源頼朝の正室で「尼将軍」として歴史に名を残している北条政子は、大河ドラマにも登場する人物です。彼女の生涯を知ることで鎌倉幕府の流れがわかります。

本記事では、北条政子がどのような人物だったのか、その生い立ちから源頼朝との出会い、人柄を表すエピソード、承久(じょうきゅう)の乱での活躍、また死因などについて解説します。北条政子の人生から学べることやゆかりの寺もご紹介するので、ぜひ目を通してください。

北条政子とは? どんな人だったのか

  • 伊豆国で生まれた北条政子の生い立ちや、源頼朝と出会ったきっかけも解説します

    伊豆国で生まれた北条政子の生い立ちや、源頼朝と出会ったきっかけも解説します

ここでは北条政子の生い立ちや、のちに夫となる源頼朝との出会いについて解説します。

伊豆国(現在の静岡県)で誕生した北条政子の生い立ち

北条政子(ほうじょうまさこ)は、保元(ほうげん)2年(1157年)に伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)で、北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として誕生しました。北条時政の一門は伊豆国の有力者で、平安京を築いた桓武天皇(かんむてんのう)に系譜を持つ平直方(たいらのなおかた)の子孫だといわれています。

北条政子の弟には北条義時(ほうじょうよしとき)がいます。

夫・源頼朝との出会い

北条政子がのちの夫となる源頼朝(みなもとのよりとも)と出会ったのは、平治の乱に敗れた源頼朝が流罪となったことがきっかけです。父の北条時政が監視役に任命されたため、源頼朝は伊豆国へ配流されました。

当時、源頼朝は14歳、北条政子は4歳でしたが、源頼朝が流刑の身のまま約20年の間を伊豆国で過ごすうちに、二人は恋愛関係へ発展します。

北条政子のことがわかるエピソード

  • 数々のエピソードから、北条政子の芯の強い人柄が伺えます

    数々のエピソードから、北条政子の芯の強い人柄が伺えます

ここでは、北条政子の人柄を表す逸話をご紹介します。

周囲の反対を押し切って源頼朝と結婚

恋人同士となった北条政子と源頼朝は結婚を希望しますが、北条家は平氏の流れを汲んでいる家系のため、対立関係である源頼朝との結婚は周囲から猛反発を受けます。父・北条時政も二人の結婚を阻止しようと別の人との結婚を画策しますが、北条政子は駆け落ち同然で源頼朝と結婚したといわれています。

跡取りのはずだった長男を幽閉

北条政子と源頼朝は2男2女の子どもに恵まれました。跡取りである源頼家(みなもとのよりいえ)は、建久10年/正治元年(1199年)に源頼朝が急死すると家督を継ぎ、建仁2年(1202年)には21歳という若さで鎌倉幕府の2代将軍となります。

しかし、源頼家が自身の乳母の夫である比企能員(ひきよしかず)を重用したり、比企能員の娘を妻とし、長男・一幡が生まれたりした影響で、比企能員の勢力が増します。その状況に北条政子は危機感を覚え、建仁3年(1203年)に源頼家が急な病に倒れている間に、北条政子の次男であり、源頼家にとっては弟である源実朝(みなもとのさねとも)を関西38カ国の地頭職としてしまいます。

その後、病から回復した源頼家は権限を奪われたことに憤慨し、比企能員とともに北条氏を排除しようとしますが失敗。北条政子は源頼家に出家を命じたといわれています。こうして源頼家は伊豆国の修善寺に幽閉されたのち、北条氏の刺客によって殺害されました。

息子に実権を与えるため父・北条時政を追放

長男で鎌倉幕府の2代将軍であった源頼家を出家させた北条政子は、父・北条時政とともに、当時わずか12歳であった次男・源実朝(みなもとのさねとも)をついに3代将軍に擁立しました。

源実朝が幼かったため、政子の父・北条時政が補佐役として初代執権に就任しますが、補佐役の枠を超えて鎌倉幕府の政治を取り仕切ります。さらに、北条時政は源実朝の代わりに、自身の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍に擁立しようと企てます。

父親の計画に気づいた北条政子は、息子が追放されないように、弟・北条義時と相談して北条時政を出家させ、幕府や政治の世界から追放。2代執権には北条義時が就任しました。

自身が実権を握り「尼将軍」と呼ばれるようになる

北条政子は自身の長男と父親を立て続けに追放し、鎌倉幕府を安定させようとします。しかし「父の死は叔父・源実朝の陰謀によるものである」と疑った頼家の子、公暁(くぎょう)によって、3代将軍・源実朝が暗殺されてしまいます。建保(けんぽう)7年/承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮での出来事でした。

源実朝には実子がいなかったため、北条政子は次代の将軍となる人物を探すため奔走。源頼朝の遠縁関係である藤原頼経(ふじわらのよりつね)を京都から招いて、4代将軍に迎え入れました。しかし藤原頼経は2歳の幼児だったため、北条政子が後継人となって実権を握ります。北条政子は源頼朝の死後に出家していたので、周囲から「尼将軍」と呼ばれるようになりました。

北条政子は承久の乱で活躍

  • 北条政子が行ったとされる承久の乱での演説は、名言として後世に伝わっています

    北条政子が行ったとされる承久の乱での演説は、名言として後世に伝わっています

北条政子が活躍したエピソードとして承久の乱が挙げられます。承久の乱とは承久3年(1221年)に幕府側と朝廷側の間で起こった争いです。

きっかけは3代将軍・源実朝の暗殺事件

承久の乱のきっかけは、3代将軍・源実朝の暗殺事件といわれています。鎌倉幕府はもともと、天皇家を含む朝廷側から政権を奪う形でスタートした幕府だったため、朝廷側は権力奪回の機会を狙っていました。源氏は天皇家の流れを汲む家系だったこともあり、1代将軍・源頼朝、2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝まで朝廷側は静観していましたが、源実朝が暗殺されたことにより均衡が崩れます。

後鳥羽上皇が御家人に鎌倉幕府を討つように命じる

82代天皇である当時の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)や朝廷側は、鎌倉幕府に奉じていた御家人たちに対して、2代執権・北条義時を討伐するよう命じます。これが、承久の乱の始まりです。

鎌倉幕府の政権は武家が握っていたとしても、天皇や朝廷は御家人にとって絶対的な存在。幕府側に恩義がある御家人は朝廷側との間で板挟み状態となってしまいます。

北条政子が行った演説・名言

幕府側と朝廷側との間で板挟みとなり苦悩していた御家人たちに気付いた北条政子は、彼らを鼓舞するために自ら演説を行った、あるいは安達景盛(あだちかげもり)が彼女からの言葉を代読したといわれています。

その言葉の内容にも諸説ありますが、ここでは有名な歴史書『吾妻鏡』の一節の意訳をご紹介します。

「故右大将軍(源頼朝さま)が朝敵(平家)を倒して関東(鎌倉幕府)を開いてから、あなたたちの地位は上がり土地も与えられましたね。その御恩は、山よりも高く海よりも深い。その御恩に報いようという思いが浅いはずはないでしょう?」

北条政子は演説で御恩と奉公の大切さを話しました。源頼朝が戦で活躍した御家人たちに褒美として土地を与えることが「御恩」、源頼朝のために駆けつけて戦うことが「奉公」です。それを説いた北条政子は「三代にわたる将軍の遺跡(ゆいせき)を守ってください。ただし朝廷側につきたい者は今すぐここで申し出なさい」と伝えます。

さらに悪いのは上皇ではなく、彼を唆した人物であることを強調し、上皇ではなくその首謀者たちを討ち取るのだと、御家人たちの恐怖を和らげます。この演説を聴いた御家人たちは涙を流し幕府側につくことを決心。北条政子の名言によって団結した幕府側は、承久の乱で勝利しました。

北条政子の死因は不明

  • 北条政子は承久の乱の4年後に亡くなりました

    北条政子は承久の乱の4年後に亡くなりました

北条政子の詳細な死因は明らかになってはいませんが、承久の乱の4年後、元仁(げんにん)2年/嘉禄(かろく)元年(1225年)に病に伏したとされています。一時は回復するも再び容体が悪化してしまったため、生前に自分自身の冥福を祈る仏事である逆修(ぎゃくしゅ)を執り行いました。その約1カ月後、危篤状態に陥りそのまま永眠したといわれています。

北条政子の人生から学べること

  • 北条政子の人生からは、鎌倉幕府の流れと強いリーダーシップが学べます

    北条政子の人生からは、鎌倉幕府の流れと強いリーダーシップが学べます

北条政子の人柄を表すエピソードや承久の乱での活躍など、彼女の人生を通して以下のことが学べます。

鎌倉幕府の流れ

鎌倉幕府は源頼朝が開いた幕府ですが、北条政子との出会いから幕府の成り立ち、実権を握るまでなど、幕府の歴史に彼女の存在は欠かせません。さらに、源頼朝の死後に実権を握り、承久の乱を鎮めた北条政子の人生を知ると、鎌倉幕府の流れへの理解が深まるでしょう。

強いリーダーシップ

北条政子の人柄を表すエピソードや承久の乱での活躍からは、彼女の強いリーダーシップが学べるでしょう。源頼朝の死後は尼将軍として活躍して鎌倉幕府の発展に貢献。承久の乱では自身の演説で心を掴み、御家人たちを動かしています。ただでさえ多くの人をまとめるのは難しいことですが、さらに当時、女性という立場で御家人(武士)をまとめることは容易ではなかったはずです。

北条政子が亡くなったことが翌日に発表されると、多くの人々が出家して追悼の意を表しました。このエピソードからは北条政子が広く慕われていたことがわかります。このようにリーダーシップを持ち合わせると、立場や性別に関係なく人がついてくるのだということが学べます。

北条政子は大河ドラマにも登場する人物

  • 岩下志麻さんや小池栄子さんらが北条政子を演じています

    岩下志麻さんや小池栄子さんらが北条政子を演じています

北条政子はNHKが制作する長編歴史ドラマシリーズ「大河ドラマ」にも登場し、名優が演じています。

「草燃える」では岩下志麻さんが演じた

1978~1979年度に放送された大河ドラマ「草燃える」では、岩下志麻(いわしたしま)さんが北条政子を演じました。「草燃える」は鎌倉幕府を開いた源頼朝の時代から承久の乱までの転換期を、北条政子が家族との骨肉の争いに苦悩した生涯を軸にして描いています。

「鎌倉殿の13人」では小池栄子さんが演じた

2022年に放送を開始した大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子(こいけえいこ)さんが北条政子を演じています。「鎌倉殿の13人」は、北条政子の弟・北条義時が主人公の物語。源頼朝と北条政子が結婚したことをきっかけに大きく動いた北条義時の人生を描いています。

その芯の強さから、時には「悪女」と呼ばれることもある北条政子ですが、小池栄子さんはインタビューにて、北条政子のチャーミングさや、親しみを表現できるよう意識していると語っています。

北条政子のゆかりの寺

  • 北条政子に興味がある人はゆかりの寺を訪れてみるのもおすすめです

    北条政子に興味がある人はゆかりの寺を訪れてみるのもおすすめです

ここでは、北条政子のゆかりの寺をご紹介します。

北条家にゆかりがある成福寺(じょうふくじ)

静岡県伊豆の国市には、北条家にゆかりがあるとされる成福寺があります。成福寺の敷地内には源頼朝と北条政子に関係があるといわれる別邸も存在。そして成福寺の後方には北条政子の産湯であったとされる井戸もあります。

源頼朝の菩提寺が前身の安養院(あんよういん)

神奈川県鎌倉市大町には、源頼朝の菩提寺とされる安養院があります。安養院の前身は元仁2年/嘉禄元年(1225年)に建立された長楽寺だといわれています。長楽寺は北条政子が源頼朝の冥福を祈るために現在の鎌倉市笹目町に造られたとされる寺です。

長楽寺は鎌倉幕府が滅亡した際に一度焼失しましたが、ここ鎌倉市大町にあった善導寺の跡地に移され再建。のちに、現在の安養院と名称が変えられました。安養院の本堂には北条政子像が安置されています。

北条政子の墓所・寿福寺(じゅふくじ)

神奈川県鎌倉市扇ガ谷には北条政子の墓所とされる寿福寺があります。寿福寺は源氏に受け継がれてきた土地にあり、源頼朝の父・源義朝(みなもとのよしとも)の屋敷もあったとされています。

寿福寺には北条政子と3代将軍・源実朝のお墓だと推測されている五輪塔があり、境内の裏山にあるやぐらの中に納められています。

強いリーダーシップで激動の時代を生きた北条政子の生涯から学ぼう

北条政子は保元2年(1157年)に伊豆国で北条時政の長女として誕生しました。平治の乱に敗れ伊豆国にて流刑の身となった源頼朝と出会い、やがて二人は恋人関係に発展。源氏は平氏の流れを汲む北条氏と敵対していたため親族は猛反発しますが、北条政子は周囲の反対を押し切って結婚します。

跡取りの長男の幽閉や自身の父親を追放、自分が実権を握り尼将軍と呼ばれるようになるなど、北条政子の強い信念を表すエピソードは盛りだくさんです。特に、承久の乱での活躍は覚えておきたい逸話の一つといえます。

北条政子の生涯を知ることで、鎌倉幕府の流れや彼女のリーダーシップが学べるでしょう。北条政子のゆかりの寺もあるので、気になる人はぜひチェックしてみてください。