の考え方や価値観に変化はあったのでしょうか。

「基本的な価値観は変わってない気もするし、大きく変わったような気もするし……複雑骨折というか多重衝突みたいなもので、父親になったこと、妻を亡くしたこと、東京から広島に引っ越したこと、フリーランスで働くようになったことなど、数年間で大きな環境の変化がいくつもあったから、どれがどれに作用しているのか正直よくわからないんです。いろんなものが全部まざってこんがらがった状態が続いて、そこから何とか抜け出したと思ったらこうなっていた、という感覚かもしれません。

だけどやっぱり、パートナーとの死別は人生でいちばん大きな体験でした。なかでも大きく変わったことは、常に死を意識して生きるようになったことです。人は死ぬ、しかも突然、あっけなく――という事実を目の当たりにして、死は遠い未来にあるものではなく、自分の真横にあるものだと知りました。今も、自分はヨメの死の延長線上を生きている感覚が明確にあります」(浩司さん)

  • 睦さんを励ますため、友人たちがサプライズで開いた『ヨメハゲフェス』での一枚。「結婚してすぐ妊娠、そしてがんが発覚した僕たちは結婚式を挙げていませんでした。友人たちにドレスを着せてもらい、ティアラをつけたヨメは、とてもうれしそうでした」(浩司さん)

    睦さんを励ますため、友人たちがサプライズで開いた『ヨメハゲフェス』での一枚。「結婚してすぐ妊娠、そしてがんが発覚した僕たちは結婚式を挙げていませんでした。友人たちにドレスを着せてもらい、ティアラをつけたヨメは、とてもうれしそうでした」(浩司さん)

15年前の睦さんとの別れを経験したからこそ、「何が幸せかを考えるようになった」と浩司さんは言います。

「ヨメのことを『30代で亡くなるなんて、若いのにかわいそう』と言われることがあります。でもヨメは本当にかわいそうだったんでしょうか。もちろん生きた年数は38年と短かったし、ぺ〜の成長する姿も見たかっただろうし、心残りはあると思います。

だけど多くの友人たちに心配されて愛されながら最期を迎えられたヨメは、ただ不幸ではなかったんじゃないか、とも思うのです。若かったからこそ友人も元気だし、とことんまで互いを気遣うことができた。

むしろ長患いに苦しむ高齢の親戚を見たりすると、『はたして長生きすることが幸せなのか?』という疑問を感じたりします。それと同時に『じゃあ自分にとっては何が幸せなのか?』『どう生きたいと思っているのか?』ということにも向き合わされます。

ヨメとの別れ以降、いちばん変わったのは、ショートケーキのイチゴをいちばん最初に食べるようになったことかもしれません(笑)。楽しみを“いつか"に残しておこうと思わなくなりました。“いつか"が来る保証なんてどこにもありません。あとは大きなうつ病を経験して、どこか一度自分は死んだような感覚もあるんです。なので仕事でもそれ以外でも、自分がだれかの役に立つのであれば何でもいい、何でもやりたいという気持ちもあります」(浩司さん)

患者家族としての経験が今の仕事に与える影響

今、フリーランスの編集者・ライターとして働く浩司さん。15年前の睦さんの闘病経験は、その仕事内容にも影響しています。

「フリーランスの編集者・ライターとしてさまざまな本を作ったり、文章を書いたりしているので、今の仕事の全てがヨメとの日々に直結しているわけではありません。ですが、このような取材を受けたり、闘病経験についての講演をしたりするときの自分はヨメの存在を強く意識しています。自分の人生がヨメとの日々の延長にあって、今なおその上を歩いていることを感じられてうれしくなります。

最近力を入れているのが『聞き書き』を広める活動です。『聞き書き』とはその名の通り“聞く"ことと“書く"ことで、話し手の言葉を聞き取り、それを書き起こして人柄や人生観が伝わるように文章にまとめる作業のこと。終末期の患者さんに聞き書きをすることで、自分の人生を改めて振り返ってもらえたり、介護や看護のボランティアの方がこの技術を習得することで利用者さんとの距離を縮められたりといった部分で活用されています。

  • いろんな人の人生が詰まった『聴き書きBOOK』

    いろんな人の人生が詰まった『聴き書きBOOK』

これは広島で知り合った方が、ある時、『清水さんはライターとして人に話を聞いたり、文章を書いたりができる。さらに奥さんの闘病も経験されて、患者さんの気持ちもわかる。なのでみんなに教えてもらえませんか?』と言ってくださってはじまったんです。そういう意味でも、ヨメとの日々の延長線上にあるというか、ヨメが僕にくれた新しい役割のような気もしているんです」(浩司さん)

浩司さんが広島で仲間とたちと開催するワークショップ「聞き書きラボ」では、参加者が互いに「聞き書き」をしながら自分の人生を振り返り、小冊子を作る活動を行っています。

「僕の場合は、ヨメの闘病中から別れのことを書いたブログに加え、その後の自分のうつ病発症についても『がんフーフー日記』という本にまとめて出版しました。こういう形でアウトプットしたからこそ、ヨメをなくした悲しみや混乱もこの程度で済んだのかな、とも思うんです。

自分の心の中をだれかに話したり、文章に書き出したり、本のような形にして客観視したりすると、心が少し軽くなったり、つらいできごとをなんとか受け止めたりできるのかな、と。アウトプットしないままだと、もっと内面に抱え込んでもやもやし続けるかもしれませんよね。特に大事な人をなくしたような場合は、なくなった方の思い出を外に出してまとめることは“グリーフケア"につながると思うんです」(浩司さん)

今暗闇の中にいても、そのままのあなたでいい

睦さんの闘病を終えたあとうつ病を発症した浩司さんは、今も不定期的に感情が落ち込むことがあり、そんなときは薬を飲んで体を休めて調整しています。浩司さんに当時の自分と同じように暗闇の中にいる人にかけたい言葉を聞きました。

「『結局、生きてしまうんだから』ということです。僕の場合、ヨメの闘病中に生きるエネルギーを大量に前借りして使いきってしまい、うつ病を発症したイメージです。しばらくは自分が穴の開いたバケツみたいになって、いくら休んでもまったく気力が貯まらない状態でした。

それでも、人ってずっと寝たままじゃいられないんです。僕は唯一信じていることがあって、それは人が生きようとしてしまう生命力みたいなもので。いくら絶望しても、死にたいと思っても、ずーっと心を閉ざして死んだように生きることはできないんです。やっぱり何かをやりたくなってしまう。おいしいものを食べたくなってしまう。まわりの人たちを喜ばせたいと思ってしまう。暗闇から這い出して、ふざけたり、間違えたり、ジタバタしてしまうものだと思うんです。少なくとも、僕自身はそうでした。

だから、好きなだけ休んだりサボったり落ち込んだり自分を責めたりすればいいと思います。だって『結局、生きてしまうんだから』。結局、生きてしまうんだから何をやったっていいんじゃないでしょうか」(浩司さん)