技術的には可能、しかし問題も
Crew-9の早期帰還は、技術的には十分に可能である。Crew-9はISSに係留されており、宇宙服など必要な装備も完備している。万が一、緊急事態が発生した場合でも、2人は直ちにCrew-9で脱出できる体制が整っており、理論的には明日にも帰還が可能である。
しかし、現状は、救出や緊急脱出が必要な状況ではない。2人の健康状態も良好で、物資も十分にある。
一方で、早期帰還が行われるとなれば、大きな弊害をともなう。
まず、Crew-10でやって来る宇宙飛行士との引き継ぎができないため、現在進められている実験や研究などの進捗に影響が出る。
また、Crew-9の帰還後、Crew-10が到着するまでの間、ISSに残るNASAの宇宙飛行士がドナルド・ペティット宇宙飛行士だけになるという問題もある。
ペティット氏はロシアの「ソユーズMS-26」宇宙船に乗るため、クルー・ドラゴンの飛行の影響は受けない。しかし、引き継ぎの作業や、ISSの米国モジュールの維持や管理、運用などを、しばらく一人で行わなければならない。
さらに、ペティット氏の帰還時期も問題になる。ペティット氏らを乗せたソユーズMS-26は、昨年9月11日に打ち上げられ、現時点で4月20日に帰還する予定になっている。ソユーズ宇宙船は仕様上、軌道上での運用可能期間が210日間と定められており、したがって帰還日を4月20日以降に遅らせることはできない。
もし、Crew-9を早期に帰還させ、そしてCrew-10の打ち上げが現在の3月下旬からさらに遅れた場合には、ISSからNASAの宇宙飛行士が一人もいなくなる可能性もある。
これらを回避するには、Crew-10を早期に、つまり2月中や3月上旬に打ち上げ、引き継ぎを行ったうえでCrew-9を帰還させるほかない。しかし、前述のようにCrew-10用のクルー・ドラゴンは完成が遅れている。もしも、完成を早めるために、試験や点検など手順の一部を省略するようであれば、新たな安全上のリスクを生むことになる。
もうひとつの、そして最大の問題
今回の、一連の騒動の中で最大の問題は、技術的な判断をすべきところに政治が介入し、誤った認識のもとで変更を加えようとしていることだ。
2人の帰還が早まること自体は望ましいことではあるが、前述のように現時点では新たな計画のもと、ISSの運用も、宇宙飛行士の活動も順調に行われており、急を要する事態ではない。トランプ大統領の懸念も、それに迎合するマスク氏の発言や動きも、必要性のない意味のないものである。
「バイデン政権が2人を放置していた」という発言からして、2人の宇宙飛行士を真におもんばかっての判断ではなく、政治的なパフォーマンスであると見るべきであろう。
また、マスク氏にとっては、「ボーイングとバイデン政権の失敗により取り残された宇宙飛行士を、スペースXの宇宙船で帰還させる」というシナリオに乗ることで、自身やスペースXへの注目を集める狙いがある可能性が考えられる。同時に、Crew-10で初飛行する新造船の製造が遅れていることから、世間の目を逸らすこともできる。昨年の時点ではなく、いまになって主張を始めたことからも、やはりパフォーマンスの意味合いが強いことがうかがえる。
そもそも、「バイデン政権が2人を放置した」という事実もない。スターライナーやクルー・ドラゴンの飛行スケジュールや、2人の宇宙飛行士の滞在延長は、NASAやボーイング、スペースXが決めたことであり、バイデン政権とは関係ない。事実、NASAの前長官ビル・ネルソン氏は昨年8月、スターライナーを無人で帰還させることを発表した記者会見で、「個人的見解だが、この決定に政治は一切関係していないと断言できる。政治はまったく関係ない」と発言している。
このような背景を踏まえた上で、仮にこのトランプ大統領とマスク氏による「宇宙飛行士救出計画」が実現するなら、悪しき前例となり、禍根を残すことになるだろう。
NASAはかつて、1986年のスペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げで、技術的判断より政治的判断を優先した結果、大惨事を引き起こした。
この事故では、固体ロケット・ブースターに使われていた「Oリング」というゴム製部品が、打ち上げ当日の低い気温のため機能しなくなり、そこから燃焼ガスが漏れ、燃料タンクに穴を開けて燃料に引火し、爆発した。
しかし、これは単に「Oリングが悪い」という話ではなかった。打ち上げ前には、製造企業の技術者が、Oリングの懸念について上司に報告していたものの、経営上の理由や、体面やNASAとの関係を保つために無視された。
また、このチャレンジャーには民間の教師が搭乗し、宇宙から授業を行うことになっており、打ち上げの翌日にはロナルド・レーガン大統領が、一般教書演説でそのことに触れる予定になっていた。そのため、打ち上げ延期が許されなかった(大統領がそう指示したわけではないが)背景もある。
今回のケースとチャレンジャーの事故は、背景も状況も大きく異なる。しかし、チャレンジャー事故から学んだ最も重要な教訓は、技術的な判断を、政治的な理由で歪めてはいけないということだ。人命や安全が関わる場合にはとくに、冷静かつ理性的に、技術的な判断が最優先にされるべきである。
宇宙開発の主役が国から民間企業へと移り変わり、ハードルが下がったように見えても、宇宙が危険な環境であるという本質は変わらない。その厳しさに、人間の都合が入り込む余地はないのである。
参考文献
・NASA Adjusts Crew-10 Launch Date - Commercial Crew Program
・FAQ: NASA’s Boeing Crew Flight Test Return Status - NASA
・NASA's SpaceX Crew-9 - NASA(NASA's SpaceX Crew-9 - NASA)
・NASA's SpaceX Crew-10 - NASA