1970年代の日本では自動車メーカーがレースから手を引き、代わってプライベーターによるレースが盛んに行われるようになった。その頂点に君臨したのが富士グランチャンピオンシップではなかったろうか。オープン2シーターが基本のこのレース、初期の頃から見たことのないモデルが複数入ってきた。その中の1台がシェブロンであった。
【画像】23台しか作られなかったうちの一台と考えられる、ロッソビアンコ博物館のシェブロンB16(写真9点)
グラチャンレースに限って話をすると、最初に持ち込んだのは田中弘選手。B19という名のマシンを持ち込み、その後その発展系のB21を操った鮒子田寛選手が1972年にチャンピオンに輝いている。
何故この話をするかというと、今回取り上げたモデル、シェブロンB16は、写真でもわかるようにクーペボディを持つレーシングカーなのだが、合計23台が作られたというマシンのうち1台だけがスパイダーに改造されてレースでも好成績を収めた。ブライアン・レッドマンが乗るB16スパイダーは、1970年の2リッタースポーツカーチャンピオンシップで活躍。これを受けてシェブロンは市販のスパイダーバーションを1971年に制作。これが日本にもやってきたシェブロンB19だったのである。
B16が誕生したのは1969年のこと。そもそもシェブロンという小さなレーシングカー・コンストラクターは、1965年にディレック・ベネットによって創設されたブランドだ。イギリスにはこの手のレーシングカー・コンストラクターが数多く存在するが、その多くがロンドン近郊からシルバーストーンにかけてのエリアに点在するが、シェブロンはその中で唯一、ボルトンというイングランド北部の街に居を構えている。マンチェスターで生まれたディレック・ベネットがこの地に強い愛着を持っていたようで、彼が1978年にハンググライダーの事故で亡くなった後も、この地から離れていない。
ベネットは元々エンジニアであると同時にアマチュア・レーシングドライバーとしても高い才能を持った人物で、この世界で初めてディフューザーを導入したり、あるいはフロントのクラッシュボックスを採用したメーカーでもあった。
B16は1969年から70年にかけて20台が作られ、1971年に3台が作られた。シャシーナンバーはいずれもDBEという頭文字で始まり、01から36までが存在する。もっともその中でかなりの数は実際に生産されてはいない。とりわけ011、022、033という11の倍数となる番号は生産されていない。理由はベネットがオールトンパークのレースでクラッシュした際に11番という番号がそのレースにおいて数多く関係していたことから、彼自身が以後その倍数の数字をトラウマとして嫌ってからなのだという。
ベネットの死後2年ほどは彼の姉妹と元々の彼の仲間によって運営されていた会社だが、1980年4月に清算され、その後は1983年までシェブロン・レーシングカーズ・スコットランドが。その後2006年まではシェブロンカーズ・リミテッドとして活動し、その後もオーナーシップは変わるものの、今も存続している。ただし、B16に限らずこの間に数多くのいわゆるコンティニュエーションモデルが製造されているため、世の中には実際の数よりも多いB16が存在する。
残念ながらロッソビアンコ博物館のモデルについてはシャシーナンバーが不明のため真贋のほどは不明だが、この博物館の収蔵品は他の多くのモデルでも贋作が存在しないため、このB16も1971年までに作られた23台のうちの一台と考えられる。
B16には初期にはフォードのFVCが搭載されていたが、その後BMWユニットや1.6リッターのFVAユニットなども搭載された。もっともユニークなものはDBE14のシャシーナンバーを持つモデルで、B16として11台目に製造されたモデル。この車に搭載されていたエンジンは、マツダ製の10A 2ローターユニットである。元々はFVCが搭載されてデリバリーされたものだが、ベルギー人ドライバーの Yves Deprezによってロータリーに換装され、スパ1000km、あるいはニュルブルクリンク1000kmレースなどにエントリー。ニュルブルクリンクでは総合10位に入る活躍を見せた。また完走はならなかったものの1970年のル・マン24時間にも参戦し、ル・マンに出場した初のロータリーエンジン搭載車としてその足跡を残している。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh