長野県伊那市は、バスを移動する公民館として利用する「モバイル公民館 (愛称:モバco)」の運行を開始した。基幹公民館で行う講座をインターネット回線で中継し、バス車内や別会場で受講できる。伊那市にその特徴と狙いについて聞いてみよう。

  • 長谷循環バスを改装したモバイル公民館「モバco」

伊那市・行政MaaSの4本目の矢となる「モバイル公民館」

「SMOUT移住アワード2022」の「人気移住地域ランキング」において1位を獲得するなど、だれ一人取り残さない街づくりで知られる長野県伊那市。中山間地域が多いという土地柄から、近年はMobility as a Service (MaaS)を活用して情報や医療、行政機能などを提供するという行政サービスを推進している。

その皮切りは、2021年開始のAIを活用した乗合タクシー「ぐるっとタクシー」。ドアツードアの移動ニーズに応えるために導入された。だが、歩くのが難しい人は乗合タクシーの利用もまた難しい。そこでオンライン診療専用車両で診察を行う「モバイルクリニック」がスタート。現在では超音波診断装置も導入され、妊産婦の検診も可能となった。

2022年には、昼間に運行予定のない路線バスを活用して行政サービスを行う「モバイル市役所」を導入。行政手続きのための移動が難しい人をカバーした。そして4月11日、新たに発表されたのが「モバイル公民館」だ。バスの愛称は、公募で「モバco (もばこ)」に決定した。

モバイル公民館の狙いは、高齢者や身体の不自由な人、自動車運転免許の返納者といった地域コミュニティへの参加が難しい人たちに対し、バス車内や別会場での交流活動を提供することにある。

伊那市役所で行われた発表会では、白鳥孝市長が「このサービスは福祉の視点に基づき、『だれ1人取り残さない』『ここで暮らし続ける』を実現するための取り組みです。長野県は公民館活動が盛んで、また非常に自由度が高く、文化・芸術や歴史に関するさまざまな取り組みが行われております。多くの皆さんに活用していただくことを望んでいます」と、市民に向けた挨拶を行った。

  • 左から、NTT東日本 茂谷浩子氏、MONET Technologies 清水繁宏氏、伊那市 白鳥孝市長、ジェイアールバス関東 太田治彦氏

モバイル公民館は、バスに搭載したオンライン会議システムを利用し、9つの基幹公民館および総合型スポーツクラブで行う講座を中継するという仕組み。「ぐるっとタクシー」の拡大によって昼間運行がなくなった長谷循環バスを改装し、車両として利用している。なお、この取り組みには地方創生推進交付金が活用されるため、伊那市の負担は約5%だ。

  • 交流型MaaS「モバイル公民館」の概要

発表会後には実際に市役所ホールとバス車内をつなぎ、レクリエーションを実施。白鳥市長の他、MONET Technologiesの清水繁宏氏、ジェイアールバス関東の太田治彦氏、NTT東日本 埼玉事業部 長野支店の茂谷浩子氏らも参加し、公民館講座の実演が行われた。

  • 公民館側でのレクリエーションと中継の実演

  • バス車内ではスクリーンに投影された映像で講座を受ける

地域コミュニティへの参加の場を提供するための「モバco 」

モバイル公民館「モバco」によって、地域社会との関わりが希薄な住民に対してバスで公民館活動を提供し、地域交流を活発化させる。MaaSのコーディネーターとして構築全般を担当した伊那市 企画部企画政策課 新産業技術推進係 新産業技術推進コーディネーターの谷田 覚氏、モバイル公民館でコンシェルジュを担当する伊那市 企画部 企画政策課 新産業技術推進係 集落支援員の宮下智美氏は、モバイル公民館が誕生した経緯について次のように語る。

「伊那市には、地域コミュニティへの参加が難しい方々の交流が減少しているという大きな課題がありました。そういった地域のみなさんに繋がりを持ってもらうために、公民館活動を豊かにしなければなりません。地域の交流の場を中山間地域にも持っていきたいと思いました」(伊那市 谷田氏)

  • 伊那市 企画部企画政策課 新産業技術推進係 新産業技術推進コーディネーター 谷田 覚氏

「各地区ごとに大きな公民館はあるんですけれど、やはりそこまで来るのがもう大変な方が多いのです。公民館活動に参加されているのは高齢者の方が多く、運転免許を返納されている方や足の悪い方もいらっしゃいます。そういった方のご自宅近くまでバスで伺うことができます」(伊那市 宮下氏)

  • 伊那市 企画部 企画政策課 新産業技術推進係 集落支援員 行政サービス支援員 宮下智美氏

運行がない昼間のバスを活用するというアイデアは2022年の「モバイル市役所」と同じだが、バス車内の作りは大きく変わっている。なぜなら、モバイル市役所は市役所の窓口であり、基本的に一対一の対応ができれば良いが、モバイル公民館は最大10人、運動を伴う場合は5人前後が同時にバス車内を利用するからだ。

「バスの中央にしっかりとスペースを確保するために、今回は横向き座席も導入しました。またモバイル市役所の反省を活かし、車外モニターにもスピーカーを搭載しています。配線はモバイル市役所よりもずっと複雑になっていると思います」(伊那市 宮下氏)

車内には撮影用のビデオカメラ、投影用のプロジェクターとスクリーン、音響用のAVアンプと5.1chスピーカーが設置されている。必要備品としてWi-FiルーターやノートPC、プリンター、会議用スピーカーフォン、車外モニターなども搭載。また車内環境の維持のため、ルーフエアコンやFFヒーター、オーニング、サンシャットカーテンも用意する。これらに必要な電力は、車内に搭載したポータブル電源から供給される。

  • さまざまな公民館活動に対応する車内設備

  • 中央の空間が広々としている「モバco」車内

  • 公民館から中継された映像と音声を届ける投影・音響機材

  • 車内の様子を公民館側に届けるビデオカメラ

公民館とバス車内で一体感を得るための工夫

モバイル公民館の取り組みが開始されたのは2022年7月のこと。その後、10月まで車両設計、11月に基幹公民館への「ギガらくWi-Fi」導入が行われる。12月には通信テストがスタートし、2023年1月以降はテスト運行へとフェーズが移行。各公民館においてそれぞれ2回程度の催しを中継したのち、2023年4月に本格的な導入に至った。

NTT東日本 長野支店 第二ビジネスソリューション部 テクニカルソリューション担当 関 有紗氏は「移動する車両に通信機器を搭載し、電波の弱い中山間地域を含む伊那市全域に赴くため、前任者が蓄積したノウハウなども参考にして対応しました」と振り返るとともに、もっとも苦労した点として「オンライン参加者とオフライン参加者の一体感」を挙げる。

  • NTT東日本 長野支店 第二ビジネスソリューション部 テクニカルソリューション担当 関 有紗氏

公民館活動をリアルタイムに共有し、交流を行うためには一体感の醸成が欠かせない。オンラインであることを極力感じさせないよう、NTT東日本は技術面だけではなく、公民館側の機材の使い方、講師側のレクリエーションの進め方においてさまざまなフォローを行ったという。

「NTT東日本さんには、テスト運行でずいぶんお世話になりました。システム上、映像に遅延が発生するのはしょうがないことなのですが、現地で対面している人たちに比べ、映像の向こう側にいる人の反応はどうしてもワンテンポ遅れます。このやり取りを自然にするために、いろいろなアドバイスをいただきました」(伊那市 谷田氏)

複数のビデオカメラとビデオスイッチャーの導入も工夫のひとつだ。現地でレクリエーションを行うのであれば、講師が全体と個人を見るのはたやすい。しかし、オンラインではビデオカメラの映像しか見れないため、カメラが1台だと視点が限られてしまう。

「複数のカメラがあると、引きだけでなく寄りの画面も見れるので、表情がわかるんです。また、後ろ側にもカメラを搭載できるようになっていて、参加者がバスに入ってくる様子が公民館から確認できるので、参加人数も把握できるんですよ。これらは講師が実際にやってみなければ気づかない点でした」(伊那市 谷田氏)

  • コンシェルジュがビデオスイッチャーを使いながらバス内の映像をコントロールする

住民との距離が近い伊那市のMaaS

順調な滑り出しを見せているモバイル公民館。現在は、遠隔地でも開催しやすい講演会を中心に活動が行われているが、今後はさまざまなイベントで活用を進める予定だという。

「現在、健康マージャン教室を行っております。カメラ4台をスイッチャーで切り替え、それぞれの手牌が見えるようにしています。また、4月29日には『信州伊那長谷 中尾歌舞伎』のパブリックビューイングも開催しました。住民の皆さんからご要望があれば、できる限り対応していきたいと思っています」(伊那市 宮下氏)

  • 4月29日には中尾歌舞伎のパブリックビューイングも開催された

またNTT東日本 長野支店の関氏は、前任者から仕事を引き継ぎ、モバイル公民館事業に関わった率直な感想を次のように語る。

「今回の事業は住民のみなさまとの距離が非常に近いお仕事でした。私個人がNTT東日本に入社したきっかけは『長野の役に立ちたい』という思いだったので、少しでも貢献できていればいいなと思っています。ありがとうございます」(NTT東日本 関氏)

伊那市の行政MaaSは、少子高齢化と地方の過疎化が進む中での交通・交流、そして生き方に対する一歩先のアプローチといえる。他の地方自治体も参考になる点は多いだろう。最後に谷田氏は、伊那市民に向け、次のようにメッセージを送った。

「新しい技術、新しい取り組みをどんどん取り入れ、市民のみなさまに住みやすい場所を提供するのが伊那市の考え方です。これは伊那市だけではできないことですので、今後ともいろいろな企業のみなさんにもご協力いただきながら、チャレンジしていきたいと考えています」(伊那市 谷田氏)