引退会見に登壇した岡崎慎司

 シント・トロイデン(STVV)で約19年に及ぶ現役生活に幕を下ろした元日本代表FW岡崎慎司が17日、日本で現役引退記者会見を実施した。

 記者会見に登壇した岡崎は冒頭、「欧州に引退した自分にこういった引退会見の場を作ってくれたDMMとSTVVに感謝したいと思います」と謝辞を述べ、現役引退という決断に至った理由やこれまでのキャリアの話、そして今後のキャリアに向けた思いなどを語った。

——現役引退を決めた理由について
引退を決めたのは、まずはヒザのケガが一番の理由でした。

シーズンのスタートからヒザの痛みを抱えながらプレーしていて、プレーできなくなるまでの半年くらいの間に色々考えることがあった。試合に出たり出なかったり、フィンク監督との話の中で「岡崎は必要だけど、こういう状況では使えない」といった話などをされて、自分でも納得しながら、そういったシチュエーションが増えてきた。その中で練習では若い選手たちと話をしたり、彼らは僕をリスペクトしてくれたけど、彼らに気をつかわせずに自分がもっと要求できるくらい、「あの頃だったらもっとこういうプレーができたな」ということを毎練習、毎試合、思いながら、でも試合では理想の動きができなくなっていた。

その繰り返しを昨季は続けていて、昨年12月にプレーできないくらいのケガになって、その時にサッカー人生で初めて「辞めたい」と思った。そう思った時に、これが引退なのかなと、自分が燃え尽きてしまった。今まで諦めたことは1回もなかったけど、諦めるという決断をした時に、引退するという気持ちと、このまま終わりたくないという気持ちが自分の中に芽生えていて、サッカー選手の続きを自分は作りたいという思いと、欧州で新しい挑戦をしたいと思った時に、サッカー選手じゃないと自分で決めてしまった。その時、奥さんに初めて話して、「それは早く皆んなに話をしたほうがいい」と言われた。僕はシーズン最後までやって、いきなり辞めてもいいかなと思っていたけど、応援してくれている人たちに伝えるべきだと言われて、2月に発表をしました。

僕のイメージを皆さんがどう思っているかわからないですけど、僕は皆んなのためにとか、ファンのためにとかというよりは、自分がこうしたいという思いでやってきた。サッカー選手としてワガママにやってきて、家族に迷惑をかけてきたんですけど、それでもそれを貫いて最後までやろうと、その時に決めて、その挑戦の続きが自分で作れると思ったからこそ辞められた部分もある。なので最終的に、自分にとって引退はポジティブな決断になったと思っています。

——選手生活での後悔は?
後悔だらけというか、ある意味、自分が目標として口にしたものはほとんど達成できていないと思っています。W杯優勝や北京五輪でも、プレミアリーグでの二桁得点だったり、ビッグクラブでもプレーしていないし、セリエAでプレーしたいという夢も達成できなかった。40歳まで現役を続けるという最後の目標もあった。W杯もワンチャンあると思っていて、でも今回、引退という決断をして、後悔ばかりというか、やってきたことに対する後悔はないですけど、記憶に残っているのは、そういう悔しさだけが残っています。ただ、自分がここまで来れると想像していたかというと、そうではないので、やってきたことは間違いではなかったなと思うし、次の人生のその先を見れたかなと思っています。

——最後の試合で両チームの選手が花道を作ってくれたことについて
想像していなかった。当日もフィンク監督が最後は前半20分でいいだろうという話だったが、20分じゃ足りないという話をした。練習もほとんど参加できずに最後のラスト1週間だけ参加した形だったので、監督も自分のコンディションを心配して言ってくれたと思うんですけど、自分はそこをターゲットに最後の5カ月をやってきたので監督と話をした。なので45分出て、後半の5分くらいで終わったんですけど、ああやって両チームからやってもらえたこと、胴上げもそうだし、改めてやってきて良かったと思える良い終わり方だったと思うし、STVVの選手にも、(対戦した)ルーヴェンの選手たちにも感謝したい。あれはSTVVのセカンドGKが提案してくれたみたいなんですけど、そういった選手がいなかったらあれもなかったので、リスペクトされて終われたのかなと思います。

——愛される秘訣はどこにあるのか?
愛されているのかどうかもわからないですけど(笑)、自分自身は一直線に自分のやりたいことをやっていて、正直に言うと、自分が酷い人間だと思うこともありますし、失敗ばかりしてきて、僕に近い人ほど迷惑をかけてきたと思う。だからこそ自分がやることに責任を持ってやってきた。関わってきてくれた人に損はさせたくないとか、応援してくれた人には、そういう自分の最後の姿を見せたいというか、そういった責任とか覚悟は誰よりも持っていたかと思います。

——印象に残っているクラブと代表での試合について
ほぼ全部、印象には残っているんですけど(笑)。クラブでは、優勝したレスターでのニューカッスル戦のオーバーヘッド。プレミアリーグでフィットするために見せた自分のハードワークや、チームの潤滑油みたいなところを一番に認められてしまったがために、45分や60分で変えられることが多かったシーズンで、その悔しさを周りはあまりわかっていなかった。自分を証明するにはゴールしかなかったので、ストライカーとしてゴールを取りたいというのとは別に、見返したいというか、監督や選手が岡崎はこういう選手と考えている枠を超えたいと。それは自分の人生というか、特に海外ではそうだったんですけど、そういったゴールの印象的なものの一つとして、あのゴールは記憶に残っています。

代表に関しては、一つを挙げるほどW杯での歴史的なゴールというようなものもない。そこを目指してきた中での悔しさの方が残っている。それでも南アフリカW杯のアジア最終予選でのゴールとか、嬉しかったゴールはたくさんあります。

——レスター・シティで優勝が決まった瞬間の気持ち
嬉しかった。それは本音ですが、優勝する直前までは、点をとりたい、でもチームのためにやることがあって、その先にゴールがないといけないとか、そんなことばかり考えていた。試合に出るために必死にやっていたので、優勝が決まる前にトッテナムとチェルシーの試合をヴァーディーの家に見に行くまでは、あまり考えていなかったんですけど、優勝するかもしれないとなってきた時の実感はすごく記憶に残っている。優勝するのはこういう気持ちなのかという、ウエスカでのスペイン2部での優勝もすごく嬉しかったですけど、多くの人の記憶や印象にも残っていると意味でも、そこに関われたこと自体はすごく嬉しいです。

——W杯3大会出場、日本代表歴代3位の50得点といった記録を残せた理由をどう考えているか
おそらく自分が、いま言われたことに満足してないところだと思います。もっと点を取れたし、もっと重要な記憶に残るゴールを取れたと思っていたので、その貪欲さというか、そうい言われることが悔しいというメンタリティーがあったことが、いま言われた記録につながっているのかなと思います。

——苦しかった時期について
苦しかったのは、日本代表を外れてからの最後の4年間ですね。苦しかったというより、日本代表でプレーすることのやりがいを改めて感じて、やはりあそこで活躍してW杯に出たいという思いでやっていた。当時、スペイン2部にいて、そこからのし上がっていくという思いでした。同じ頃、香川真司も同じ境遇にいたので、彼とそういった話をすることで救われた部分もあった。これまでそういった話を真司はしていなかったんですが、そこでW杯を目指そうという話をしてからは、助けられたし、向こうにも刺激にはなったと思う。彼の存在があったからこそ、最後の代表に入れなかった4、5年も頑張れたのかなと思います。

——今後のキャリアについて
STVVのアンバサダーにも就任しましたが、欧州に拠点があり、選手やスタッフなどが欧州で戦う場が、チャンスがあることの重要さは日本の皆さんにも知ってもらいたい。あそこで競争していくことの難しさを次の世代に伝えていくことは自分の役割だと思うし、そこに関われるのは自分の役目だと思っています。

ただ引退する時に、これからの人生、サッカー選手として戦ってきたように、戦える場が欲しいと思ったので、そうなると監督かなと。欧州で監督をしたいとは思えていなかったんですけど、多くの日本の選手たちが欧州に挑戦してきていて、その中で(自分が)日本に戻ってまた海外に挑戦するという甘い考えで彼らを超えていけるのかと考えた時に、自分がもっと挑戦しないといけないと思いましたし、単純にカッコつけたいというか、環境に甘えてしまうと、海外で味わった悔しさを忘れると思った。欧州で挑戦するというところで、まずは監督を目指して1週間から10日間ほどイングランドで講習を受けました。そこでいきなり大きな壁にぶつかっているんですけど、スタートはしています。

あとは10年前から日本でアカデミーを作っていて、そこで子供たちを見ながら、自分は選手として欧州で挑戦している時に、欧州の環境の優れた部分を感じて、日本でもこうあって欲しいと思っている。自分の仲間であったりパートナーと作り上げていたアカデミーが、U8からU18まであって、トップチームもあって、さらにドイツのマインツにバサラ・マインツというクラブがあるので、バサラ兵庫とバサラ・マインツの2拠点で、日本から世界という挑戦をしていきたいたいという思いがあります。

セカンドキャリアというところでは、ドイツの6部に所属するバサラ・マインツでトップチームの監督をすることが決まっています。すぐに監督の経験をつめるので、バサラ・マインツを一緒に作った滝川第二高校の先輩がいるんですけど、その先輩と一緒にやっていこうとは考えているので、具体的には、そこで始めることがこれからのメインになります。

——欧州での挑戦の先に日本代表の監督やコーチは見据えているか
自分の目標はそこ。選手としてW杯優勝を達成できなかったので、監督としての挑戦はそこだと思っています。日本代表の監督になりたい。そしてW杯で優勝したいというのが自分のメインの目標ですが、日本サッカーの今後を考えた時に、欧州の環境や競争を実感する中で、日本サッカーが世界を目指すためには、もっと環境だったり、欧州でも戦えるスタッフやメディア、戦える人たちがもっと必要だと思うので、そういった人たちのキッカケになるようなこともやっていきたいと思います。

——サポーターへのメッセージ
特に清水エスパルスには感謝の気持ちを伝えたいというのがある。プロ生活の最初の6年を日本ではじめ、そこで出会った人たちの存在があったからこそ、海外での厳しい環境や競争にギリギリ耐えて、勝ち残れたと思う。自分に関わってくれたクラブには感謝の気持ちがあるし、清水エスパルスをはじめ、その前の滝川第二高校や宝塚FCなど、自分を育ててくれた日本での17年くらいですかね、その時の思いを胸に海外でもプレーしていたので、感謝の気持ちはあります。日本代表でも日本のファンの皆さんが応援してくれたからこそ走りきれたのかなと思っています。