島で唯一の醸造所 たった1人でクラフトビールを製造する
沖縄本島から西へ約100キロの位置にある久米島。陽子さんはこの島で唯一のクラフトビール醸造所「ブルワリー ツムギ」を営んでいる。商品のひとつが、久米島のシークワーサーを使った「夏の日のセゾン」。ほかにもパッションフルーツを使用するなど、島の食材にこだわったビールを常に5種類製造。インターネットで販売するほか、地元のスーパーや飲食店などに卸している。また、醸造所にはビアバーを併設。営業日には地元の人や県外からの移住者で賑わい、個性を感じる出来立てのクラフトビールを楽しんでいる。
4基のタンクが並ぶ醸造所で働くのは、陽子さんたった1人。大きな仕込み樽でビールの元となる麦汁を作り、ホップやシークワーサーなどを加えて香り、苦みをつけていく。重い材料を撹拌したり、長時間煮沸したりとクラフトビール作りは肉体労働。作業時の室温は35度、湿度は74%にもなる。そんな中、最後は酵母を使ってアルコールを作り出すという工程。そしてその際に、最も気をつけなければいけないのが“納豆を食べないこと”。繁殖力が強い納豆菌が混入してしまうとビールがダメになってしまうそうで、陽子さんもこの時期ばかりは出身地・茨城のソウルフードである納豆を口にしないという。こうして熟成期間を経て、約3週間でクラフトビールが完成する。
2年前までは町役場の公務員 疲弊する中で心を動かされたクラフトビール
実は、陽子さんは2年前まで久米島町の役場に勤務する公務員だった。しかしコロナ禍で状況が一変。終わりの見えない激務が続き、心身が疲弊していったという。そんなある日、冷蔵庫にしまっていたクラフトビールを見つけて久々に飲んでみると、作り手の思いがガツンと伝わってくるようなおいしさに心を動かされた。「私も誰かを感動させられるようなビールを作りたい」、そう決意した陽子さんは38歳で11年勤めた役場を退職。そしてビール作りの勉強や資材調達に奔走し、わずか1年で開業にこぎつけたのだった。
東京の美術大学に通っていた陽子さんが初めて久米島にやってきたのは、大学3年の冬休み。片思いの相手を追いかけて彼が滞在していた宮古島に向かおうとしたが、一緒の場所は恥ずかしく、同じ沖縄の離島である久米島へ渡ることにしたという。するとそこで現在の夫である博人さんと出会い、意気投合。久米島で生まれ育った博人さんの誘いもあり、25歳のときに島に移住した。
現在は家事や子育てとともに、おいしいクラフトビール作りに情熱を注ぐ日々をおくる陽子さんだが、実は父もかつて清涼飲料水メーカーで働き、家族を支えてきた。そんなこともあって「“飲料に携わりたい”みたいなのが遺伝子に組み込まれていたのかもしれないですね」と話す。
娘が久米島に行くことも、公務員を辞め醸造家になったことも両親には何の相談もなかったそうで、「すべて事後報告」と父・光明さんと母・千景さんは明かす。だが、1杯のクラフトビールから始まった娘の挑戦を見て、千景さんは「自分でやるっていうのは、思い切りもなくちゃなかなかできないですよね」、光明さんも「納豆が食べられないのは残念だけど…」と笑みをこぼす。
醸造家として新たな人生を歩み始めた娘へ、両親からの届け物は―
久米島で暮らし始めてはや15年。今は「久米島を訪れた人がツムギビールを飲んだよっていう風になってほしいですね」と新たな人生を歩み始めた陽子さんへ、両親からの届け物は父が清涼飲料水メーカーで着用していた40年前の制服。母が新たにビールのアップリケを施し、父がミシンで取り付けた。父からの手紙には、やることすべてが事後報告で驚かされたことと、「陽子にもこの先、色々な困難や壁があるはずです。どうしてもダメだと思う時には“事後報告” じゃなく事前に連絡をお願いしたいです」と綴られていた。
両親の想いを受け、「そういう心境だったのか…」とハッとする陽子さん。そして「胸がいっぱいになりますね。進行形で心配をかけていることもわかりましたし、頑張らんといかんな…」と、自分に言い聞かせるように語るのだった。