政府は2024年を目途に紙幣のデザインを刷新すると発表。20年ぶりに「お札の顔」が代わります。一万円札は「渋沢栄一」、五千円札は「津田梅子」、そして千円札は「北里柴三郎」に決まりましたが、みなさんは3人のことをどれくらい知っていますか。前回の渋沢栄一に続き、今回は千円札の新しい顔となる北里柴三郎についてご紹介。北里大学の中にある「北里柴三郎記念館」(東京都港区)を訪ね、その人となりや現在に残る信念について聞きました。

北里柴三郎って何をした人?

  • 北里柴三郎の肖像(北里柴三郎記念館展示室内)※写真転載禁止

まずは、北里柴三郎がどんなことをした人なのかご紹介したいと思います。

■軍人を目指して出会った生涯の道「予防医学」
北里柴三郎は、1853年1月29日に現在の熊本県小国町の庄屋の家に、長男として生まれました。庄屋とは村の代表で、現在の村長のような役割を果たしていたため、家族は北里に学問をつけてほしいと願ったそうです。対して、北里自身は剣術など体を動かすことが好きで、軍人を志すようになりました。

18歳の頃には蘭学や外国語を身につけたいという気持ちから熊本医学校(現・熊本大学医学部)へ進学。オランダの医学者・マンスフェルトから、目には見えない世界を解き明かす魅力を学び、軍人から一転して医学に一生を捧げようと決意します。同学校卒業後は、さらに東京医学校(現・東京大学医学部)で学び、その後、予防医学に従事したいと当時の中央官庁だった内務省衛生局に入りました。

■ドイツで破傷風の純粋培養に成功、血清療法を確立

  • 破傷風の血清療法確立を記念して撮影された写真(画像提供:学校法人北里研究所)※写真転載禁止

北里は1886年から念願だったドイツ留学を開始し、細菌学の第一人者だったローベルト・コッホのもとで研究に打ち込みます。そして、当時多くの人を死に至らしめていた「破傷風」の菌を純粋培養することに世界で初めて成功。さらに、免疫動物の血液からとれる血清によって破傷風の治療と予防ができることを発見したのです。これにより、北里は世界に認められる細菌学者としての地位を確立しました。

6年間ドイツで学んだ北里は帰国後、私立の「伝染病研究所」を創立したり、結核の専門病院を設立したりと、日本の予防医学の発展に尽力します。休むことなく研究にあけくれ、1894年には香港にペストの原因調査に赴き、「ペスト菌」を発見しました。

■野口英世など後進の育成や公衆衛生の広まりに尽力

  • 創立当時の北里研究所(画像提供:学校法人北里研究所)※写真転載禁止

1899年、伝染病研究所は国立となり、内務省の管轄へ。北里は、赤痢菌を発見した「志賀潔」や、梅毒病原体の研究で功績をあげた「野口英世」など後進の育成に尽力します。そのほかにも、社会に伝染病の正しい知識や予防法を広めるため、さまざまな方法を実践して、人びとに公衆衛生の概念を広めることに力を注ぎました。

1914年、伝染病研究所が内務省から文部省へと管轄を移すのを機に、北里は現在の北里大学の前身となる「私立北里研究所」を創立します。その後も慶應義塾大学医学科の設立や日本医師会の創設に携わるなど、日本医学の発展に貢献。1931年、78歳で脳溢血によりこの世を去ります。

一貫した姿勢は「原因を突き止めて解決すること」

  • 亀の子シャーレを使った嫌気性菌培養装置(北里柴三郎記念館展示室内)※写真転載禁止

北里は、なぜこのようなすばらしい功績を残すことができたのでしょうか。「北里柴三郎記念室」の事務長・森孝之さんは「北里は原因を突き止めて解決する能力に長けていました。何度も粘り強く実験も繰り返し、もしうまくいかなくても、そこにも原因を見出し、答えを導き出していたのです」と話します。

  • 北里柴三郎記念室の事務長・森孝之(もりたかゆき)さん※写真転載禁止

実際に、破傷風の研究において北里は数々の困難に立ち向かいます。破傷風菌は、その菌だけを取り出して増やす「純粋培養」が非常に難しく、「できない」と結論付ける研究結果もあるほどでした。しかし、北里は「そんなはずはない」と諦めず、破傷風菌が空気を嫌う性質に注目して、さまざまな培養法に挑戦したのです。そして何度も失敗を繰り返す中で、成功のために密閉型の「亀の子シャーレ」を使って培養装置を作り出し、ようやく純粋培養に成功しました。

しかし、北里はそれだけで満足せず、破傷風の治療法をさらに追求。病気は破傷風菌が出す毒が原因であり、その毒に耐える免疫血清を体内に入れることによって、治療ができるということを発見したのです。森さんは、「北里は『ひとときも怠ることなかれ』という言葉を残しています。患者は待ってはくれない、だからどんな不測の事態にも対応できるよう、治療法や予防法の追求に邁進したのです」と語っていました。

門下生たちから「ドンネル」と呼ばれた北里の厳しさと優しさ

強い信念を持って研究に取り組んでいた北里ですが、その人となりはどのようなものだったのでしょうか。北里の門下生たちからのニックネームはドイツ語で「ドンネル」、つまり「雷おやじ」。森さんは「北里は熊本県出身の九州男児で頑固一徹な性格。ガッチリした体から大声を響かせて、日常的に門下生に雷を落としていたようです」と話します。

しかし、北里は理由もなくただ怒っていたわけではありません。自分たちが人の命を守るための研究をしていること、また一歩間違えれば研究者自身の身にも危険が及ぶ実験であることから、自己を律して正確な結果を導き出してもらいたいと、あえて厳しく接していたのだそうです。

森さんは、北里と門下生たちとの関係性について、「嫌いな人には、まずあだ名なんてつけませんよね。それに北里自身も、自分が『ドンネル』と呼ばれていることには気付いていたと思います。彼らは敬愛を込めて北里のことを『ドンネル』と呼んでいた、そこに絶対的な信頼関係を見ることができると思います」と考察していました。

「北里柴三郎記念館」で北里の思いに触れよう

  • 北里柴三郎記念館の外観※写真転載禁止

北里柴三郎記念室は1964年に「遺品室」として開設され、2017年に現代的な建物として生まれ変わりました。1階の展示室では、北里直筆の手紙や実験器具の模型、愛用していた顕微鏡などを見ることができます。恩師や門下生など、北里を取り巻く人たちの資料も見ることができるため、北里について多角的に知ることができるでしょう。

100年余り前、北里が自らの研究所を始め、現代では北里大学の学生たちが行き交うこの場所。実際に訪問し当時の北里の思いに触れると、今もきっと北里が日本医学の発展を見守り続けていると感じました。

■取材協力:森 孝之(もり・たかゆき)さん

医学博士。学校法人北里研究所北里柴三郎記念室次長(事務長)。北里柴三郎博士の顕彰及び資料の収集・展示等に取り組み、日本医学の近代化に向けた博士の功績について研究している。さらに、北里大学の自校教育の一環として「北里の世界」の講義を担当し、建学の精神である博士の理念の普及と継承に努めている。一方、学外からの講演依頼にも積極的に応じ、日本医学の発展に寄与した博士の人生観を伝えるべく、幅広い年齢層を対象に講演活動を行っている。(※写真転載禁止)

●北里柴三郎記念館 展示室
住所:東京都港区白金5丁目9-1
電話:03-3444-6161(代)、03-5791-6103(直)
開館時間:10:00~17:00
入館料:無料
休館日:土・日・祝日、夏期休暇、年末年始など