菅原道真(すがわらのみちざね)は平安時代の学者の家系に生まれ育ち、学問や芸術の才能を発揮したことで、右大臣にまで出世した人物です。現在は学問の神様として知られていますが、一時は怨霊とされていた歴史があります。
この記事では、菅原道真の人物像と学問の神様となったルーツや伝説、祀られている神社について解説します。
菅原道真(すがわらのみちざね)とは
菅原道真は、平安時代に活躍した学者・政治家です。幼少期より文才に優れており、勉学に励んで出世を重ねていきました。民衆や天皇からも信頼され、学者の家系では異例ともいえる右大臣まで昇進しますが、政略による左遷が決まり、無念のうちに死去してしまうなど、波乱に満ちた人生でした。
死後は怨霊として恐れられる存在でしたが、その後は稀有な才能を発揮した功績から「学問の神様」とされ、「天神」として現在においても信仰され続ける存在です。
平安時代の学者・政治家
菅原道真は、学者や政治家、貴族、漢詩人など、さまざまな顔を持つ人物です。平安時代の845年6月25日に生まれ、903年2月25日に九州の大宰府で生涯を閉じました。現在の太宰府天満宮に葬られており、京都にある北野天満宮や全国の天満宮など、さまざまな場所で信仰の対象とされています。
学問の家系に生まれる
菅原家は代々学者の家系である中流貴族でした。元来は農業や産業の神様として信仰されている「天穂日命(あめのほひのみこと)」を起源とする土師氏(はじうじ)の土師古人(はじのふるひと)が改姓を願い出て、菅原氏になった経緯があります。
菅原古人(すがわらのふるひと)は菅原道真の曾祖父であり、高名な学者でした。祖父の菅原清公(すがわらのきよきみ)は私塾を作り、多くの官人を朝廷に輩出しています。さらに、父の菅原是善(すがわらのこれよし)は幼少期より、詩の才能を発揮するなど、菅原道真は学問で名を馳せた一家に生まれたのです。
飛梅伝説を作った詩の才能
菅原道真は父同様に詩の才能があり、5歳で和歌を詠み始めました。道真の邸宅には梅があり、常に梅を眺めた生活を送っていたことから、梅に関する詩が多く残されています。
中でも、梅の木が別の場所から飛来してきて、土地に根付くという伝説の「飛梅伝説」と結び付いている詩が、菅原道真の以下の和歌です。
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
大宰府への左遷により故郷を離れることとなった菅原道真(主人)が、ともに育ってきた紅梅殿の梅に向けて和歌を詠んだところ、大宰府に着いた菅原道真の元へ一夜のうちに飛来してきたという伝説があります。
菅原道真の歴史
菅原道真は学問など類まれなる才能から出世の階段をのぼり、さまざまな功績を残しました。幼少期には「神童」と称されるほど優れており、その後は政治家として国家の発展に身を尽くしています。
文章博士に任命される
菅原道真は、33歳で学者の最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」に任命されています。
まず、18歳で紀伝道を専攻する学生を指す「文章生(もんじょうしょう)」に合格し、その後は文章生のうち2名が選ばれる「文章得業生(もんじょうとくごうしょう)」となりました。
祖父の清公と父の是善も文章博士であったため、三世代に渡ってその文才ぶりは継承されていったわけです。
遣唐使の停止を提言する
唐の文化や制度を輸入するために使節を送る「遣唐使」制度により、菅原道真は894年に遣唐大使に任命されました。しかし、既に国情が不安定で衰退していた唐に、航海の危険を冒してまで派遣する必要がないことを理由に、遣唐使の停止を朝廷に提言しました。停止が承認されると、結果的に遣唐使は廃止されることになったのです。これがのちの国風文化の繁栄にも、大きく影響したとされています。
右大臣に出世する
学者の家系ながら、菅原道真は宇多天皇(うだてんのう)に数々の実績を認められ、政治の中心に関わる役職に昇進していきます。宇多天皇が譲位した後は、醍醐天皇(だいごてんのう)により、左大臣の藤原時平(ふじわらのときひら)に対し、右大臣として側近にまでのぼりつめます。
その才能から出世の道をたどった菅原道真に妬みを持つ者も多く、特に強力だった藤原氏からは対立者としてみなされていました。
菅原道真の晩年~死後
浮き沈みの激しい人生を送った菅原道真は、晩年から死後に至るまで周りに与えた影響は大きなものでした。
嫉妬により左遷される
醍醐天皇の側近として右大臣にまで就任した菅原道真に嫉妬する人物は多く、それは同じく側近の左大臣であった藤原時平も同様でした。藤原時平は、醍醐天皇に対し「菅原道真は醍醐天皇に代わって、嫁婿の斉世親王を即位させたがっている」と中傷しました。この言葉を信じた醍醐天皇は、無実である菅原道真を九州の大宰府へ左遷させたという歴史があります。
死後は怨霊と化す
左遷させられた菅原道真は、衣食もままならない劣悪な環境の中で身の潔白も証明できないまま2年後に死去しました。ここから菅原道真の左遷に関わった人物に死が訪れる、怪死事件が続くことになるのです。
菅原道真が没して5年後には、政略に加担した菅原道真の弟子の藤原菅根(ふじわらのすがね)が雷に打たれて落命します。さらに、その翌年には菅原道真をおとしめた藤原時平が病死、ほかにも関係者の身内の死去や洪水、干ばつなどの変異が続きます。そして、御所の清涼殿に落雷があり、大納言や右中弁、朝廷関係者が亡くなる事件が起きるのです。朝廷は、これらを菅原道真の祟りだと恐れるようになりました。
菅原道真が神社に祀られるようになった背景
怨霊として恐れられた死後の菅原道真が、現在のように神様として信仰されるまでには、さまざまな物語があります。ここでは、菅原道真が神様になるまでと、どこの神社に祀られているのかを紹介します。
天満天神として祀られる
左遷の関係者が次々と亡くなる怪死事件を菅原道真の祟りだと恐れた朝廷や民衆は、怨霊を鎮めるため、京都に北野天満宮を創建します。菅原道真を天満天神として祀るようになったのです。
北野天満宮の建立
北野天満宮は、菅原道真を祀られた天神信仰の中心となる天神です。さらに、菅原道真を天満天神として祀る神社は、全国各地に建立されてきました。
学問の神様
学問や詩文の才能があった菅原道真に由来する天神信仰では、菅原道真を学問の神様というようになりました。現在の北野天満宮では「北野の天神さん」と親しみを込めて呼ばれ、多くの人が学業成就を求めて祈りに訪れて賑わいをみせています。
さまざまな神様
学問以外にも多才な一面を持つ菅原道真は、芸能や至誠の神様としても、全国の天満宮に祀られています。その才能ぶりから、学者から異例の出世を果たしたにも関わらず、無実の罪で左遷にあった菅原道真の歴史を紐解くと、人々に信仰されて神様と祀られるに至った経緯が理解できるでしょう。
全国各地に存在する神社
菅原道真を天満天神としてご祭神とする神社は、全国各地に存在します。京都の北野天満宮とともに、福岡の大宰府天満宮、山口の防府天満宮は、「日本の三天神」といわれ、ほかにも湯島天満宮や亀戸天満宮、谷保天満宮の三社は、関東を代表する有名な天神として「関東三天神」とされています。
菅原道真は怨霊から神様へ転じた
菅原道真は、平安時代の学者の家系に生まれた学者・政治家です。幼少期から和歌や漢歌の才能を開花させ、その後も学問に邁進しながら数々の和歌を残しています。
その生涯は波乱万丈と呼べるもので、生前は類い稀なる才能により出世の道を歩みましたが、身に覚えのない罪によって左遷させられ、死後には怨霊と恐れられました。しかし、京都の北野天満宮に祀られたことで祟りは収まり、菅原道真は学問の神様として信仰されるようになったのです。