『笑っていいとも!』をはじめとするバラエティ番組などを通じて、明るく豪快に笑う外国人タレント、オスマン・サンコン氏を知っている人は多いだろう。実はサンコン氏は、ギニア外務省のエリート。日本でギニア大使館を立ち上げるために来日し、ギニアと日本の友好のためにさまざまな面から尽くしてきた人なのだ。さらにサンコン氏は、故郷を思い、家族らにお金を送金するために、頻繁にセブン銀行の海外送金サービスを使うヘビーユーザーでもあるという。今回は、サンコン氏が来日してから今日に至るまでの足跡について、じっくりインタビューした内容を紹介したい。

オスマン・サンコン氏と筆者

日本に「ギニア大使館」を創設するために来日、"日本人は寝ない?"と驚き

――今回は、サンコンさんが日本に来られてからの話、現在のアフリカの話などをお聞きできればと思います。よろしくお願いします。まず、サンコンさんは、ギニアの外務省職員として来日されたということですが、もともと日本語を勉強されていたのですか。

日本に来るまで全く日本語はしゃべれませんでしたし、世界地図で日本がどこにあるのかも知りませんでした。ローマで飛行機の乗り換え中に、初めてJALという航空会社を知って、日本も飛行機を持っているのだと分かったんです。羽田に降りたのは1972年の10月19日。ギニアの公用語のフランス語や英語は話せましたが、日本の言葉を覚えることができるかどうか心配でした。

―日本語はかなり勉強されたんですか。

市ケ谷の日仏学校に通いました。フランス語をベースにして日本語を覚えたんです。いつも日仏学校のコーヒーショップで日本人といろいろな話しをしながら、自分でプライベートディクショナリーをつくったんです。

――すごいですね。

新しく聞いた日本語をローマ字で書きました。そこに意味を書いて、手作りの分厚い辞書をつくったんです。1日1つか2つ覚えるようにしました。それで日本語をマスターできたんです。今では、顔が見えない電話であれば外国人と気づかれませんよ(笑)。デーヴ・スペクターとかは話しているのを聞けば外国人とわかるけれど、サンコンの場合はわからないと言われますよ。

――大使館をつくりにいらっしゃったんですよね。

当時の日本で、アフリカの国で大使館を開設しているのは5カ国でした。ギニアは6番目です。ギニアの当時の大統領、セク・トゥーレ氏に、日本の技術とギニアの資源を組み合わせていい関係を築くというビジョンがあったので、大使館設立に動いたのです。

――当初、大使館員は何人ぐらいいたのですか?

大使のママディ・ラミル・コンディ氏と2人です。空港に着いて、ギニア人は誰もいませんから、日本の外務省の人が迎えにきました。リムジンを出してもらって帝国ホテルに行き、半年ぐらい滞在しました。帝国ホテルでは、天皇陛下へのご挨拶の練習を3日ぐらいしました。

――初めての日本の印象はどうでしたか。

失礼だけど、正直言って、こんなに立派な国だとは思っていませんでした。なぜかというと、僕が学校に入ったとき、ギニアはまだフランスから独立していなくて、歴史や文化はすべてヨーロッパ中心。だから、帝国ホテルに入ってびっくりしました。もっとびっくりしたのは、たまに霞ヶ関の外務省に行くと、外はもう暗くなっていますが、ビルのほとんどに電気がついていたことです。「日本人は寝ないで働くんだ」、と驚きました。

――確かに、日本人はよく残業をしますね。サンコンさんは、日本で外交官の活動を何年くらいされたのでしょうか。

約8年です。日本に来てから半年後に大使館ができました。ギニアから日本にいろんな大臣を呼んできて、ギニアの鉄鉱石を日本に運ぶための仕事などをしました。その後はアメリカのワシントンDCへ行きました。

――日本、アメリカ、その後は?

ギニアに戻り、ギニアで日本人のフィアンセと結婚しました。長男はイサムと言うんですけど、ギニアで妊娠して、日本で生まれました。

――再来日されたんですね。

外務省を休職して来ました。子どもが産まれて、本当はその半年後、ギニアの外務省に戻ろうと思ってたんです。だけど思いもよらず、『笑っていいとも!』に出ることになりました。フジテレビが当時、面白い外国人を探していました。それで、僕に連絡が入ったんです。

『笑っていいとも!』のオーディションに合格!

――面白い外国人と言っても、サンコンさんはギニア外務省に勤めるバリバリのエリートですよね。

キャラクターと肩書きのギャップが面白かったのかもしれませんね。オーディションがあるんだと聞いて、「えっ、何のオーディション?」と聞いたら、『笑っていいとも!』が火曜日に新しいコーナーをつくったと。オーディションを受けていいか大使館に相談したら、「いいよ、休職中だから大丈夫ですよ」と言われたんです。

――休職中だったからOKが出たんですね。オーディションでは、どんな特技を披露されたのしょう?

全部"女性みたいな言葉"で話したんです(笑)。

――おネエ言葉!?

私の日本語の先生は女性でした。だから自然に女性みたいな言葉になってたんです(笑)。しかも、仕草まで女性になってました(笑)。

――外務省のエリートという立場と、"おネエ言葉"とのギャップが受けたんですね。

タモリさんと横澤さんと、それと小林部長さんが、この人すごいねと判断したようです。最初は2カ月に1回くらいだったんですが、視聴率がよくて、毎週お願いしますと。要するにレギュラーになりました。毎週火曜日の午前9時半、アルタに来てくださいと。

――コーナーではどんな活動をされていたのですか。

当時、「笑っていいとも!」の火曜日に「なるほど! ザ・ワールド」のコーナーがあったんです。片岡鶴太郎さんと一緒でした。「笑っていいとも!」の歴史の中で、外国人で長く出たのは私とケント・デリカットだけです。4年間です。

母親の介護のためにホームヘルパーの資格を取得、ギニアには"サンコン小学校"も

――外務省はおやめになられたんですか。

外務省は今もやめていません。いまだに休職中ですよ。ギニアの外交官ではないけど、ギニア大使の補佐官という立場になっています。祖国でボランティアもやっていて、サンコン小学校をつくりました。今、生徒は200人くらいです。

――福祉活動も熱心になされてますね。

僕は24歳からずっと国にいなかったので、自分を親不孝者だと思ってました。そのうち母がだんだん歳をとって、「何ができるのか」と思って日本に呼んで、母の白内障を手術してあげたんです。また、僕の埼玉の友人が老人ホームの園長で、僕に介護の勉強をしたらと勧めてくれたんです。それでホームヘルパーの勉強をして資格を取りました。母は7年前、86歳で亡くなりました。ちなみに、ギニアの平均寿命は55歳です。

――ギニアの平均より相当長生きされたんですね。

日本に呼んでお風呂に入れてあげたり、白内障の手術を受けさせてあげたり、人間ドックを受けさせてあげたりして、それで5年ぐらい長生きになったんではないかなと、自分で勝手に思ってます。


ギニアと日本のために尽くしてきたサンコン氏の活動や、『笑っていいとも!』に出演するに至る経緯、ギニアの家族へのサンコン氏の思いなどが分かっていただけたのではないだろうか。

次回の「後編」では、深まるアフリカと日本との関係や、その関係にセブン銀行の海外送金も大きく貢献していることなどをご紹介したい。