「頼家様が寝ている間に比企とお身内をまとめて滅ぼしました。言えるわけないでしょ」(時房〈瀬戸康史〉)とはなんてブラックなセリフ。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(NHK総合 毎週日曜20:00~ほか)の第32回「災いの種」(脚本:三谷幸喜 演出:吉田照幸)は、病に倒れた源頼家(金子大地)が奇跡的に復活したため、北条家があわてふためいた。なんとかその場を取り繕うとする北条家の生き残り作戦に巻き込まれたのは仁田忠常(ディモンディ・高岸宏行)と比奈(堀田真由)。とりわけ仁田は気の毒だった。しかも三谷幸喜氏が書いた仁田の顛末が非常にミステリアスなので、その謎について考えてみたい。
仁田忠常は序盤から朴訥(ぼくとつ)な雰囲気で場を和ませてくれた(ただし腕っぷしは強いようだ)。仁田が北条と頼家の板挟みで自決してしまう。この時代を描いた物語には名誉と誇りのために自ら命を絶つ描写はよくある。ところが、『鎌倉殿』では自死を書くことがこれまで少なかった。一例は八重(新垣結衣)。史実だと川に身を投げた説が残っているが『鎌倉殿』ではそうは描いていない。子供を助けようとして命を落とすのだ。
闘いに破れ死んでいく者も最後まで全力を尽くして散っていく、そういう描写が多かった。ところが仁田は違う。北条と頼家のいさかいの間でどうしていいかわからず死を選ぶのだ。貴重な歴史的資料として代表的な『吾妻鏡』、第32回で初登場した慈円(山寺宏一)の書いた『愚管抄』でも仁田が能動的に死んだ記述はない。なぜ、三谷氏は仁田を悩んだ末の自死にしたのだろうか。
北条家の公式記録である『吾妻鏡』では北条の命令を果たせなかったため死んだ(殺された)となっている。一方、北条家に忖度がない慈円は『愚管抄』で仁田は義時と戦って死んだとなっている。
『吾妻鏡』は徳川家康も愛読したらしいが、あくまでも北条家に都合よく書かれた記録だ。この『吾妻鏡』をベースにして書いているといわれる三谷氏の脚本では、仁田が悩みを義時に相談したら、忙しいとスルーされ、そのあと、刀で首を斬り絶命する。それを知った義時は、話を聞いてあげればよかったというようにやや涙ぐんだ素振りをする。
これまで三谷氏は『吾妻鏡』で抜けている部分を豊かな想像力で描いてきた。今回の仁田の描き方は特別のように感じるが、『鎌倉殿』のなかでは誰が仁田を殺しても悲しすぎるからやめておこうということだろうか。あるいは、第32回は義時がもっと無情な行為に及ぶので、これ以上はやめておこうということか。
比企の変での一幡の行く末も『吾妻鏡』では変のときに亡くなって、近衛家実の日記『猪熊関白記』ではこの時点では殺されてなかったとあり、『愚管抄』では義時が殺したと書いてあるそうだ(「吾妻鏡ビギナーズ・クラシック 日本の古典」より)。
この違いはなんだろうか。ちょうど慈円が出てきたので、彼は義時情報をどこから得たのだろうなどと考えてしまった。京都にいるから情報が錯綜していたのだろうか。
いつの世でも、記録だからといって正確とは限らない。書いた人の主観が働くし、そのときの都合で作成されてしまうことはありがちだ。勘違い、調査不足ならまだしもひどくなると文書改ざんになる。
『鎌倉殿』では義時は仁田も一幡も自分の手では殺さなかったが、彼の非情さは色濃くなっていく。これまで、義時は狙ってやっているわけではないのに、結果的に粛清に加担するような感じであった。上総(佐藤浩市)のときも義経(菅田将暉)のときも全成(新納慎也)のときも……。比企能員(佐藤二朗)のときも一応、円満に済ます提案はしている。でも結局、殺すハメになるのだ。すべては北条家を守るために。
義時を演じる小栗旬は明るいところと暗いところでは猫の眼が変わるように、非情な局面では黒目が小さくなるように見えて、いや、まさか、黒目の大きさまで変えてはいないよねえと驚いた。
一幡だけは生かしてほしいと政子(小池栄子)に頼まれたが殺してしまった(じつは、泰時〈坂口健太郎〉が生かしていたのだが)と言ったときの目つきや、善児(梶原善)に一幡を殺すよう命じるシーン、「父上はおかしい」と泰時に言われたときの表情など、情に流されないぞという顔つきで、善とか悪ではなく、ひたすら任務に忠実なだけの企業戦士感。以前は、そのマシーン感の極地だった善児が、一幡に情が移って、殺すことをためらう。善児の顔が、優しさ、愛情、慈悲などの感情の陰影を帯びているのが印象的。義時と善児が入れ替わってしまった。
心の中で渦巻く感情を閉ざして、任務のみに頭を動かすようになってきた義時だが、離縁してくださいと申し出る比奈の献身に、後ろから抱きしめ、上をむいて涙がこぼれないようにする場面などはキュンとなる。まだ少しは情が残っていると思いたい。
比奈のラストカットは正面アップ。最初は積極的で活発な印象の比奈だったが、実家を捨てて北条のために働いたのは、義時への愛情ゆえだろう。でも義時は、亡くなったとはいえ八重という最愛の人がいて、比奈のことは比企との情報を得るために利用していた節もある。ただ、完全に利用目的ではなく愛情や信頼が芽生えていったことだろう。だから苦しい。義時の任務のために自己犠牲をはらったともいえる比奈の最後を、カメラ目線のアップでしっかり映すのは、決して彼女は犠牲になったのではなく、これも彼女の選んだ道なのだという信念のようなものを感じた。
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