金栗四三が開催に尽力した「箱根駅伝」の第1回大会が開催されたのは、1920(大正9)年2月。この頃、彼はまだ現役ランナーで、さまざまなチャレンジをしている。その一つが、「下関から東京までの1200キロ走破」─。

  • 「箱根駅伝」のネバーギブアップ精神! その原点は金栗四三と秋葉祐之の1200キロ走破にあった─。

    1919年夏、下関から東京まで1200キロを走破した金栗四三(右)と秋葉祐之。

「箱根駅伝」開催の約7カ月前、1919年7月に東京高師(現・筑波大学)の後輩・秋葉祐之とともに彼は下関をスタートした。
<速く走るだけではなく、いかに長く走るか>。
103年前の金栗の奇抜な挑戦を振り返る。

■面白い、挑戦してみよう!

マラソンランナーとしても実績を積んでいた秋葉祐之が、当時、獨逸学協会学校で教鞭をとっていた金栗のもとを訪ねたのは、1919年5月の晴れた日のことだった。 秋葉は言った。
「先生、私もいよいよ来年には卒業することになります。東京高師の徒歩部に籍を置いた記念に、ひとつ挑戦してみたいことがあるんです」
「そうか、何だ?」
金栗は、興味深そうに秋葉の目を見る。
「下関から東京までの1200キロを走り抜きたいんです。自分が、それをやれるかどうか試してみたいんですよ」
「それは素晴らしい」
金栗がそう言うと、秋葉は少し間を置いて、こう口にする。
「先生、そこでお願いがあります。ひとりで走るのは心細い。一緒に1200キロを走ってもらえませんか」
「そういうことか。よし、やろう」
この時、金栗四三は27歳。

下関から東京までの1200キロを走り抜くとなれば、コースを定めなければならない。また途中で宿泊することになり、現地でのサポートも必要になる。金栗は、後輩が記者として所属している朝日新聞社に相談した。
そして計画が練り上がった時には、金栗が想像していた以上に壮大なものとなっていた。 下関から東京までを走るとなれば、いろいろな場所に立ち寄ることになる。そこで、ランニングについての講演を行い、地元の子どもたちを指導するイベントも組み込まれることになった。
また、ふたりが走る模様は連日、朝日新聞の紙面を通し読者に伝えられることも決まった。

  • 下関から東京までの1200キロ走破に挑戦する直前に、金栗はマラソン足袋の改良を「播磨屋足袋店」の創業者・黒坂辛作に依頼した。そして、出来上がったのがゴム底の足袋だった。

■「お前って奴は…」

7月22日午前6時、金栗と秋葉は下関をスタートした。
1日目、2日目、3日目は快調に駆けた。しかし、1日に10時間以上走ったうえに、講演や指導も行うとなれば、睡眠時間を削ることになる。ふたりは徐々に疲労を蓄積させていく。

大阪に着いたのは7月31日。ここでアクシデントが生じた。秋葉の足首が、痛みを伴って腫れ上がってしまったのだ。
「無理はいかん。お前には将来があるから、ここでやめておけ。後は私が一人で走る」
金栗は、そう言った。しかし、秋葉は「いえ、走り続けます」と頑なだ。
草津、伊勢、亀山、名古屋、そして豊橋まで、秋葉は表情を歪めながらも金栗と一緒に走った。

しかし、限界が訪れる。
8月5日、先に袋井に着いた金栗は秋葉を待った。
だが、深夜になっても秋葉はやって来ない。金栗がコースを戻ろうかと考えていた時、彼から宿舎に電話が入る。
「先生、今日中には袋井へは着けません。いま浜松です」
金栗は言った。
「秋葉君、ここまでよく頑張ったぞ。ここからは私一人で行く。近くの病院へ行って足を診てもらいなさい」

この後には、さらに多くの講演や指導が入っていたこともあり、金栗はゆっくりとしたペースで東京へと向かう。静岡、沼津を経て国府津に入った。
(いよいよ明日は、東京に着ける。本当ならもっと早くゴールできたが、ちょっとゆっくりしてしまった)
宿舎に着き、そんなことを思いながら金栗は畳の上で大の字になっていた。 その時だった。
突然、「バン!」と大きな音を立てて襖が開く。
「先生!」
叫び声が聞こえる方に目を向けると、額に大粒の汗をかき、ゼーゼーと呼吸をする秋葉の姿があった。両膝をついて、肩を震わせている。

浜松から電話をかけてきた秋葉は、列車に乗り東京に帰ったと金栗は思い込んでいた。だが、そうではなかった。あの後、宿泊所に立ち寄ることもなく、走りと歩きを繰り返しながら東京を目指し前進し続けていたのだ。
「諦められませんでした」
そう話す汗だくの秋葉を金栗は抱きしめた。
「お前って奴は…」
金栗は嬉しくて涙を流した。

翌日の朝から、ふたりは肩を並べてゆっくりと走った。箱根を越して横浜まで辿り着くと、そこから品川まで歩いた。その後、またゆっくりと走り、8月10日にゴールテープを切る。
東京高師の先輩後輩、獨逸学協会学校の職員や生徒たち、体育協会の関係者、新聞記者、そして一般の人たち数百人が、ふたりを拍手で迎えた。 大歓声を浴び、花束を受け取った後に金栗は改めては思った。
(マラソンの練習は、やり方を工夫することも大切だ。でも、その前に必要なのは「絶対に走り抜く」という強い気持ちだ。これを伝えなければいけない)
その精神は100年以上経った現在も、「箱根駅伝」にしっかりと受け継がれている。

  • 仲間たちに囲まれてゴールする金栗四三と秋葉祐之。

(次回に続く)

▶金栗四三(かなくりしそう)プロフィール
1891(明治24)年8月20日、熊本県玉名郡春富村(現・和水町)生まれ。県立玉名中学校(現・県立玉名高校)、東京高等師範学校(現・筑波大学)卒業。オリンピックに3度出場。生涯で走った距離25万キロ。1983(昭和58)年11月13日永眠、享年92。

文/近藤隆夫、写真提供/玉名市歴史博物館こころピア