
源頼朝・源頼家という二代の鎌倉殿へ奉公し「鎌倉の本体の武士(理想的な鎌倉武士)」と評された梶原景時(かじわらの かげとき)。有能な懐刀ゆえに鎌倉殿の汚れ仕事を引き受けた結果、御家人たちの怨みを買って粛清された悲劇の忠臣でした。
今回はそんな梶原景時一族が眠る墓と供養塔を紹介。本稿が彼らの遺徳を偲ぶ縁(よすが)となれば幸いです。
墓は深沢小学校の裏庭に
梶原景時らの墓と供養塔は、鎌倉市立深沢小学校(以下、小学校)の裏庭にあります。
参拝される際は、小学校の許可をとるようにしてください。
参拝許可の手続き
と言っても堅苦しい手続きではありません。まず小学校の受付スタッフに一声かけて、見学ノートに参拝者情報(参拝日時・代表者・人数など)を記載します。
そして貸与された来訪者カードを代表者が首にさげ、みんな一緒に参拝しましょう。集団から外れて行動すると、不審者と間違われてしまうかも知れません。
そして参拝が済んだら受付で来訪者カードを返却し、すみやかに校外へ退出されるのがおすすめです。
撮影許可の手続き
もし写真や動画を撮影したい場合は「鎌倉市教育委員会の教育指導課に許可をとってください」とのことでした。
プライベートな参拝記念のつもりでも、ふとしたきっかけで公開してしまわないとも限りません。なので教育指導課に電話して、撮影の種類や使用目的を伝えるようにしましょう。
今回「Webメディア上で、鎌倉の史跡を紹介したい」と伝えたところ、快諾していただきました。常識的な目的であればスムーズに許可されるはずですから、撮影許可をとるようにしてください。
参拝の注意点
梶原景時の墓に参拝する時は、以下の点についても、心に留めておきましょう。
授業や行事などの妨げにならないよう、静かに参拝してください。撮影時は児童や教員などが写らないようご配慮ください。飲食はせず(体調維持の水分補給などは除く)、ゴミは捨てないでください。飲食物のお供えは鳥獣害の原因となるためご遠慮ください。墓や供養塔の現状変更はしないでください。気になることがあったら、小学校の受付にお伝えください。鎌倉市教育委員会としては「教育の場であるため、あまり観光客が大勢来られても困る。本当に梶原景時を偲びたい方だけご参拝願いたい」とのことでした。
いよいよ梶原景時らの墓と対面!
ちゃんと許可をとって小学校の裏側へ回り込むと、すぐに墓と供養塔が見つかると思います。
※行き方がわからない時は、小学校のスタッフに聞けば、親切に教えてくれるでしょう。
山肌を四角に穿った「やぐら」の中に、四基の五輪塔(ごりんのとう)が鎮座しています。その傍らには梶原景時公没後八百年忌供養塔が建立されていました。
五輪塔それぞれの建立時期(すべて同時か、順次か)や供養対象(どの五輪塔が誰を祀っているかなど)について、詳しいことは明らかになっていません。
それぞれ風化が進んでおり、形状が大きく異なっていることから、別々に建立されたと考えるのが自然でしょう。
右側の二基はすっかり風化して、キノコみたいになっていました。何だか可愛らしいですね。対する左側の二基は形がしっかり残っており、頑丈でよい石材を使っているのがわかります。
しかし、いずれも梶原景時や梶原一族に対する畏敬の念に違いはありません。心静かに合掌し、景時らの遺徳を偲びましょう。
五輪塔とは
ちなみに五輪塔とは、上から下へ空・風・火・水・地を表す五輪(古代インド思想に基づく、宇宙を構成すると考えられた五元素)の石材から構成され、日本では11〜12世紀(平安時代末期ごろ)から供養塔として普及しました。
発祥となったインドや、経由地の中国大陸・朝鮮半島には現存していない、日本独自の貴重な文化となっています。
梶原景時公没後八百年忌供養塔
1200年(正治2年)1月20日に非業の死を遂げた梶原景時を偲び、没後800年となる2000年(平成12年)9月に、こちらの供養塔が建立されました。
梶原御霊神社(小学校と隣接)と等覚寺(鎌倉市寺分)の関係者によるもので、梶原景時が広く地域の皆さんに敬愛されていることがわかります。
墓前で休憩?古いベンチ
墓を参拝する度に思うのですが、このベンチで休憩する方はいるのでしょうか。
あまり墓前でゆっくりする気にもなれませんし、長時間滞在していると、小学校に迷惑がかかります。また、子供たちが人気(ひとけ)のない裏庭まで遊びに来る様子もありません。
しかし、だからと言って撤去されるのも忍びなく感じるのはなぜでしょうか。今や墓前の風景として、自然に溶け込んでいるようです。
これからも誰に座られることなく、このベンチは参拝者を見守り続けるものと思われます。
梶原景時の基礎知識
せっかく梶原景時の墓に参拝するなら、彼がどんな人物で、どんな生涯をたどったのかも予習したいところです。

1140年(保延6年)生〜1200年(正治2年)没(画像は景時の長男・梶原源太景季)
通称は平三(へいざ/へいぞう)。相模国一帯を治めていた鎌倉一族の分家である梶原党を率いていました。
1180年(治承4年)に伊豆で源頼朝が挙兵すると、それを鎮圧する平家方の大庭景親(おおばの かげちか)に従います。石橋山の合戦では頼朝の軍勢を打ち破るも頼朝を見逃し、後に頼朝の御家人となりました。
その後も息子たち(梶原景季・景高・景茂ら)と共に武勲を重ねる一方、頼朝の地位を脅かしかねない者たちを粛清するなど、ダーティな役回りを引き受けます。上総介広常(かずさのすけ ひろつね)の暗殺や、源義経に関する讒訴(※)などが有名ですね。
※讒訴(ざんそ):相手を陥れるために偽りの訴えを起こすこと。景時はこれを鎌倉殿の権力強化に用いた。
頼朝の死後も頼家の側近として活動しますが、不満を募らせた御家人たちが団結して、景時の排斥運動を始めます。御家人たちの不満を抑えきれなくなった頼家が、梯子を外したことで景時は失脚。間もなく謀叛の疑いで討ち取られてしまいました。
……景時國ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道ニテウタレニケリ。子ドモ一人ダニナク。鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ……
※慈円の歴史書『愚管抄』第六巻より
【筆者による意訳】身の危険を感じた景時は、京都へ上る道中に討たれた。息子たちも一人残らずである。かくして理想的な鎌倉武士であった梶原景時の一族は滅亡した。景時の失脚は頼家の不覚である、と皆がつねづね思っていたら、予想通りこんな事態になってしまったのだ……。
老練な頼朝には使いこなせた景時という名刀を、まだ若い頼家は持て余してしまったようです。対する景時は、自身の才能に驕って時流を見誤り、破滅してしまった悲劇の忠臣と言えるでしょう。
まとめ
今回は鎌倉殿に忠義を尽くした結果、周囲の反感によって生命を落とした梶原景時の墓と供養塔を紹介してきました。
これまで景時は「源義経を陥れた極悪人」という負のイメージが強かったものの、最近では文武両道の忠臣として見直されつつあるようです。
景時は隣接する梶原御霊神社の御祭神としても祀られているので、お時間が許せば参拝されるといいでしょう。
梶原景時の墓および供養塔
参拝時間
平日の日中(早朝や夜間はご遠慮ください)
許可
参拝許可は深沢小学校の受付で手続きしてください
撮影許可は鎌倉市教育委員会教育指導課へ連絡してください
アクセス
所在地:鎌倉市梶原1-12
湘南モノレール「湘南深沢駅」から徒歩4分(深沢小学校まで。270m)
駐車場:なし(公共交通機関のご利用か、近くのコインパーキングがおすすめです)
連絡先
鎌倉市立深沢小学校
電話:0467-44-1226
鎌倉市教育指導課
電話:0467-61-3812
メール:kyouiku@city.kamakura.kanagawa.jp
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