岩倉具視(いわくらともみ)は、幕末から明治期にかけて活躍した政治家です。

歴史をテーマにした作品にもよく登場し、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」や2018年の大河ドラマ「西郷どん」、また漫画「ちるらん」にも出てきています。さらに、お笑いコンビのカミナリがちょんまげ姿の岩倉具視を再現し、似ているとSNSで話題になったのを目にした方も多いのではないでしょうか。

この記事では、そんな岩倉具視について、人物像や功績などを紹介します。

  • 岩倉具視って?

    岩倉具視(いわくらともみ)はについて解説します

岩倉具視(いわくらともみ)とは

岩倉具視(いわくらともみ)は、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した政治家です。1825年に京都で前権中納言・堀河康親(ほりかわやすちか)の子として生まれ、13歳で岩倉家の養子になります。

岩倉家は公家ではあったもののあまり裕福ではなく、岩倉具視は貧しい暮らしを送っていました。

幕末・明治前期の政治家

岩倉具視は1853年に関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)の和歌の弟子となり、その翌年には29歳で孝明(こうめい)天皇の侍従(じじゅう)に出世。朝廷内で力を発揮していきます。

朝廷と幕府の関係強化を図る公武合体派であった岩倉具視は、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)と徳川第14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)との結婚を実現させ、徳川幕府との融和に努めました。

その後、岩倉具視は大久保利通(おおくぼとしみち)らと王政復古を成功させ、江戸幕府に代わる明治の新政府成立に貢献します。1871年には岩倉使節団の特命全権大使となったほか、天皇中心の国家をつくる方針を定め、皇室や華族の地位を保持することにも尽力しました。

岩倉具視の子孫には役者の加山雄三がいる

岩倉具視の子孫として、歌手・俳優の加山雄三がいます。加山雄三の母である小桜葉子(本名・岩倉具子)が岩倉具視のひ孫にあたり、加山雄三はその孫の孫にあたります。また、元女優である喜多嶋舞も岩倉具視のひ孫です。

岩倉具視は紙幣になったことがある

岩倉具視は、500円札にその肖像画が採用されたことがあります。紙幣にはB号券とC号券と呼ばれる2種類のデザインが存在します。

B号券は1951年から1971年の間に発行されていた500円札です。縦76mm、横156mmで表側の四隅に「500」と数字が入っているのが特徴でした。

C号券は1969年から1994年まで発行されており、縦72mm、横159mmと少しだけ細長いスリムなサイズになっています。表面の左下に桜の花が描かれているのが特徴です。

古銭買取やオークションに出品した際には、より古いB号券であれば、前期(アルファベット1桁台)の美品以上のもので500円〜1,000円の価値があるとされています。しかし、1990年代まで使用されていたC号券は、残念ながら基本的には額面通り500円の価値しかありません。

どちらもまだ紙幣として有効ですので、500円として使用することも、銀行で両替してもらうことも可能です。

  • 岩倉具視って?

    岩倉具視は王政復古の実現に貢献した人物です

岩倉具視は何した人?

岩倉具視の名前をドラマや日本史で聞き覚えがあっても、実際にどのような功績を残した人なのかよく知らないという人も多いでしょう。ここでは、岩倉具視が何をした人なのか代表的な功績を解説します。

王政復古の実現

王政復古は、1867年に起こった明治維新を代表するクーデターです。これにより長く続いた幕府における武家政治が廃止され、天皇中心の政権回復を実現しました。この王政復古を行った中心人物の一人が岩倉具視です。

大久保利通ら薩摩藩・長州藩の協力を得て徳川慶喜に内大臣の地位を返上させ、徳川家の領土を朝廷に返還させました。

岩倉使節団の大使となる

岩倉使節団とは、1871年から2年間にわたって明治政府が派遣した遣欧米使節団です。

岩倉具視は、46歳のときに岩倉使節団の特命全権大使として欧米に向かいました。その主な目的は当時の日本が海外と結んでいた不平等条約の改正と欧米諸国の制度や文化の偵察でしたが、残念ながら不平等条約の改正には至りませんでした。

1年10か月もの間、欧米の文化に触れた岩倉具視は、日本の文明開化の必要性を痛感し、帰国後に日本鉄道会社を設立しています。

征韓論に反対

当時の韓国は欧米諸国や日本に対し鎖国を行っており、日本とは国交がありませんでした。西郷隆盛や板垣退助らは、明治新政府成立に向けられた旧武士にあたる士族の不満を解消するため、「朝鮮を侵略すべき」と主張しました。

一方、欧米より帰国した岩倉具視はその征韓論に対し、大久保利通らとともに「日本の内政にまずは集中すべきだ」と反論。征韓論を退けられた西郷隆盛らは、政府にいられず辞職します。

岩倉具視らが征韓論を否定したことは、征韓論を支持する士族たちによって岩倉具視が襲われた1874年の暗殺未遂事件「赤坂喰違の変」にもつながっていきます。

欽定憲法(きんていけんぽう)制定の方針を定める

欽定憲法とは、君主が定めた憲法のことです。日本においては、大日本帝国憲法がこれに当たります。

岩倉具視は自由民権運動の機運が高まっていた明治時代において、王政復古によって樹立した天皇中心の国家をより盤石なものにするために、天皇が定めた成文憲法が必要だと考えました。

そのため、1881年に井上毅(いのうえこわし)に命じて、日本の憲法をどのようにすべきかを示す「大綱領」を作成させています。この内容の多くは大日本帝国憲法に取り入れられており、岩倉具視は間接的に日本最初の憲法制定に関わったことになります。

  • 岩倉具視は何をした人?

    岩倉具視は天皇中心の国家をより盤石なものにするため、憲法が必要であると唱えました

岩倉具視の歴史と功績

江戸幕府に代わって、明治天皇を中心とした政権を確立するために奔走した岩倉具視ですが、養子となった岩倉家は公家の中でも低い身分でした。岩倉具視はそこからどのようにして出世をして、明治政府の中枢にまでのぼりつめたのでしょうか。

政治の世界で活躍

岩倉具視は1853年に関白である鷹司政通(たかつかさまさみち)の歌道の弟子となったのをきっかけに、1854年に孝明天皇の侍従として政治の世界に入りました。

1858年には、幕府の老中であった堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約を締結するため朝廷に許しを求めて上京しますが、岩倉具視らの反対により失敗に終わっています。

最初は公武合体派の立場であった岩倉具視は、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)と徳川家茂(とくがわいえもち)の結婚を実現させました。しかしこの結婚により、岩倉具視は幕府派の人間と思われ、過激な尊王攘夷派から命を狙われてしまいます。

岩倉具視は一旦政治の世界を離れ、京都の北にある岩倉村に隠れ住むことになりますが、その人望は厚く、隠遁生活でありながら彼のもとには大久保利通など多くの人が集まってきたのです。

岩倉具視はその中で、倒幕派へと立場を変えていくこととなります。

王政復古の実現

徳川第15代将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は1867年、大政奉還を行います。しかし、依然として領地や兵力は徳川家の手の中にあり、政治的に大きな権力がある状況でした。

それに対して、処分を解かれた岩倉具視は大久保利通らとともにクーデターを起こし、王政復古の大号令を発します。これにより岩倉具視は新政府の議定となるほか、王政復古の功績が称えられ賞典禄として5,000石が与えられました。

その後は版籍奉還や廃藩置県といった重要法案の立案にも貢献し、右大臣にまで昇進しました。岩倉具視は、現在にまで至る日本の中央集権国家制度の基礎を築いた人物のひとりといえます。

岩倉使節団が日本に与えた影響

岩倉具視は特命全権大使として、1871年より遣欧米使節団を率いて欧米の視察に派遣されました。そこで欧米諸国の発展を目の当たりにした岩倉具視は、1873年の帰国後に国家基盤を強固なものにしようと邁進します。

西郷隆盛らの征韓論に反対し、欽定憲法の枠組みを示したのもこの頃です。

皇室の地位や財産の維持にも心を配り、明治以降の特権的貴族層にあたる華族の財産を保護するために華族銀行を樹立したり、華族の財産をもって日本初の民営鉄道会社となる日本鉄道を設立したりと、華族の地位擁護に努めました。

また、当時の日本の首都が東京に移ったことで、衰退してしまった京都に活気を蘇らせるため、岩倉具視は京都の史跡の保存にも積極的に関わっています。

岩倉具視の死因

岩倉具視の死因はがんとされています。日本で最初にがん告知を受けた人物でした。

京都御所の保存計画のため、出身地でもある京都を訪れている間にがんが悪化。1883年東京にて59歳で死去しています。太政大臣の地位が贈られ、国葬が行われました。

  • 岩倉具視の生涯

    岩倉具視は廃藩置県や日本初の民営鉄道を導入するなど、日本の近代化に貢献しました

岩倉具視は日本の新時代へ導いた明治維新の立役者

岩倉具視は歴史の教科書やドラマなどで名前をよく聞く人物ですが、実は岩倉使節団の特命全権大使として活躍しただけではありません。

西郷隆盛らと王政復古のクーデターを行ったり、憲法制定を進めたりと明治期の日本政治において活躍しました。また、当時の日本に文明開化の必要性に気づいて日本鉄道の設立を主導するなど、彼の功績は政治にとどまらず、日本の近代化にも大きく貢献しています。

岩倉具視は明治維新の立役者のひとりでもあり、今の私たちが生きる日本社会の基礎を築いた人物といえるでしょう。