――将棋ならではの心の成長ですね。

そういったことが無意識のうちに鍛えられるのが将棋のすごいところだと思いますね。無意識ってすごく重要なんですよ。そもそも人間の意思ってそんなに強くなくて、弱い筋肉なんです。例えば麻薬が体に悪いとか、依存症になってはいけないとか、わかっていても失敗してしまう人って後を絶たない。何かのきっかけでうまくいかなくなって崩れてしまうのが意思というものなのでしょう。

――確かにその通りです。

面白い例を一つ挙げましょう。スタンフォード大学で4歳児を相手にマシュマロ実験というものを行った記録があります。マシュマロを一つ置いて、先生が戻ってくるまで食べちゃダメだよ、我慢できたらもう一つあげるよと言っておくのですが、たいていの子どもは食べてしまう。しかし、中には我慢できる子どもがいる。そして、実験によると、我慢できる子どもの方が社会生活や学生生活でのストレスが少ないらしい。決してその子たちの意思が特別に強いわけではなく、うまく食べないで済むような考え方をしているんです。実はこのマシュマロは甘くないんだ――という風に。

これはどういうことかというと、"無意識は楽"ということなんです。大人は、今日仕事に行こうかどうか迷いませんよね。朝になるたびにいちいち迷っていたら大変です。これが無意識の力なんですね。将棋でも仕事でも無意識の力を訓練することはとても大きなことです。例えば羽生さんをはじめとする40代くらいの棋士が強いのは、この無意識の力が大きいんですよ。

羽生善治名人の強さ

――無意識の力ですか。

タイトル戦ともなれば、精神もかなりの極限状態に追い込まれます。ところが、羽生さんを見ていると、終盤になっても冷静で、朝10時ですみたいな顔をして平然と指している。あれは普通じゃないと思いますよ。それに、羽生さんは勝っても負けても変わらないんです。勝負が終わると感想戦を行うのですが、羽生さんの表情からは、その対局で勝ったのか負けたのかも読み取れませんからね。底知れない怖さがありますね。

もちろん、プロ棋士だって、負けたらもう「今日は失礼します!」っていう人もいますよ(笑)。だからこそ、勝っても負けてもまったく同じ態度なのはすごいことです。おそらく、羽生さんが1番勝ち負けで差がない人なんじゃないでしょうか。羽生さんはクールに勝っているようでも根性はすごくあるし、彼と同世代の棋士が今もトップで勝ち続けているのは、そうした精神面が大きいと思います。あまり世代論で語るのは好きじゃないのですが、羽生さん世代っておそらく精神論で育った最後の世代。その世代が今もトップで勝ち続けているというのはやっぱり異常なんですよ。

――それが羽生さん世代と若手プロ棋士の差なのでしょうか?

若手棋士の情報量や勉強量、気持ちの強さは申し分ありません。あとは先ほど申し上げた無意識の力をどれだけ身につけられるかで、若手が上の世代を凌駕できるようになるんじゃないかと。幸い、若い世代の情報の正しさを見極める力は、上の世代よりもはるかに上です。だから、アマチュアも子どもも、昔から比べると格段に強くなっている。ネットや「J:COM杯3月のライオン 子ども将棋大会」のような大会もありますからね。

――デジタルとアナログな部分をうまく融合させることで、若手棋士や子どもたちも飛躍しそうですね。

それに、そうした無意識の力や精神力というのは、組織だっていない私たちの世界では一番大事なことなんですよ。日頃の言動で得られる信用がとても大切なんです。