増子直純

音楽ライターの松永良平が、さまざまなアーティストに“デビュー”をテーマに話を聞く連載「あの人に聞くデビューの話」。前回に引き続き、怒髪天・増子直純をゲストに迎えてお届けする。3年間の活動休止期間の間に、さまざまな職業に就いた増子が再び歩み始めたバンド生活。音楽生活40周年を迎えた彼が語る時代を超越した信念とは?

取材・文 / 松永良平 撮影 / 沼田学

包丁の実演販売員、雑貨店長を経てバンド活動再開

──怒髪天が札幌から上京して、クラウンからデビューしたのが1991年。そこから事務所がなくなり、苦難の状況が続いて波乱万丈……というべきところなんですが、バイトで生活は安定し、増子さん自身も必死にあがくのではなく、クールに自分たちを見ていたという前半のお話が印象的でした。

俺は周りに過剰な期待をしないんだよ。自分が直接やってるもの以外に過度の期待をしないというのは子供の頃からあるのかな。

──そんな怒髪天に、転機が訪れたのは?

1996年からバンドを3年休んだあとに活動再開したらすごく忙しくなったんだよね。33歳で活動再開して、38歳だった2004年にテイチクで再デビューして、だんだんバンドの活動ペースは上がるんだけど、バイトしないと食えないし、生活と活動のバランスが取れなくなってきて。それで結局、40歳のときに今の事務所(BAD MUSIC)に移籍した。本来は25歳でメジャーデビューしたときに立つべきだったスタート地点に、40歳になってから立った。そこでようやく音楽で生活できるようになった(笑)。

──まさに、ようやく、でしたね!

そういえば、俺らが所属する前の話だけど、地方でライブするとき、山中(さわお / the pillows)に頼んでBAD MUSICの機材車を貸してもらったことがあった。そのときにBAD MUSICには、ちょうどデビュー前のMr.Childrenが所属してたんだよね。機材車にミスチルのライブのテープがあったんで「なんだこのテープ? あそこの事務所のバンドか」って聴いたんだけど、「こんなもん売れるわけねえじゃん!」って爆笑した(笑)。のちのちは、ご存じの通りだよ(笑)。クラウンでデビューしたときも、Luis-Maryっていうヴィジュアル系のバンドと同期だったんだよね。ディレクターが「今度出すバンドなんだ」って聴かせてくれたんだけど、俺は「こんなのいいと思ってるんだったら俺はもうお前とやんねえよ」って言った。それが、のちのT.M.Revolutionだよ(笑)。「これはないわ!」って言ってたけど、俺らのほうがよっぽどなかったんだよ(笑)。西川くん、歌うまいよね。俺ら、聴く耳ねえな!って(笑)。

──話はちょっとさかのぼりますが、特にやめる理由もなかった怒髪天を、1996年から99年まであえて3年間休止したのはなぜですか?

バンドはしばらくいいかなと思って。もうやらないつもりだった。だけど、前のベースがもう1回やろうって言ってきた。そのとき俺は雑貨店の店主だったかな?

──本当にたくさんお仕事されていたんですね。

そうそう。しかもその雑貨店は、ちゃんと給料入るし、正社員だったから。クレジットカードを作れたことに感動しちゃって(笑)。「社会から信用を得てるし、金貸してくれるんだぞ、これ!」って(笑)。だから、バンドで貧乏になるのは嫌だから絶対やんねえよって言ってたんだけど、飲んでる席に呼ばれて「もう1回やろうよ。ツアーも行かなくていいし、遊びでやろうよ」って口説かれた。それで「仕事は辞めないし、楽しいことだけだったらいいよ」って、また怒髪天をやり始めたんだけど、結局、曲を作り出すと、やっぱり「自分らのこの曲、絶対にいいぞ!」って思い始めちゃって、それで仕事を辞めて今に至る、みたいな。包丁の実演販売とかも楽しかったけどね。

バンド以外の仕事から学んだこと

──バンド以外の仕事から得た学びってありました?

3年間の休止期間中にいろんな仕事をして、正しく金を稼いで、それによって得たものは本当にたくさんあった。もともと俺らは反社会的というか、ハードコアパンクからスタートしたバンドで、「大人は社会の歯車だ。俺はあんなふうにならねえぞ!」みたいなことをずっと思ってた。でも、社会に出て働いて、いろんな人たちに会うようになると、それぞれが1人ひとり苦しんだり闘ったりしていることに気付くんだよね。噛みつくべき存在は違うところにいるぞってわかった。みんな、むしろともに戦う仲間なんだなっていうのがすごくわかった。そのおかげで、バンド活動を再開したときに歌詞の世界観とか自分が言いたいことが変わってきた。

──その変化はすごくよくわかる気がします。

パンクの常套句である「やつらを吊るし上げろ!」っていうメッセージの“やつら”って、いったい誰なんだよ?って思うようになった。若い頃に作った歌詞は全然具体的じゃないし、すごく漠然としたものだったよね。猫とか犬って体の具合が悪いと、気が立って周りに噛みついたりするでしょ? 攻撃されていると勘違いしちゃうんだよね。俺らもそれと同じだった。自分が社会的な何かからの苦痛を感じると、周りに攻撃されてると勘違いしちゃう。そういう反応に近かったんだなと思う。

──かつての増子さんはメジャーデビューはカッコ悪いことで、丸くなったら終わりだと感じていたわけじゃないですか。でも、それがただ丸くなっているわけじゃないとわかってきたというか。

そうそう。ひと口にメジャーデビューと言っても、それぞれ条件が違うということが若い頃はわからなかったよね。みんな条件が一緒なわけないじゃない(笑)。それに、俺らの時代ってメジャーデビューすることが1つの到達点だった。オリンピックに出るようなものだったし、俺らより上の世代にとっては、もっとそういう感覚は強かったよね。

──だからこそ仮想敵にもなった。

俺らよりも前の時代は、芸能界色が強かったしね。俺らの頃もだいぶまだ残っていたけど。搾取搾取みたいな。でも、そういう不満は実際に搾取されたやつが言うことであって、俺らみたいに搾取されるものもないやつらが、される前に言うことではなかった(笑)。

38歳で訪れた再デビュー

──そういう意味で、38歳で訪れた再デビューは、酸いも甘いも知り尽くして、満を持してだったんですね。

そこも別に期待してなかったけどね。ただ、あの再デビューは、1stアルバムのディレクターがテイチクに移って、インディーズで俺らがやってたところに「もう1回ちゃんとやらせてほしい!」って言って来たところから始まったんだよ。

──そうだったんですね。

だけど、最初は「もういいよ」って断った。「定年になるまでにもう1回だけ本気でやらせてほしい」って懇願されたんだけど、それでも絶対嫌だって3年間ずっと断って。インディーズでやってるほうが全然よかったからね。メジャーデビューしたって何も変わらないじゃんと思ってたから。でも結局、そのディレクターの熱意に折れて、そんなに言うなら1枚だけでもやるかとなって。「自分を男にしてくれ」って言うから、その気持ちに「じゃあわかった」って応えたんだよ。年齢もある程度いってたし、「今メジャーデビューしてどうすんの?」って思うじゃん。でも、「絶対にやりたいです!」って言う。そんなに言うならしょうがないかなって(笑)。

──そのディレクターさんも、ある意味、本当にやりたいバンドとの再デビューだったんですね。

そこからは、ずっとテイチク。それでまたね、デカいレコード会社で金もあってガンガン売り出してくれるなら話が変わってくるんだけど、テイチクは、なかなか地味なものだからね(笑)。まあ、そこもいろいろあるよね。会社が大きければいいってことでもない。大きいレコード会社で飼い殺しされてるやつらもいっぱい見てきたから。結果、テイチクでよかったんだよ。ディレクターへの義理も果たせたし。テイチクには金はないけど、一生懸命やってくれる人がいる。小さくてもちゃんと自分たちのことを好きで一生懸命情熱を注いでくれる人のところにいるのか、金があって全然自分たちに気持ちはないけど売ってくれるところに行くのか。俺らにとっては今の環境が合ってるんだなってすごく思う。

──それがバンドとしての人気の安定にもつながったわけですもんね。

ここからどうなっていくのかわからないけどね。音楽業界は斜陽産業だから。CD自体なくなっていくんじゃないかっていう状況だから。特に最近の若い子はメジャーデビューを特別なものだと思ってないんじゃないかな。自分で発信した楽曲でブレイクできちゃったりするし、CDが売れなくなったからメーカーの力も予算もないし。デビューの概念が昔とはまったく異なるものになってるよね。そもそも今の子に「メジャーデビュー」という概念自体ないんじゃない?

時代の変化は無視!

──今は「ニューアルバムが出ました!」ってアピールしても配信だけだったりして、CDショップに行っても自分たちの新譜が売ってなかったりしますからね。

我々世代で言うとアルバムって、フルコースと一緒。前菜から出て、メインディッシュ、デザートまで一連の流れがある。でも配信でリリースすると、メインディッシュだけ食われたりして。そうじゃなくて、前振りがあるからメインディッシュが効いてくるんだよって言いたいよね。配信だと「曲間を0コンマ何秒空けよう」みたいな、そういうこだわりが、まるっきりなくなっちゃう。あとはみんなイヤフォンで聴いてるから、イヤフォンに特化したミックスにするとか、試聴環境もいろいろ違ってきてるし、その時代を鑑みて、みたいなこともあるしね。歳を取ってくるといろいろ気を遣うというか、時代の変化に合わせないといけないかなって思った時期もあった。それでいろいろ考えた結果、たどりついた結論は……まあ無視だよね!

──無視(笑)。

時代の変化なんて知るか(笑)。デカい音で鳴らしたときにいいものを作る。だって俺はデカい音で音楽を聴きたいから。俺は俺の好きなことをやるっていうことだね。後輩のバンドマンの相談を受ける機会もたまにあるんだけど、俺からのアドバイスなんか1個もない。自分でやって自分で失敗したらいいし。人が転んでるのを見て「あー、痛そうだな」とは誰でも思うだろうけど、本当にどれくらい痛いかは自分で転ばないとわからない。自分で転んで痛かったときに次もう転ばないようにしようって思うわけで、人の失敗を見て何かを思うのって、映画とか本と一緒で疑似体験なんだよ。1回転んだ奴が「痛えー!」って言うのと100回転んだ奴が「痛えー!」って言うのとでは言葉の伝わり方とか重みが違うから。俺らは100回転んで「痛えー!」って言ってる側だから。

──説得力が違いますよね。

時代の流れに変に抗ってもしょうがないとも思う。新しい音楽がどんどん生まれてくるのは当たり前だし、そういう音楽に触れてベテランのミュージシャンが「自分が作っている音楽は、もう古いんだと自覚した」とかインタビューで話してるのをたまに読むけど、笑っちゃうよね。古い人間が作ってるから古くて当たり前だろうって(笑)。それに、新しければいいってもんじゃないってことがなんでわからないんだろう? 音楽は別に斬新であればいいってもんじゃない。俺らはびっくり箱を作ってるんじゃないんだよ。どんな画期的なびっくり箱を作っても人間は1回しかびっくりしない。何回も開けてびっくりしてるのは馬鹿だけだから。俺たちは、びっくり箱じゃない音楽を作りたいよね。

──「びっくり箱じゃない音楽」。素晴らしいと思います。

自分たちで舵を切っていくっていうのは大変だけど、自己責任でもあるしね。死ぬ以外はうまくいかないことなんかないと思うけどな。なんでもそうだけど、何かをしないよりは、したほうがいいでしょう。デビューして成功してもいいし失敗してもいいし、1回そこに乗っかってみると面白いと思うけどね。そりゃ、うまくいったほうがいいとは思うよ。俺らも最初のデビューで失敗したけど、別に笑いのネタが欲しくて事務所と契約したわけじゃないから(笑)。

──でも、あんな顛末があるから逆に今の自分があるって思います?

あれはあれで面白かったんだよ(笑)。のちに自伝なんか出すとは思ってなかったし、出すつもりもなかったけど、ネタの1つとして活動初期にいいネタをもらったなっていう感じはあるよね(笑)。ああいう経験があったから、何に対しても過剰に期待しないし、心折れるってこともあんまりないもんね。しいて言えば、今までのバンド活動で一番大変だったのは今年の頭だよね(笑)。あれが一番かな。「ここに来てこれかよ!」って(笑)。あれくらいかな、バンドやってて大変だったのは。それ以外、別に大変じゃないもんな。

──改めて、このインタビューの大テーマである「デビュー」って、増子さんにとってはどんなものでした? 大きな人生の転換期とか分岐点ではなく。

なってほしかったけどね。「これがメジャーデビューか!」ってなるはずだったんだけどな(笑)。

増子直純(マスコナオズミ)

ロックバンド・怒髪天のボーカル。1966年、札幌市出身。一度観たら忘れられないエモーショナルなライブスタイルと、その真逆をいく流暢なMCが混在するステージは圧倒的。気さくなキャラクターで「兄ィ」の愛称で親しまれている。過去、ゲーム専門誌「ファミ通」で連載コーナーを持っていたほどゲームへの造詣も深く、またテレ東「開運!なんでも鑑定団」に鑑定依頼人として出演するほどの生粋のヘドラコレクターでもある。楽曲提供や、テレビCM、映像 / 舞台作品への出演も積極的に行うなどマルチに活躍中。

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