34年ぶりの東京ドーム・プロボクシング興行は、大いに盛り上がった。注目の4団体(WBA、WBC、IBF、WBO)統一世界スーパーバンタム級タイトルマッチは、井上尚弥(大橋)がルイス・ネリ(メキシコ)を6ラウンドTKOで下し王座防衛に成功、8試合連続のKO勝利で27連勝を飾った。

  • 決戦翌日の井上尚弥。わずかに残る顔の傷が激闘を物語る(写真:藤村ノゾミ)

だが今回の試合で、ファンが一番驚いたのは、井上尚弥が1ラウンドにダウンを喫したことである。それは「まさか!」のシーンだった。井上がマットに倒れるのはデビュー以来、初めてのこと。なぜ、ネリの一撃は決まったのか?

■恐ろしいまでの冷静さ

4万3000人(主催者発表)の大観衆で埋まった東京ドームが静まり返ったのは、試合開始から80秒が過ぎた時だった。
ネリの左フックが井上の顔面にヒット。直後にカラダを反転させるようにしてモンスターが後方に倒れた。
「ダウン!」
レフェリーのコールを聞きながら誰もが驚いた。

  • ルイス・ネリが井上尚弥からダウン奪った直後のシーン。ドーム内が静まり返った(写真:藤村ノゾミ)

東京ドームでは、やはり何かが起こるのか。34年前にマイク・タイソン(米国)がジェームス・バスター・ダグラス(米国)に倒されたシーンが脳裏を過る。
騒然とする場内─。
だが意外なことに、倒された本人は冷静だった。

初めてダウンを喰らった者は、さほどのダメージはなくとも動揺し、すぐに立ち上がろうとする。その際にふらつきパニックを起こして敗れる選手を、これまでに幾人も見てきた。
しかし、井上は違った。
上体を起こした後に片膝をマットにつけた姿勢でレフェリーが数えるカウントを確認し「8」がコールされた時にゆっくりと立ち上がった。

一気にフィニッシュにつなげたいネリは猛攻を仕掛ける。ラウンド残り時間は1分以上あったが、井上は距離を取り、さらにはクリンチも用いてここを凌ぎ切った。
振り返って井上は言う。
「いろいろな局面は想定していたので、ダメージを回復させながら落ち着いて立てたのかなと思います。コーナーに戻った後、(ドーム内に設置されたビジョンの)リプレイ映像を見て、どんなパンチを貰ったのかも確認しました。
(ダウンを喫したので)2ポイント取られたので、そこを挽回しなければとは考えましたね」

恐ろしいことに、初めてのダウンを喫しても井上は焦らなかった。自らが置かれている状況を把握し、勝利につなげるプランを練ったというのだ。
2ラウンドもネリと果敢に打ち合った。その中でタイミングよく左ショートフックをクリーンヒットさせダウンを奪い返す。この時点で井上は試合の主導権を握った。

4ラウンドにはガードを下げて自らの頬にグラブを触れ「打って来いよ!」とネリを挑発。 5ラウンドに再度左フックでダウンを奪うと、6ラウンドに右アッパーからのコンビネーションで右ストレートを炸裂させる。ロープにもたれかかるように崩れたネリは起き上がることができなかった。

  • 2ラウンド以降、感情むき出しにネリに襲いかかった井上は計3度のダウンを奪って逆転TKO勝利を飾る。この大会の模様は「Prime Video」で生配信され史上最大のピーク視聴数を記録した(写真:藤村ノゾミ)

■悪童の覚悟が名勝負を生んだ

終わってみれば、井上の圧勝。
それでも、1ラウンドのダウンが強く印象に残る。
なぜ、ネリは一撃を見舞えたのか?

決戦13日前、帝拳ジムで公開練習を行った際にネリは2つのことを口にしていた。
「俺はイノウエの弱点を見つけた。試合で観る者をアッと驚かせてやる」
「今回、判定決着はない。俺が倒すか倒されるかで試合は終わる。死を覚悟してやり合うつもりだ」

聞きながら私は「イノウエの弱点を見つけた」というのはフェイクだと思った。ただ、気になることがあった。それはネリが妙に落ち着いていたこと。目が据わっている。
悪童は、リング上でやるべきことをすでに決めている、そう感じた。
クレバーな男である彼は、強気な発言を繰り返しながらも井上と自分の実力差をよく理解していた。その中で勝つために何をすべきかも。

ネリは決めていた。
ラウンドが進み、王者にリズムを刻まれた後に勝機はない。ならば、その前に一撃を喰らわそうと。
強者のボクシングは、相手の動きを見切ることから始まる。パンチのリズムと角度、そしてタイミングを距離を保ち打ち合いながら確認するのだ。ここを把握した後で本格的な攻めに移行する。

「弱点を見つけた」とは少し違うように思うが、ネリは井上が自分の動きを見切る前に勝負をかけるつもりだった。それは12ラウンドを闘い抜くスタミナを気にしてできることではない。一撃をヒットさせて一気に勝負をつける、そこに賭けたのだ。
相手の死角となる下から繰り出す左フックを準備して─。

結果、ダウンを奪うことには成功したが一撃の威力が足らなかった。もう少し短い距離で的確に打ち抜き、王者の脳を揺らせらせていたなら「大番狂わせ」が生じたかもしれない。
試合後、ネリは病院に直行し記者会見場に姿を現さなかったが、SNSでこう綴っている。
「負けたことは悔しい。でも、やるべきことを自分はやった、悔いはない」と。

34年ぶりの東京ドームのリングは名勝負に彩られた。それは無敵のモンスターに対し、ブーイング凄まじい敵地のリングで悪童が覚悟を持って挑んだからである。
プロボクシングは、こうあるべきだろう。

  • ネリに勝利して得たWBCダイヤモンドベルトを、試合後の記者会見席上で井上が大橋ジム・大橋秀行会長にプレゼント。大橋会長は目に涙を浮かべ顔を覆った(写真:藤村ノゾミ)

井上の次戦は9月、首都圏開催。相手はIBF、WBO世界スーパーバンタム級1位のサム・グッドマン(豪州)、戦績18戦全勝、25歳、伸び盛りのファイターだ。ネリは階級をフェザーに上げて再起する可能性が高い。

▼井上尚弥、ネリに初ダウンを喫するも「ダメージは無かった」東京ドームでの4団体防衛に見事成功『Prime Video Presents Live Boxing 8』試合後インタビュー

文/近藤隆夫