連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.38 タルボ-ラーゴ T150 C FIGONI & FALASCHI COUPE SS

タルボ-ラーゴというブランド名に関しては、『オクタン日本版』本誌の常連でもあるのでその名はよくご存じだろうが、メーカーの歴史としてはかなり複雑なので、時系列的に簡単に整理しておこう。

【画像】フィゴーニ&ファラスキが手掛けたタルボ-ラーゴ T150C SS Goutte d'Eau Coupeクーペ(写真7点)

その起源は1903年に設立されたクレマン‐タルボットというイギリスの自動車メーカーである。出資者が チャールズ・チェットウィンド・タルボットという名前であったことから社名に使われた。その後1919年に、会社はダラックによって買収された。そのダラックはSTDモータースに改名される。因みにSTDはサンビーム、タルボット、ダラックの頭文字である。ダラック時代にフランス、オー・ド・セーヌ県シュレンヌに工場を作り、そこから車を作っていたが経営がうまくいかず、シュレンヌの工場は1936年に投資家であるアントニオ・ラーゴに買収されることになる。こうしてタルボ・ラーゴという自動車メーカーが誕生することになるのだ。

会社を手中に収めたアントニオ・ラーゴは、1893年にイタリアのベニスで生まれた生粋のイタリア人で、しかもイタリアのファシスト党の創設メンバーでもあったのだが、後にファシズムを批判し、ムッソリーニとの間で激しい論争を起こし、イタリアを後にした。

タルボを取得した時点ではそれまでのモデルが生産されていたが、STDモータースが破綻する前から、ラーゴはレース活動と製品を結びつけるべきだと主張していた人物で、会社を取得した後には積極的にレース活動を始めることになる。1937年には早くもル・マン24時間に参戦し、この時はいずれもリタイアしたものの、翌1938年には美しいボディを纏ったSSが総合3位を獲得。実力の片鱗を見せ始めたのだが、戦争の影響でル・マンは1939年をもって休止。以後タルボ-ラーゴが活躍することはなかった。

しかし、これとは別に彼らはフォーミュラカーにも積極的に参戦した。STDモータース時代から辣腕を振るったエンジニア、ウォルター・ベッキアが作った直6、3リッターエンジンを4リッターに排気量アップして当時のフォーミュラレースに投入した。余談ながら1941年にタルボ-ラーゴを辞したウォルター・ベッキアは、シトロエンに移籍。そこであのシトロエン2CV用の空冷フラットツインを完成させている。そしてラーゴの主張通り、このエンジンは彼らが作り上げたレーシングカー用のシャシーを市販モデルに転用したモデルに搭載された。特に1930年代後半のフランスでは、多くのジェントルマン・レーサーがレースにも使え、且つコンクールデレガンスでも優勝できるような見事なフォルムを持ったボディをコーチビルダーに作らせた。

そのコーチビルダーの筆頭に挙げられるのが、フィゴーニ&ファラスキである。ジュゼッペ・フィゴーニはイタリア生まれのフランス人。彼が資金的なパートナーとして、オヴィディオ・ファラスキを迎えて設立したのがフィゴーニ&ファラスキで、第2次世界大戦を挟んだ1930年代から50年代に、数々の印象的な作品を残した。そのひとつがタルボ-ラーゴ T150C SS Goutte d'Eau Coupeクーペである。Goutte d'Eauというフランス語は、英語でティアドロップと訳されることから、多くの場合ティアドロップクーペと呼ばれる。このティアドロップクーペは、ノッチバックスタイルの 「Jeancart」(5台)とファストバックスタイルの「New York」(11台)の2種、合計16台が作られた。

ロッソビアンコの博物館にあったT150C SS Goutte d'Eau Coupeは、シャシーナンバー90109。ファストバックスタイルの「New York」である。1938年にパリサロンに展示されていたこの車を購入したのは、Mrs. Robin Byng。彼女の夫は ストラッフォード伯爵の息子であった。彼らはこの車を、主としてフランス国内で使用してドライブを楽しんでいたが、戦争により車両はナチスの接収されてしまう。戦後この車はニース近郊で発見されたものの、タイヤはなく、インテリアも無残な状況だったという。それでもByng 夫妻は平和になった時を、この車で楽しんだそうだ。

その後イギリスにわたり、F1レースチームを保有していたロブ・ウォーカーが、この車を入手。彼は本気で走る車に仕立てるため、ロッキード製のブレーキを装着。プリセレクターのギアボックスはウィルソンからコータル(Cotal)製に変更した。そしてタイヤも6.00×17インチから 5.25×17インチへと変えていた。彼は1949年のル・マンでテストカーとして、この車を使用している。余談ではあるが彼の父、キャンベルは、幼少時に孤児となり、母方の祖父母にオーストラリアで育てられ、ジョニー・ウォーカー・ウイスキーの財産を相続した人物である。

その後何人かのオーナーを経て1992年からロッソビアンコ博物館に展示された。一度ボナムスのオークションに出品されたがその時は落札想定価格に達せずお流れに。現在の所在は不明だが、言わばコンクールデレガンスの常連車だから、いずれどこかのコンクールに出てくることだろう。

文:中村孝仁 写真:T. Etoh