夏の暑い日が続くので外出は避けて散らかっていた書斎を片付けていると、かなり前の業界誌が何冊かでてきた。

これらの雑誌をとっておいたのには理由がある。私がAMDでマーケティングをやっていた時代に雑誌広告を盛んとやっていて、その中には年間広告賞などをいただいたものもあったので記念に掲載誌を一冊ずつ取っておいたのである。

捨ててしまおうかと迷ってパラパラとめくっていると内容がなかなか面白いので、思わず片付けの手を止めて読み入ってしまった。発行日は1989年3月号とあるから、なんと今から30年前のものである。

私がAMDに入社してからちょうど3年目に当たる。この業界誌は2週間おきに電子機器設計エンジニア向けに発行されていた当時の最先端の情報を満載したエンジニア誌である。技術革新が加速する電子業界での30年といえば、一般の社会史でいえば300年くらいのタイムスパンであろうか、令和の現代から江戸時代にタイムスリップしたくらいの感覚である(これは筆者が勝手に言っているもので全く根拠はない)。思えば、ちょうどこの年にロバート・ゼメキス監督の米国映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」が公開された。前作で30年前にタイムスリップした主人公のマーティは今度は30年後にタイムスリップする。では私も30年前の電子業界にタイムスリップしてみよう。

1989年の電子業界の様子

さて、この業界誌であるが、ほとんどの記事はエンジニア向けの内容の濃いものであるが「産業ニュース・ダイジェスト」という欄があって、そこには業界外の一般人向けに当時の最新情報が書いてある。どんな時代だったかイメージが沸くようにその中のいくつかをご紹介したい。その中のキーワードについては、現代の若い読者の皆様には解読不可能と思われるものもあるので少々の解説も交える。

ECむけDRAMとEPROM、最低価格制導入で日欧が合意

解説: 当時、日本の半導体は世界市場を席巻していた。破竹の勢いの日本に対し業を煮やした米国政府が工作機械などの輸入製品の一部に制裁関税を課すことを決定し日本に対し貿易戦争を仕掛けた時期である。日本半導体メーカーのダンピングがその元凶であるということで、最低価格が日米間で政治的に決定され、これを日欧でも合意したという内容である。

当時の日本半導体産業の世界市場への支配力が欧米先進国の脅威となっていたことが生々しく感じられる。30年後の現在に目を向けてみよう。日米の貿易問題は未だにあるものの、米国にとっての深刻な脅威は中国である。しかも制裁関税は米国の輸入製品のほとんど全てが対象になる様相である。

沖電気がDRAMを米国で生産、まずは組み立てから

解説:かつては世界を席巻する日本半導体業界の一角をなしていたメーカーとして沖電気があったことは記憶している人がいるかもしれない。この記事によると256KビットDRAM(ギガではない!!)の組み立て工場を米国に作るという内容。これも日米貿易戦争の結果の苦肉の策だったのであろう。

1988年のレコード生産額、CD-アナログ、86対14に

解説:当時の音楽コンテンツの媒体はまだアナログレコードがまだ圧倒的な割合であった。インターネットなどもちろんない時代であるから「ダウンロード」などという手段もないわけで、当時の人々は「ステレオセット」と呼ばれる再生装置を使い30センチ版のアナログレコードで音楽を楽しんでいたわけだ。最近アナログレコードの音質が見直されているらしいが、これは一部の懐古趣味ファンに限定された話である。

ソニー、米ミップスと提携、RISCベースのEWSに参入

解説:EWSというのはEngineering Work Stationの略である。ソニーはNEWSというブランドでワークステーションの市場でかなり注目されていた。この号での他の記事によれば「世界のワークステーション市場は前年比で53%増」ともある。

市場の売り上げランキングでのブランド順位は1位がSUN Microsystems、2位がDEC(Digital Equipment)、その後にHPとIntergraphが続く。いまではブランド自体が消滅したSUNはこの年のワークステーション市場で前年比で80%増と絶好調であった。ところでソニーのワークステーションNEWSはその後市場から姿を消したが、MIPSとの提携は世界的ヒットとなったゲーム機のPlayStationのエンジンとなって見事に結実することになる。ちなみに現在のPlayStation 4のエンジンはAMDによるCPU/GPUの統合カスタムチップである。

ISDNサービス地域、来年3月までに全県庁所在地に拡大

解説:ISDNとはIntegrated Services Digital Networkの略で当時NTTが日本中に普及させていたデジタル・パケット通信網で帯域は64Kbpsである。

現在のWi-Fi環境に慣れてしまっている皆様には想像できないかもしれないが、かつてパソコンでのメールなどの通信はアナログ電話機にアコースティック・カプラーと言うのを突っ込んで、デジタル化したデータをやり取りしていたが、このISDNの普及でそれが格段に便利で速くなったことをよく覚えている。

現在では公衆電話ボックスはどんどん撤去されているが、ISDNの痕跡はまだ残っているものもあるので、電話ボックスを見かけたら電話機にその端子がまだあるのを確かめてみてほしい。

  • 電話ボックス

    最近見かけなくなった電話ボックスだが、なかには未だにISDNのジャックが備え付けられているものが残っている

エンジニアリング・ワークステーション(EWS)全盛の時代

雑誌全体を見まわして気が付くことは、当時はEWS全盛の時代であったという事だ。当時のパソコン市場ではようやく80386世代の新製品が出てきたころであるが、技術現場ではまだまだEWSが活躍していた。

現在ではx86マイクロプロセッサの性能が飛躍的に上がったために、高性能パソコンとワークステーションの違いは判らなくなってしまったが、当時のエンジニア達の開発現場を支えたEWS市場ではSUN、DEC、HP、ソニーなどが独自開発のCPU搭載の高速マシンが百花繚乱の時代であった。

そのすべてがRISC(Reduced Instruction Set Computer)アーキテクチャーを採用した独自開発のCPU搭載という事で、それぞれが非常に高価なマシンであった(安いものでも300万円くらい)。CADの現場でも次第にグラフィクス性能への欲求が増えてきて、EWS市場ではCG(Computer Graphics)とCADを融合させたシステムが普及し始まった。

  • SuperSPARC

    SUNのSPARCマイクロプロセッサの1モデル「SuperSPARC」のダイ。中央のイメージから、おそらく製造はTexas Instrumentsとみられる

その後Appleに舞い戻ることになるSteve Jobsは当時はPIXAR社にいて、自らグラフィック・ワークステーション「PIXAR1/2」を開発した。

日本勢もソニーなどを筆頭として、異業種からもワークステーション市場への参入が起こった。日本のクボタは、MIPSのRISCプロセッサーを搭載した強力なEWSを開発したベンチャー企業であるArdent Computer社とその競合のStellar社の2社を買収し、統合会社Stardent Computer社を設立してワークステーション市場に華々しく参入した。一時はグラフィック・ワークステーション市場で最高性能を誇ったマシン「TITAN(タイタン)」を開発して注目を集めた。Stardent社はその後倒産し、その技術的権利はすべてをクボタが継承したが、現在ではワークステーションのビジネスは解消している。

今から考えてみると、私がAMDに入社した1986年から1990年の中頃までは、その後に来るPCプラットフォーム時代の前史とでも言えるような時代で、各社がしのぎを削って新たな技術・アプローチが試された非常に面白い時代だったのではないかと思う。その時代業界に充満していた新技術開発へのエネルギーはすごいものであった。しかもそれは米国と日本を中心に回っており、その時代に両方の経験をできた私は結果的に幸運であったというべきだろう。