ひとりの男が45年にわたって情熱を注いできたプロジェクト|フレイザー・ナッシュSS【前編】

このフレイザー・ナッシュSSは、ひとりの男が45年にわたって情熱を注いできたプロジェクトだ。今や、ヒストリックイベントで一目置かれるレーシングカーへと変貌した。

【画像】フレイザー・ナッシュの中でも異次元のパフォーマンスを誇ったシングルシーター「フレイザー・ナッシュSS”フェーン・カー”」(写真5点)

マイク・ギブスが、自身のレーシングカー、フレイザー・ナッシュSSを取材しないかと『Octane』に連絡をくれたとき、彼はカッスルクーム・サーキットなら走行シーンの撮影場所を提供してくれるのではないかと提案した。ところが撮影から数日後に、マイクはふと、カッスルクームとフレイザー・ナッシュには大半の人がまったく知らない縁があったことを思い出した。

カッスルクーム・サーキットとの縁

話はフレイザー-ナッシュ社からはじめよう。1922年にアーチボルド・フレイザー -ナッシュによって創設されたメーカーで、軽量スポーツカーメーカーの生産からスタートしている。しかし1927年に経営破綻したことで新会社AFNリミテッドが設立され、29年に"オールディ"ことH.J.オールディントンに引き継がれた。

1960年代初頭、オールディの友人に、カッスルクーム・サーキットの所有権を相続したキティ・トーマスという女性がいた。多くのサーキットがそうだったように、カッスルクームも元は第二次世界大戦で使われた飛行場で、1950年に最初のレースが行われた。1963年には、オールディはAFNがカッスルクームを使用する3年単位のリース契約を締結。これによって様々なクラブが戦前・戦後のモデルでレースを開催した。多いときには2万人もの観衆を集め、高速アクションを売りにしたシルバーストンにも匹敵する人気だった。

当然ながら、カッスルクームの活動の中心はフレイザーナッシュ・カークラブだった。実は、マイク・ギブスも1965年のミーティングに出走したことがある。だが、写真のフレイザー・ナッシュSSは、当時まだこの世に存在しなかった。航空機エンジニアで、ヴィンテージカーのレストアを趣味にしていたバリー・ピアレスの頭の中では、ぼんやりと形を取り始めていたのだが。

ピアレスは、1930年代中頃にフレイザー・ナッシュが生み出した超希少なシングルシーターを再現したレプリカを造りたいと考えて、そのパーツを集めており、これを若きマイケル・ギブスも手伝った。彼は1960年にフレイザー・ナッシュ・エクセターを購入して以来、”チェーンギャング”のカルトの一員になっていたのだ。彼は今もこのエクセターを所有している(訳注:フレイザー・ナッシュは後輪の駆動を各変速段ごとに備えられたチェーンに依存している。そのためチェーンギャングの異名がある)。

この時代のフレイザー・ナッシュはどれも”ホット”なマシンだが、シングルシーターは異次元のパフォーマンスを誇った。大ざっぱにまとめると全部で6台ある。ただし、1台目はロードカーからのコンバートで、3台目と4台目は社外で製造され、6台目は個人が製造したヒルクライム/スプリント用スペシャルだった。対して、2台目と5台目は、1935年6月と1936年5月にAFNで製造された。なかでも2台目は好成績を挙げたドライバーの名に因んで”フェーン・カー”として知られている。最初のオーナーのエイドリアン・ソープは何の成功も収められなかったが、AFNが買い戻して”ワークス”ドライバーのAFP・フェーンに与えると、様々なレースではるかによい成績を残したのだ。マイクが所有するSSは、このフェーンのマシンの複製なのである。

1960年代初頭にバリー・ピアレスが製造を始めたこのシングルシーターは、実は1986年にようやく走行できるようになった。同年、シルバーストンで開催されたヴィンテージ・スポーツカークラブ(VSCC)のレースで初出走を飾るが、栄光にはほど遠かった。ただし、”テストドライバー”は豪華だった。『Motor Sport』誌のヨーロッパ担当記者で、1955年のミッレミリアでスターリング・モスのナビゲーターを務め、メルセデス300SLRで名高い優勝を飾った、あのデニス・ジェンキンソンだった。だが、”ジェンクス”ことジェンキンソンがピアレスと組んで出走したデビュー戦は、幸先の悪いものとなってしまう。エンジンはきちんと動かないし、身長160cmに満たないジェンクスでさえコクピットの狭さに不満をこぼし、ステアリングギア比の低さもお気に召さなかった。結局、スタートすらできず、次に出走したカドウェルパークでもDNSに終わった。

速さは現役時代さながらか

だが今や、SSはクラスで最も信頼性が高く、しかも最速のマシンになった。コース上で1.5リッターのERAをしのぎ、2リッターのマシンを相手に互角の戦いを繰り広げている。長年の間にすっかり常連となり、VSCCやグッドウッド、フレイザー・ナッシュのクラブイベントでも大歓迎されるし、ヨーロッパのレースにも出走できる。ただし、エンジンが”正しくない”ため、FIAの認定証は得られない。本来のエンジンはゴフ(Gough)製だが、代わりに1500ccのメドウズ4EDとスーパーチャージャーを搭載しているからだ。ここまで、マイク・ギブスにとっては長い長い旅路だった。このプロジェクトを引き継いだのは、1970年代後半のことだ。

旅路の果てに成功

「1972年頃に、プレスコットのパドックでバリー・ピアレスが私のところへ来て、『マイク、SSのパーツを買わないか』と持ちかけてきた。私が金額を聞くと、『750ポンドだ』という。当時、私は事業を始めたばかりだったので、考えてみるといったきり5カ月ほど返答しなかった。すると彼は、その間にSSをキャメロン・ミラー(訳注:英国の著名愛好家)に売ってしまっていたんだ。それから4、5年後に、キャメロンがパーツを手放すことを考えていると友人から聞いた。売り値は8000ポンドでね…。けれど、その頃には懐に余裕ができていたので、私は『よし、買ってやる』と答えた。そして、バリーを雇って、ミッドランズ地方にある私のワークショップで組み立ててもらった。私はそこで、自動車産業向けに試作用パーツや工作機械を開発する事業をしていたんだ」

その頃にはマイクは250人を雇い、設計コンサルタント関連事業も幅広く拡大していた。読者の中には、彼がBMW635CSiをベースに開発したガラスルーフの”オブザーバー・クーペ”(『オクタン日本版』41号)を覚えている人もいるだろう。「とにかく忙しかった。仕事以外には何もする時間がなかったんだ」とマイクは話す。そうした環境だったから、SSを組み立てるためにピアレスをパートタイムで雇い、ようやく1986年に走行できる状態になったのである。

SSは、フェーンが駆ったマシンの正確な複製として設計されたが、ジェンクスが不平をこぼしたとおり、完成したコクピットは内部が狭すぎた。そこで、スペースを確保するために手直しが必要になり、その過程でボディのシルエットを正確に再現した。SSには、オリジナルのフレイザー・ナッシュ製パーツが幅広く使われている。たとえば、オリジナルのシングルシーター用ラジエターとヘッダータンク(今も装着している)、ベベルボックスとノーズピース、ステアリング用コンポーネント、シェルズリーのケーブル作動式ドラムブレーキなどだ。ただし、ブレーキは安全を考慮して、1930年代にマセラティのグランプリカーで使われていた、油圧作動式マグネシウム製ドラムの複製品に交換した。

メドウズのエンジンも、今ではマセラティのグランプリ型スーパーチャージャーによって、3500~4500rpmで200bhpを超えるまでに出力が向上している。最初に完成したとき、SSはコゼット製スーパーチャージャーのレプリカを搭載し、最高出力は150bhp強。燃料はメタノール60、ベンジン20、ガソリン20の%配合だった。これでレースに出ていたが、1990年からいったん中断し、2002~03年にリビルドとさらなる開発が行われたが、ここで悲劇が起きた。稼働中にコゼットがバラバラになり、破片が直接エンジンに送り込まれてしまったのだ。さらに悪いことに、クリーニングと組み直しが完了し、フルパワーで動力試験を行っていた際に、今度はクランクシャフトが折れてしまった。

現在は、コゼットに代えてマセラティのスーパーチャージャーを搭載し、純粋なメタノール燃料を使用して、アルキーという添加剤をわずかに加えている。「メタノールの炎は完全に無色透明で危険だ。そこで、アルキーを足して炎を赤黄色にして、目視できるようにしている」とマイクは説明する。メタノールは、細心の注意を払って扱わないと危険な代物だ。毒性が強く、皮膚に付くと吸収されて、あっという間に血流に入り込む。影響を受けるのは有機体だけではない。レースのあとはメタノールを抜き出して、燃料システムを洗い流す必要がある。メタノールが少しでも残っていると、エンジン内部が腐食するからだ。

そんなわけで、マイクと娘のエディー(腕の立つレーシングドライバーで、2009年に父親からドライビングを引き継いだ)のレースメカニックを務めるチャーリー・ティンドルが、メタノールとアルキーを燃料タンクにゴボゴボと注ぐ間、私は離れて立っていた。すでに電動のサンプヒーターでエンジンを温めている。燃料の配合と同様、潤滑油の選択も重要で、マイクのお気に入りは独特だ。「以前はカストロールRを使っていたが、少々粘度が高すぎる。今は合成オイルのシルコリン・プロKRを使っている。2ストロークのレーシングカート用だ。常温時の粘度はSAE50ほどだが、エンジンが温まればSAE30に下がる」

・・・後編に続く。

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 

Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation:Megumi KINOSHITA

Words:Mark Dixon Photography:Rich Pearce

取材協力:マイクとエディー・ギブス、チャーリー・ティンドル、ジョン・ジャイルズ、カッスルクーム・サーキット(castlecombecircuit.co.uk)