「君死にたまふことなかれ」は、1904年(明治37年)に与謝野晶子(よさのあきこ)が詩歌・文芸雑誌『明星(みょうじょう)』にて発表した詩です。

本記事ではこの「君死にたまふことなかれ」について、原文全文と現代語訳や意味を紹介します。この詩が生まれた背景や当時の批判、与謝野晶子とはどんな人だったのかについてもまとめました。

  • 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」とは

    「君死にたまふことなかれ」の全文を紹介する他、現代語訳と意味、背景などをまとめました

「君死にたまふことなかれ」の意味とは?

「君死にたまふことなかれ」とは、「君よ、どうか死なないでください」という意味のフレーズです。読み方は「きみしにたもうことなかれ」。

「なかれ」は「なし」の命令形であり、多くの場合「~ことなかれ」の形で、「~するな」「~してはいけない」、つまり禁止の意味を表します。

浪漫主義の詩人・与謝野晶子の弟は、日露戦争で中国・旅順に出征していたとされています。

旅順攻撃の報道を受け、与謝野晶子が激戦地にいるであろう弟のために詠んだ反戦詩が、「君死にたまふことなかれ」です。

どうか死なずに生きて帰ってきてほしいという、悲痛な思いや願いを訴えています。

「君死にたまふことなかれ」の全文と現代語訳

「君死にたまふことなかれ」の全文を見ていきましょう。まずは原文、そして分かりやすいように補足を交えて現代語訳したものを紹介します。

詩「君死にたまふことなかれ」の全文(原文)

君死にたまふことなかれ
     旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
旧家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獣(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戦ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髪はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

詩「君死にたまふことなかれ」の現代語訳

ああ、弟よ、君のために泣いています。
君よ、どうか死なないでください。
末っ子として生まれた君なのだから
親はとてもかわいがっていたのに
そんな親は君に武器を握らせて、
人を殺せと教えたでしょうか(いや、教えていない)。
人を殺して死ねと
24歳まで育てたのでしょうか(いや、育てていない)。

堺の街の商人の
旧家を誇る主人として
親の名を継ぐ君なのだから、
君よ、どうか死なないでください。
旅順の城が滅んだとしても、
滅ばなかったとしても、何の事ではない。
君は知らないでしょうが、商人の
家の掟にはそんなものは無いのです。

君よ、どうか死なないでください。
天皇陛下は、戦いに
自らは出られることはないですが、
互いに人の血を流して、
獣の道に死ねとは、
そうして死ぬのが人の名誉とは、
そのお心が深いので
そもそもどうして思われることがあるでしょうか(いや、思われることはない)。

ああ、弟よ、戦いで、
君よ、どうか死なないでください。
この間の秋にお父様を亡くし
取り残されたお母様は、
嘆き、痛ましく、
自らの子を徴兵されても、家を守り。
安泰だというこの治世だけれども
お母様の白髪は増えています。

暖簾の陰に伏して泣く、
か弱くて若い新妻を、
君は忘れているでしょうか、思っているでしょうか。
10カ月も一緒にいられずに生き別れた
おとめ心を考えてもみてください。
この世にたった一人の君以外に
ああ、また誰を頼るべきなのでしょうか。
君よ、どうか死なないでください。

「君死にたまふことなかれ」誕生の背景と批判について解説

「君死にたまふことなかれ」は前述のように、日露戦争の最中である1904年(明治37年)に、与謝野晶子が詩歌・文芸雑誌『明星(みょうじょう)』の9月号にて発表した長詩です。

戦地で命を懸けて戦う弟を案じた姉の心を詠んでいますが、戦争を非難するその思想は国賊的であるとして、当時大きな論争を巻き起こしました。詩人・評論家である大町桂月(おおまちけいげつ)は、『太陽』の誌上で与謝野晶子を批判しています。当時は、国民が国のために命を懸けることが当然の時代でした。

それに対し与謝野晶子は、「歌(詩)は歌である、誠の心をうたいたい。誠の心をうたわない歌に、何の値打ちがあるのか」という旨を述べて反論しています。与謝野晶子の家には彼女を批判する者からの投石などもあったといわれていますが、彼女はそれでも迎合せず、自らの主張を曲げない強い心を持った人だったと考えられます。

なお「君死にたまふことなかれ」は、『恋衣』(1905年、山川登美子・増田雅子との共著)や『晶子詩篇全集(しへんぜんしゅう)』(1929年)に収録されています。

作者である与謝野晶子とは

「君死にたまふことなかれ」の作者である与謝野晶子は、浪漫主義の詩人として有名で、1878年(明治11年)に大阪・堺に生まれ、1942年(昭和17年)に亡くなりました。

堺の菓子商の三女として生まれた与謝野晶子は、子どもの頃から店を手伝いつつ古典や歴史書に親しんでいたそうです。女学校を卒業後は詩歌を発表し、師であり夫となる与謝野鉄幹との恋情の中で生み出された処女歌集『みだれ髪』(1901年)は、文壇の注目を浴びました。

与謝野晶子の激しく情熱的で官能的、そして奔放な作風は、文芸界、そして女性史の新たな扉を開いたと言えるでしょう。

さらに与謝野晶子は、当時女性の地位が低かった中で、女性解放や女性の自立のために意見を述べ、精力的に活動しました。1921年(大正10年)には、自由主義的な教育方針を重視し、中学部では日本初の男女共学校である文化学院の創立に参画。初代学監に就任しています。

また与謝野晶子は『源氏物語』や『和泉式部日記』の現代語訳を残すなど、古典研究にも大きな影響を残しています。

「君死にたまふことなかれ」は、与謝野晶子が愛する弟に詠んだ魂の反戦詩

「君死にたまふことなかれ」は、与謝野晶子が戦地に赴いた弟に向けてうたった詩です。

この詩が詠まれたのは実は120年も前になりますが、その不安や苦しみ、悲しさ、憤りなど、さまざまな思いが現代の私たちにも伝わってきます。

与謝野晶子がこの詩を通して伝えたかったことや平和の尊さを、皆がそれぞれ、自分なりに考えてみることが大切なのかもしれません。