聖徳太子(しょうとくたいし)は飛鳥時代の皇族の家系に生まれ、歴史にさまざまな功績を残した人物です。聖徳太子として知られていますが、実はこれは本名ではなく、厩戸王(うまやどのおう)と呼ばれる人物に、後世に贈られた名前とされています。

この記事では、多くの逸話が存在する聖徳太子の人物像と功績について解説します。

  • 聖徳太子とは

    聖徳太子について解説します

聖徳太子(しょうとくたいし)とは

聖徳太子は、飛鳥時代の政治家です。日本初の女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)時代の皇太子として摂政を務め、政治の補佐を行いました。

摂政として実権を握っていくと、天皇中心の政治を推し進めるべく、十七条の憲法や冠位十二階の制定など、多くの偉業を成し遂げました。その思想はのちに、天皇中心の政治への改革である「大化の改新」を起こす、中大兄皇子と中臣鎌足へと継承されていきます。

さまざまな功績を残したため、日本の歴史的偉人として知られる人物ですが、聖徳太子の功績については諸説あります。

飛鳥時代の政治家

聖徳太子は推古天皇のもとで摂政を務める政治家として活躍した人物です。父は推古天皇の同母兄である用明天皇で、母は欽明天皇(きんめいてんのう)の皇女である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、天皇の家系に生まれました。幼少期より聡明であったとされており、飛鳥時代の574年に生まれ、622年に生涯を閉じました。

現在は大阪府南河内郡太子町にある叡福寺(えいふくじ)の磯長墓(しながのはか)が正式な墓とされています。聖徳太子を信仰する「太子信仰」の中核となっている寺です。

聖徳太子の名の由来

聖徳太子は「徳のある聖なる人」という意味を持つ呼び名です。後世になって、贈られた名前であるため、本名ではありません。生前は「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばれており、本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)」といいます。ほかにも「厩戸皇子(うまやどのおう)」や「上宮王(かみつみやおう)」など、複数の説があります。

厩戸(きゅうしゃ)とは馬小屋のことで、母の穴穂部間人皇女が厩戸の前を歩いていた際に出生したことから、厩戸の名前がつけられたとされています。

豊聡耳の伝説

聖徳太子は豊聡耳(とよさとみみ)とも呼ばれていました。豊聡耳とは同時に複数人の話を聞き分けて理解できるほど聡明な人物という意味です。

人数については諸説ありますが、同時に10人の話を聞き分けたとされる逸話など、非常に優れた人物として現在まで語り継がれています。

  • 聖徳太子とは

    聖徳太子は飛鳥時代に活躍した政治家です

聖徳太子がしたこと

聖徳太子は19歳で推古天皇の摂政となり、その後29年間摂政として政治の中心に関わっています。朝廷に対して影響力のある豪族であった蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、推古天皇を支えながら共同で政治を取り仕切ります。

聖徳太子は多くの伝説と偉業を成し遂げた人物として、歴史に名を残しましたが、特に政治に関してはさまざまな取り組みを推し進めました。

十七条の憲法の制定

推古天皇と聖徳太子は天皇中心の政治を推進するべく、十七条の憲法を制定します。これは近代の憲法とは異なり、国民ではなく貴族や官僚に向けて道徳的な規範を示す憲法でした。

たとえば、人と争わずに和を大切にする、仏教に帰依すること、天皇の命令には反論しないこと、常に礼儀正しくするなど、心得が中心であり、天皇中心の国家を宣言する内容となっています。

冠位十二階の制定

聖徳太子は官僚を12段階の冠位にわけて評価を行う、冠位十二階を制定します。世襲制ではない、日本初の人事評価制度と呼べるもので、貴族の出身以外でも、功績や才能があれば出世する可能性がある制度です。

冠位に応じて色の異なる冠を配り、位の高い順から大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智に分類。大小では同じ色を使い、色の濃淡で区別しました。

冠位の制度は中国や朝鮮の高句麗(こうくり)、百済(くだら)などで似た制度が使われており、国際的な国家としてみせる外交上の効果もあったとされています。

遣隋使の派遣

聖徳太子は当時の先進国である隋へ使者を派遣する遣隋使を行い、隋との国交を始めます。隋と対等な立場として交わりながら、発展した文化を取り入れることが目的です。

607年の遣隋使には小野妹子(おののいもこ)が選ばれており、提出した国書には隋が「日が沈む国」と表現されていたため、隋の皇帝だった「爆帝」が激怒した話があるとされています。高句麗と戦争をしていた隋の情勢を知っていた聖徳太子は、結果的に日本が隋と対等な国であることを隋に認めさせたのです。

法隆寺の建立と仏教の振興

聖徳太子は幼少期から仏教を深く信仰していたため、仏教振興に努めました。奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺や大阪府大阪市の四天王寺など、さまざまな寺院の建立に関わったとされています。

法隆寺は現存する世界最古の木造建築として、今も歴史に名を刻み続けています。聖徳太子の仏教への貢献度は計り知れないものです。

  • 聖徳太子の歴史

    聖徳太子は十七条の憲法の制定をした人物です

聖徳太子がお札になるほどの偉人となった背景

聖徳太子の思想は死後も受け継がれ、日本の歴史を大きく変えた大化の改新へと繋がっていきます。さまざまな取り組みを行って紙幣の肖像画にも採用された人物ですが、近年では膨大な功績を聖徳太子が一人で行ったのではないとされる説も議論されています。

天皇中心の政治思想は大化の改新に繋がる

聖徳太子は天皇中心の国際的な国家を作るべく、摂政として制度の制定や外交に力を入れました。背景としては、推古天皇が権力を持つ蘇我氏の勢力バランスを保ちながら、天皇中心の中央集権国家を目指していたことがあります。

聖徳太子の死後は、豪族中心の政治を目指す蘇我氏の勢いが増します。しかし、太子の思想は継承され、蘇我氏を滅ぼして天皇中心の政治を行う改革「大化の改新」を中大兄皇子と中臣鎌足が実行することとなりました。

歴史的議論が生まれる

聡明で数々の功績を挙げてきたた聖徳太子は、仏教や太子信仰、ゆかりのある寺院など人々に現在も尊敬される存在です。ところが、聖徳太子は実在していない説や功績全てが聖徳太子によるものではない説など、近年ではさまざまな歴史的議論が巻き起こっています。

ただし、厩戸王は実在した人物とされています。あくまでも功績の全てを聖徳太子が一人で成し遂げたものではなく、さまざまな人物や功績を集約して、聖徳太子の姿を作り上げた説があるということです。厩戸王が摂政の立場で政治の中心にいたことは間違いではありません。

日本の紙幣に最も多く登場した人物

聖徳太子は戦前と戦後合わせて、紙幣の肖像として採用されています。乙百円券に採用されたことをきっかけに、日本銀行券の顔と呼ばれるほど、何度も登場しています。

さまざまな人物が肖像となっている中、聖徳太子は計7回と最も多く、一万円券や五千円券などの高額の紙幣にも使われています。

  • 聖徳太子の死後

    聖徳太子は日本のお札に最も多く登場した人物です

聖徳太子の政治思想は後世に繋がっている

聖徳太子は、飛鳥時代の政治家です。推古天皇のもとで摂政として、十七条の憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、法隆寺の建立、仏教の布教活動などのさまざまな功績を残しています。法の整備や外交により、文化の向上にも大きく貢献しました。

本名は厩戸豊聡耳皇子で、生まれてすぐに話したとする伝説があり、非常に聡明な人物とされています。歴史的な数々の偉業を称えて、死後に徳のある聖なる人という意味を持つ聖徳太子と呼ばれるようになり、日本のお札に最も多く登場しました。

しかし、近年では聖徳太子の偉業や存在については諸説あるため、今後の研究に注目していきましょう。