明智光秀といえば、本能寺の変を起こした人物として多くの人が一度は名を聞いた経験があるはずです。その一方で、その他には何をした人なのかよくわからないという人も少なくないでしょう。

本記事では、明智光秀とはどのような人物なのかを詳しくご紹介します。

  • 明智光秀とはどんな人物? 何をした人?

    明智光秀とはどのような人なのでしょう

明智光秀の生涯の年表

明智光秀の人生の節目におけるイベントをまとめた年表が以下となります。こちらも踏まえながら、明智光秀の人生を紐解いていきましょう。

西暦 出来事
1516年 美濃で明智光兼の子として誕生する
1535年 主君の土岐頼純とともに斎藤道三と戦うも、越前へ敗走
1556年 斎藤義龍の加勢を得て斎藤道三を討ち取る
1568年 足利義昭と共に京都に入る
1569年 足利義昭直属の御家人・奉公衆となる
1571年 比叡山焼き討ちを織田信長から評価され、坂本城主となる
1575年 丹波攻めを命じられる
1578年 丹波攻めの拠点として亀山城の築城を開始する
1579年 丹波を平定する
1580年 大和検地を実施
1582年 本能寺にて謀反を起こし、織田信長を自害に追い込む
1582年 一揆によって命を落とす(諸説あり)

明智光秀はどんな人なのか、何をした人物なのか

明智光秀は安土桃山時代の末期、いわゆる戦国時代に活躍した武将の一人です。出身は現在の岐阜県にあたる美濃国とされていますが、もともとどのような家で生まれたのかなどは明らかにはされていません。

明智光秀といえば、最も有名なのは本能寺の変です。戦国時代のスーパースターである織田信長の命を奪った大事件であり、戦国時代のターニングポイントとなった類を見ない謀反事件です。

このように歴史を大きく動かすことになった明智光秀ですが、その他には何をした人物なのかは案外知られていません。ここでは、明智光秀が何をした人物なのかを詳しくご紹介します。

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明智光秀の戦いの歴史

一般社団法人「明智継承会」によると、美濃国の生まれである明智光秀はまず、土岐頼純に仕えることになります。ただ、土岐頼純は斎藤道三に毒殺されてしまったため、明智光秀は斎藤道三と敵対していた斎藤義龍と手を組み、主君の復讐を果たします。

その後、室町幕府第15代征夷大将軍の足利義昭に仕えたことをきっかけに、織田信長と出会いました。織田信長は室町幕府との関係が深かったこともあり、もともと光秀は義昭と信長の両方に仕えていましたが、最終的には信長の直接の家臣となっています。

その後、信長と共に戦国時代の激しい戦いに身を投じていくことになります。特に大きな働きをしたとされるのが、一向一揆を鎮めるための比叡山焼き討ちです。その実行部隊としての活躍が認められて所領を与えられています。そこに建てられたのが坂本城です。

その後も丹波の平定においても活躍し、1579年には福知山城も築城して織田家においてトップクラスの武将へと躍り出ました。

明智光秀と織田信長の関係

光秀は最初から織田家の家臣だったというわけではなく、室町幕府の将軍・足利義昭の家臣を経ています。当初は両方に仕える形でしたが、表面上協力していた信長を義昭が討つべく兵を挙げたタイミングで、光秀は織田家の武将として戦うことを決意し、直臣となっています。

その後は信長に付き添って武功を挙げ続けたことによって信頼を積み重ねていきました。

信長は多くの家臣を抱えていましたが、中でも光秀への信頼は厚かったとされており、天下統一に向けて重要な意味を持つ丹波の攻略なども任されました。一国の攻略を任されていたのは基本的に織田家の重臣である柴田勝家や羽柴秀吉、佐久間信盛らのみであったことから、光秀もこの時点で重臣扱いであったと言えるでしょう。

政治家や文化人としての一面も

光秀は、延暦寺焼き討ちや丹波攻略などによって信長から所領を与えられています。そこでは、武将としてだけでなく政治家としても優れた手腕を発揮しました。人心掌握にも優れていたとされており、丹波の領民は現在に至るまで光秀の善政を称え、大祭が行われているほどです。それだけ慕われる領主でした。

出身や家柄などに左右されることなく、能力主義で重要なポストを決めていくという考え方は現在にも通じる人材活用・政治であると言えます。

また、都市計画・設計にもその手腕を発揮したとされています。福知山城の城下町にあたる亀山では、地形などを活かしつつ領民の視点で統治しやすいさまざまな工夫が施されています。

明智光秀と本能寺の変

ここからは戦国時代の大事件で、日本史上最大の謀反事件の一つである本能寺の変について詳しくご紹介します。

  • 明智光秀と本能寺の変

    本能寺の変により歴史は大きく動きました

本能寺の変とは

本能寺の変とは、1582年6月2日、本能寺に滞在していた織田信長を明智光秀が襲撃した事件のことを指します。この謀反は成功したものの、その後に光秀は味方を得ることができず、本能寺の変からわずか10日ほどで山崎の戦いにて秀吉の率いる軍に大敗。その後、命を落としました。

明智光秀が謀反を起こした理由

明智光秀が本能寺の変を起こした理由については実ははっきりとしていません。すでにご紹介した通り、光秀は織田家において重臣として扱われており、戦功を認められて所領も与えられています。織田家の武将の中でも決して扱いが悪かったわけではなく、むしろ信長に深く信頼され、優遇されていたと考えられます。

有力な説としては、将来への不安を感じていたというものが挙げられます。信長は成果を上げた家臣にはかなりの報奨を与えたことで知られています。一方で、何か失敗をした場合の処罰も厳しいものであり、重臣であっても追放されることも。そのような状況に不安を感じるのも無理はありません。

また、信長は多くの敵を作ってしまったこともあり、明智光秀が別の黒幕に操られていたという説もあるようです。

本能寺の変の意味

本能寺の変によって信長を討った光秀ですが、前述の通りすぐに秀吉に討たれています。そのため、結果として光秀は何も得ることはできませんでした。しかし、当時大きな勢力を誇っていた信長の死によって歴史は大きく動くことになります。特に、重臣であった羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を討った勢いのまま信長の後継として勢いを増すことになりました。

この秀吉の勢いが、後の天下統一へと導いたのです。

明智光秀の死因

光秀は山崎の戦いで秀吉軍に大敗した後、山中で死去したとされています。しかし、これは秀吉の軍によるものではなく、落ち武者狩りの農民の手にかかったという説があります。一般社団法人「明智継承会」によると、光秀は「醍醐の辺りで郷人一揆に討たれ、首が本能寺に届けられた」そうです。

ただ、自害したという説や生き延びて僧となり、後に江戸幕府を開いた徳川家康のブレーンとして仕えたという説もあり、最期まで謎の多い生涯となりました。

明智光秀がしたことを簡単に紹介しました

明智光秀は本能寺の変を起こした人物として広く知られています。しかし、武将として多くの功績を立ててきたのみでなく、優れた政治家としての一面も持っています。

また、非常に謎の多い人物でもあるため、自分で調べたり、考察したりして歴史を楽しんだりしてみてはいかがでしょうか。