第166回直木賞を受賞した『塞王の楯』。戦国時代の近江の国を舞台に、石積み職人の集団「穴太衆」と鉄砲職人集団「国友衆」の戦いが展開、あっと驚く戦術、攻防の連続で第一級のエンターテインメントを堪能できます。もとダンススクールのインストラクターという異色の経歴を持つ作者の今村翔吾さんに作品の背景や受賞までの道のり、歴史小説の魅力やZ世代へのアドバイスを伺いました。

  • 『塞王の楯』。舞台は戦国時代、ヒーローは「石積み職人」の理由(わけ) / 直木賞作家・今村翔吾

■「30歳からでも夢は叶う」を有言実行

……直木賞受賞おめでとうございます。受賞の瞬間の涙が印象的でした。

受賞会見で号泣しながら「嘘を実に変えられた。子どもたちの想いを裏切らずに済んだ」と自分で言っていたらしいのですが、正直あまり記憶にないんです。

20代の頃、父親が経営していたダンス教室のインストラクターをしていて、その子どもたちと「いつか俺は小説家になる」という約束をしていたんです。

実は当時、生徒たちに「夢を諦めんなよ」って言ったことがあって、ある生徒から逆に「翔吾君だって夢を諦めてるくせに」と言われてガツンと衝撃を受けたんです。確かに当時は何も書いてませんでしたから。

それで「30歳になってからでも夢は叶うと俺の人生で証明する」って一念発起したわけです。受賞の知らせを聞いて約5秒間、おんぼろの練習場の床に座って僕を見つめていた子どもたちの視線が思い浮かんで、ワーッと感情が爆発しちゃいました。

受賞後、当時の教え子110人くらいからお祝いの連絡が来ました。それぞれ近況報告もしてくれて、順調にいってる子も、そうじゃない子もいるんですよ。夢に確実に近づいている子もいれば、どん底でもがいている子もいる。

彼ら彼女らがどういう局面にいたとしても、「こんな俺でもやれるんやぞ」「翔吾くんでもやれるんやから自分も頑張ろう」って思ってもらったらいいなって。

僕も10代の頃って、同じファミレスに365日中300日くらいいて、ダラダラ友達としゃべっているような若者だったんですよ。友達がいて、今いる場所の居心地は悪くないけど、自分が何をしたらいいかわからないし、どこへ行ったらいいのかもわからない。

そんな10代20代特有の悩みがある時期があって、僕もその一人でした。だから、「30歳からでも夢は叶う」って証明できてほっとしたというのが本当のところです。

■軍事産業に携わった人間たちを通じて戦争を描きたかった

……受賞作『塞王の楯』は石積み職人と鉄砲職人の対決を描いています。どうして武士ではなく職人にフォーカスしたのでしょう?

僕の場合、先に作品のテーマを決めて、それを最もうまく表現できる時代、出来事、登場人物を逆算で当てはめていきます。今回のテーマはひと言で言えば「人はなぜ争うのか」「なぜ戦争は起こり、なぜ終わるのか」ということを読者の皆さんと考えたいというのが、執筆のきっかけでした。

戦争について立ち止まって考えたとき、真っ先に頭に浮かんだのが「穴太衆(あのうしゅう)」という石積み職人の集団でした。直接的に戦争に関わる武将ではなくて、前線からは半歩ひいているところにいる、今風に言うと軍事産業に携わった人間たちを通じて戦争を描いてみたい、と思いました。

彼らは自ら手を下したわけではないけれど、戦争の片棒を担いでいるといえば担いでいる。戦い、破壊し、人を殺める葛藤のようなものを描くためには、彼ら職人がふさわしいんじゃないかと思いました。

武士はどこかで「殺すのが当たり前」で、それが職業というか、闘わざるを得ないということを幼い頃から腑に落として生きてる連中ですよね。ただ、職人というのは「死」に対しての耐性がない。人はどこかで平和を望んでいるということを描くなら、武将よりも職人を通してのほうがいい、と直感しました。もともと僕は火消しとか職人を描くのが得意ということもありましたしね。

……主人公の石積み職人・匡介が「鉄壁の石垣で乱世を終わらせる」と主張するのに対し、鉄砲職人の彦九郎(げんくろう)は、「守るだけでは泰平は築けぬ」と主張します。

そうです。これは言ってみれば「核の思想」ですよね。自分で書きながら思ったんですけど、彦九郎の思想は、現代の核抑止力の問題まで延びていってるんです。じゃあ、匡介の絶対に崩れない石垣の先にあるのは、「レーダー」や「迎撃システム」かというと、そうではない気がしたんです。

人間は確かに戦争を起こしてしまう愚かな生き物ですが、例えば「キューバ危機」のときに、戦争の勃発を止めたのは、結局、「戦争をしたくない」という人の心がガチッとかみ合ったからだと僕は思うんです。

今日のウクライナ情勢も含めて、開戦の緊張は過去に幾度となくありました。もし、その心がなかったらきっと10倍、100倍の量の戦争が起こっていたんじゃないかと思います。

匡介の考え方の果てにあるのは武器ではなくて、本能的に平和を欲する人の心だと思います。現代の最後の「楯」はそこじゃないのかなと僕は考えています。

……楯と矛という二元の対比、京極高次と立花宗茂、穴太衆と国友衆、匡介と彦九郎という対立軸で構成されていて、クライマックスでは2人の視線でシーンが交互に描かれます。

エンタメ的にそういう展開の方がハラハラドキドキするだろうなと思いました。匡介の視点で描いて、匡介の心で驚く、その答え合わせとして彦九郎が怒り、驚く、そうした問いと答え合わせの繰り返しなんです。

主人公は匡介なので、匡介に軸足はあるんですが、読者もどっちを応援していいかよくわからなくなってくるはずです。それが僕の狙いです。読者もお互いが葛藤しているのを知ってるから、「いやぁ、匡介も彦九郎のことわかってあげて」っていうような気持ちになってもらえたら成功です。

人と人との争いって、小さいものだと学校や家庭内でのケンカですが、微妙な、お互い同じことを思っているのにすれ違ってしまって争うことがある。戦争が始まってしまえばこういう歩み寄り方しかできないけれど、今の時代は対話したり、勇気を持って踏み出していくことで、同じ考え方を共有することができるんじゃないかな、という願いもこめて書いています。

戦っているのに会話をしているというか、最後に至っては、お互い聞こえてないのに会話がかみ合っている。実際にそういうことってあるんじゃないかと。あのシーン、実は自分でも結構好きなんです。

■小説は、僕の文章と読者の脳内の共同作業で作り上げるエンターテインメント

……一読して、歴史小説はハリウッドに匹敵するエンターテインメントだと感じました。

映画、テレビ、ゲーム、最近ならYouTubeも小説のライバルです。でも小説って一番原始的で古臭そうに見えて、実は最も表現のポテンシャルがあるメディアだと考えています。

人間の脳内で想像できる映像って、ゲームの最新機種の情報量をはるかにしのぐものだと科学的にも証明されているそうです。小説は、僕が書いた文章と読者のみなさんの脳内の共同作業で作るエンタメなんです。

人の脳のポテンシャル、創造力こそ、小説が他のコンテンツと戦っていける武器であり、脳内の映像はゲームよりもより鮮明に、より具現化されていく。みなさんの想像世界では、360度アングルを変えられますし、寄りも引きも自由です。

一人ひとり見ている映像も違いますし、受け取るメッセージも変わってくる。キャストのイメージもそれぞれが違うから、それぞれの楽しみ方をしてくれたらいい。

共同作業の受け手側の想像、イマジネーションの作業は、実は作り手側にまわる練習にもなります。だから、僕も司馬遼太郎先生や池波正太郎先生の本を読んで想像力を鍛えてきたことが、作り手側に回った時に大いに役立っています。

例えば池波作品の登場人物のイメージは、自分が読者に作品を届けていく際、発想の源流の一つになっていると感じます。

(次回『30歳でダンスインストラクターから作家に「転職」してつかんだ宝物 / 直木賞作家 今村翔吾』に続く)