1984年にデビュー以降、武藤敬司、橋本真也と並ぶ、「闘魂三銃士」として活躍し、現役を貫く傍ら、アパレルブランド「アリストトリスト」の代表取締役も務める蝶野正洋。そんな伝説的レスラーが語る「プロレスと人生とは痛みである」という真意に迫る。

蝶野正洋
撮影:菊池茂夫

「人生=ストレスの経験」と捉える

今年の9月で53歳になるんだけど、結局、プロレスも人生も同じなんじゃないかなって感じる。両方とも、痛みに耐えるところから始まるものだと思うんだよ。プロレスラーは職業の苦しみが、「痛み」という具体的な体感で現れてくるもの。俺たちは、日々、そういう戦いによって、この仕事の難しさと面白さを会得していくんだ。でも、人生だって、プロレスに負けない痛みの連続だろう? 精神的な痛みである「ストレス」はもちろんのこと、未来への不安である「プレッシャー」だってある。だからこそ俺は、「人生=ストレスの経験」と捉えている。そして思うんだよ。あなたや俺が、ここまで生きてこれたのは、それに打ち勝ってきたからだと。その積み重ねで、自然と自分の力って、ついていくものなんじゃないかな?

俺も最初は落ちこぼれだった

1984年に新日本プロレスに入門した俺も、最初は典型的な落ちこぼれだった。まず、デビューするまでの筋肉トレーニングで根をあげたよ。入門前に自己流でやっていた練習法とは、全然違ったからね。スクワットは、ずっと深く腰を落として膝を屈伸させるし、腕立て伏せも、何十種類もやり方があって、それを繰り返しやらされる。挙句の果てに、腹筋なんて、腹の上からボールを落とされるんだ。入門1週間で、体重がガクッと落ちたのを覚えてるよ。同期の橋本真也選手や武藤さんは柔道の黒帯で格闘技の基礎があったはずだけど、それでもこの基礎練習では悲鳴をあげていたくらいだったからね。   しかも最初は、練習よりも雑用の方が多い。米の炊き方、洗濯の仕方……家じゃ親任せにしていたことを叩きこまれて、ついでに先輩に叱られる。正直いえば、「こんな炊事・洗濯を憶えるためにプロレスの世界に入ったわけじゃない」って、いつもぼやいてた。

それで、ようやくデビューできたとしても、今度は試合の仕方が分からない。プロレスの試合を具体的に教えてくれる先輩なんていない。理由は簡単で、リングに上がれば、みんなライバルになるからだ。クロネコさん(ブラック・キャット)というメキシコ出身のレスラーが、ちょっとだけ試合の組み立て方を教えてくれたことがあったけど、後でそのクロネコさんが上の選手からひどく怒られていたくらいだから。

「出世したら楽できる」という幻想

でも、この辺りは、会社員の人たちも同じなんじゃないかな? 会社だって、まず初志があって入社しているはず。「俺はこの会社でこういう仕事をやりたい」「この会社でこの夢を実現させるんだ」とかね。でも、そのためのイロハが最初は分からない。必要なデータをどこから持ってくるのか、誰がそのデータを持っているのか、それらはどうやって尋ねたらいいのかなどは、みだりに教えてくれるものでもない。先輩も自分たちの仕事があって忙しいから、ずっと指導ばかりはしていられないと思うんだ。

そんなことがあって、俺は新人の頃「出世したら楽になれるだろう」って考えてた。ところが、それこそが大きな間違いだったんだ(苦笑)。10年くらい経ってトップに上がったら、下から追いかけられて、そのプレッシャーがまたすごいんだ。上にいけばいくほど、審判を受けているような気分にされるもの。気持ちは落ち着かないし、体はあちこち痛い。 そして、ようやく気づくんだよ。そうやって、つらい経験や痛みを感じることが生きている証であり、自分がここに存在していることの証明だって。同時に、痛みを重ねながら、自分が勇敢になっていたことにもね。まさに、積み重ねた痛みが、自分を強くしていくんだ。それを忘れなければ、人生って前向きな気持ちで、乗り切れるんじゃないかなって思う。  

つらい経験や痛みを前向きに捉えることが大切

「人生=ストレスの経験」と捉えられたのは、俺自身がアパレルの仕事を始めたのも大きいよ。1997年に、俺が所属した「nWo」Tシャツの大ブームがあったのを記憶してる人もいるかも知れない。そのTシャツなんだけど、あの頃の新日本の会場で 約20万枚、新日本の会場以外のセレクトショップで約 20万枚、合計約40万枚も売れたらしいんだ。でも、デザインの商標権はアメリカで、販売権が新日本プロレス。バカ売れしても、俺のところには一円もお金が入らなかったんだよ。

後から聞いたことだから気にもならなかったけど、このことがきっかけとなって、Tシャツやグッズがビジネスになることがわかったんだな。ちょうど家内のマルティナが、俺のリングコスチュームを仕立ててくれていたりしたから、サイドビジネスとしてこちらの方向に向かうのは、自然な流れだったのかも知れない。 

2000年に設立した俺独自のアパレル会社「アリストトリスト」では、企画やデザインはもちろん、個人の肖像権管理、ブランドの商標管理も始めたんだ。この頃は、新日本プロレスですら商標登録管理に無頓着だったし、ウチと猪木事務所くらいしかそういうことができていない時代だった。このことで、他に先んじることができたのかと言ったら、とんでもない。

俺はアパレルの世界では、ただの初心者。失敗ばかりだった。そこから16年経った今でも、ひよっこそのものだよ。本当に苦労してる人に比べたら、俺なんてハナクソみたいな存在。経営の苦しみは毎月やってくるし、月々の支払いでいつも頭を痛めている。何ヶ月先のことなんて、なかなか見えない。でも、商売をやっている人は、みんなそうだと思う。

最初は深刻に感じたこともあった。だけど、別に夜も眠れなくて体調崩して……とか、そういうことはなかった。なぜかっていうと、もうその時点では、つらい経験や痛みを前向きなものとして捉えられるようになっていたんだね。そう、プロレスラーとして積み重ねてきた気持ちが幸いしたんだ。これを乗り切れば、また新しい強さを手に入れられるはずだって。

『生涯現役という生き方』(発売中 1,512円 KADOKAWA刊)

すべては自分の未来につながること

とはいえ、俺はそのプロレスを辞めようと思ったことが2回ある。一つは1998年、首に大きな怪我をした時。これは身体面だね。もう1つは、1988年、アメリカのカンザス州で、レスラー修行をしていた時だ。その頃はまだ、レスラーとしての試合内容も下手くそだし、お客を呼べるほどのものじゃない。不人気のプロモーションながら、一応プロモーターは小切手をくれるんだけど、銀行に持ってったら、換金出来なかったり。不渡りの小切手だったんだ。そんなことが日常茶飯事だったよ。周りに日本人レスラーもいない。そうなると、命綱は微々たる貯金。週に使える金は50ドルくらいで、とにかく、いかに飯を食うかで必死だった。炊飯器を買ってコメを炊く。とにかく外食は控え、自炊。たまに5ドルくらいで買える鶏肉のでかいのをスーパーで調達して、それで何日も持たせてた。同時期、カナダのカルガリーに遠征中だった橋本選手なんて、金が底をついて、スズメを罠にかけて、飢えをしのいでいたらしいよ。

外国という見知らぬ土地で金が尽きる恐さは、たまらないものがある。所属してる新日本プロレスからは放し飼いの状態だし、困っても頼るツテもない。しかも自分のレスラーの腕に自信もない。「辞めるしかないのか……」そう思ったよ。プロレスを廃業し、日本レストランかどこかに行くしかないのかって。「食えないなら辞める」。その考えしかなかった。 

結局、どん底のカンザスで、諦めずに続けて、何とか生き延びて今がある。そうすると、辛い時思い出すのは、ここ時期のことだよね。「あの時と比べれば今はマシじゃないか」「あの時、なんとか乗り切れたじゃないか」って。意外とそういう、最悪な経験が、後に自分を勇気づけてくれるんだ。あなたが今どんなに辛い環境や、ヘビーな悩みや心配を抱えていても、大丈夫だよ。その経験や体験は、確実に自分の未来につながっているからね。そのことを忘れないでほしい。  

著者紹介 蝶野 正洋(ちょうの・まさひろ)

1963年生まれ。2歳までアメリカ合衆国ワシントン州シアトルで過ごし、東京都三鷹市で育つ。1984年、新日本プロレス入門。同年10月5日、武藤敬司戦でデビュー(武藤にとってもデビュー戦)。1991年、第1回G1クライマックスで優勝し、その後V5達成。1992年、第75代NWAヘビー級王座を奪取。1996年にはnWo JAPAN設立し一大ムーブメントを起こす。1998年IWGPヘビー級王座獲得。2010年2月に新日本プロレスを離れ、それ以降フリーランスとして活動。1999年12月にはオリジナルブランド「アリストトリスト」を設立し、代表取締役を務める。