2018年に型式証明の取得、ローンチカスタマーであるANAへの初号機納入を目指している次世代リージョナルジェット機「MRJ」(Mitsubishi RegionalJet)。そのプロジェクトがまだ水面下で動いていた2007年より、MRJを追ってきたテレビディレクターの小西透氏は12月9日、MRJ開発の現場取材をもとにした小説『負けてたまるか! 国産旅客機を俺達が造ってやる 小説・MRJ開発物語』(ブックマン社/税別2,200円)を上梓した。今、小説を通じて伝えたい、MRJの現場で起きていることを小西氏にうかがった。
普通の町工場からオンリーワンが生まれる
―小説では、小西氏がMRJ取材を始めた2007年から2015年11月11日の初飛行までの開発物語が描かれています。あらためて今、日本でMRJをつくる意義はなんだと思いますか
日本に新しい基幹産業を切り拓くための挑戦だと思っています。日本の自動車はいまだに強いですけど、造船において世界に名をとどろかせたものの凋落しました。新幹線も輸出はまだまだこれからです。MRJは1960年代に開発されたYS-11以来の国産飛行機で、50年間の空白を経ての挑戦です。
そのYS-11は昭和40(1965)年に運用を開始し、わずか182機で生産ストップになりました。では、同じ轍(てつ)を踏まないためにどうしたらいいのか。あの時は特殊法人をつくって三菱重工など7社程の"寄り合い所帯"で行いました。プロジェクトが破たんしたのは、YS-11が悪いという話ではなくて経営的な話。寄り合い所帯で責任の所在が曖昧だったことから、湯水のようにお金が使われていって赤字が膨らみ、国会でストップになったという不幸な歴史があります。
今回は何が違うかというと、開発費に関して国からは全体の1/3が出るんですが、名乗りを上げた三菱1社が2/3を担います。つまり、三菱が全ての責任を背負うのです。これがYS-11の失敗から得た教訓です。もしこのMRJ開発が失敗してしまうと、屋台骨が倒れてしまうくらいのリスクを三菱が背負うことになります。
また、MRJクラスの小型旅客機でも部品の数は95万点近くにも及ぶため、航空機をまるごと1機つくるということで裾野を広げ、日本に新しい基幹産業を育てることができるでしょう。今はまだ部品の7割くらいは海外製で、国内製は3割を超えていません。ですがあと5年も経てば、国産比率は35%以上には間違いなく上がっていきます。ティア2・ティア3という下請け業者が間違いなく育っていきます。
―小説を読んでいる中で、町工場の人々の話が印象に残っています。脚部の製造を担う住友精密工業からの下請けとして、町工場の古谷鉄工所などは、航空産業に参入するために1,500万円にも及ぶ先行投資をし、認証制度を取得されたようですね。実際に古谷鉄工所を初めて訪れた時の印象はいかがでしたか
よくある普通の町工場。初めて訪れてた時はまだ発注が決まっていない候補の段階だったのですが、「え? ひょっとしてここはずれかも。本当につくれる技術をもっているの? 」と思ったのは事実です。建屋の規模も古さも本当にどこにでもある町工場。とてももうかっているように見えない(笑)。ただ実際、その仕事ぶりを見た時に、技術と知恵をもっていることはすぐに分かりました。社長と専務が培ってきた勘なんでしょうね。そうした技術がしっかり血肉になっています。「MRJ開発の発注は、間違いなくここにくる」って思いましたね。
古谷鉄工所は加工が難しい面倒な依頼も門前払いせず、「何とか考えてみましょう」というスタンスです。精度ではなく知恵の話なんですよ。普通の町工場では持ちえない知恵ですね。従業員は10人しかいないのに。MRJ開発の中で、テレビも含めいろんなメディアで取り上げられたことで、古谷鉄工所にしかできないクリティカルな(重要で製造が難しい)部品の発注ばかり舞い込むようになった、と笑っていました。MRJが実際に量産体制になれば、「15人体制以上にしないと回らない」と話していましたね。
度重なる遅延報道、開発者の情熱は
―三菱重工が2008年3月に事業化決定の発表をした際、2011年に初飛行、2013年に初号機をANAに納入、という開発スケジュールでした。初飛行は2015年11月に実現し、納入に関しては2015年12月に4度目の延期を経て、2018年半ばを見据えています。小西氏ご自身が取材を通じて、古谷鉄工所も含め、町工場の人々の気持ちの変化を感じることはありましたか
ありますね。MRJ開発は何度も延期になっていますよね。その記者会見の最中にも、メディアから「本当に飛ぶのか」という声も出ていました。そうした記事が出回る度に、町工場の人たちも「またかよ、本当に飛ぶのかよ」という声が出ていて、希望だったものが憂鬱(ゆううつ)な状況になっていくというか、夢が閉ざされるようなものがありました。そして、延長が2年、3年、4年と伸びていく度に、だんだん深くなっていきました。
それは報道だけではなく、現場でも起きていました。例えば、町工場が住友精密工業からの依頼で脚部をつくるための試作品の段階で、元の三菱の事情で止まってしまう、ということが3回ありました。つまり、部品発注ができるか分からないふりだしの状況に戻ったということです。
なぜこれが起こったかというと、設計変更がされたからです。その中でも一番の問題は重量。どの開発機も試験1~3号機までは重いのはしょうがない。しかし、三菱のプライドがそれを許さない。最初の初号機からいかに軽減していくか、名航を生み出してきた"ゼロの精神"が三菱に息づいています。
そのため、当初は昔はよくやった骨格に穴をあける(肉抜き)を脚部でやろうとしたんですよ。そのデザインは斬新で美しいものでした。当然、三菱サイドで強度計算もして提案してきたのですが、日本で唯一脚部をつくっている住友精密工業の勘が働いたのでしょう。「これは無理だ」と代替案を送り返しました。そうしたことを繰り返している中で、部品製造が先に延びる、開発が遅れる、ということがいろんなカ所で起こっていました。
―現在も疑心暗鬼の気持ちが続いているように感じますか
私が取材をしている住友精密工業や古谷鉄工所に関してだけ言うと、全然楽観視していないですね。だからといって悲観的でもない。覚悟をしている、というところでしょうか。
私も製造が進んでいないことを知っていても、取材として古谷鉄工所に行きました。航空産業への参入のため最初に1,500万円投じていますが、1回参入できると20~30年と続くのでものすごく手堅いです。ですが、「これだけ緒にもつけない状態が何年も続くとは思っていなかった」とは言っていましたね。
YS-11の時も、JCAB(国土交通省航空局)が審査をして型式証明を出した後、米国のFAA(連邦航空局)から420項目くらいチェックが入ったと言います。大きな設計変更をせざるを得なくなり、そこから2年半くらい遅れが出ました。また、三菱は過去に小型ビジネス機MU-300を製造していましたが、これもFAAからの指摘で1年半~2年ほど遅れたと言います。そのため、三菱も古谷鉄工所も「このままいくわけがない」という前提で受けとめています。
―その遅延に対する疑心暗鬼は、三菱の社員も同じだと思います。スケジュールを切り直す必要が起きた時、社員の方々の想いをどのように感じましたか