東京大学(東大)は9月3日、ガ類昆虫のオスの触角にあり、同種のメスの放出するごく微量の性フェロモンを検出して、配偶相手であるメスを見つけだすこと(フェロモン源探索行動)を可能とする「フェロモン受容細胞」の活動を光刺激によって高い時間分解能で制御できる遺伝子組換えカイコガを作出し、微弱な刺激によって生じるフェロモン受容細胞の神経活動は、嗅覚一次中枢である触角葉の投射神経で一定の時間枠で統合され、フェロモン源探索行動の発現を促進することを明らかにしたと発表した。

同成果は、同大先端科学技術研究センターの神崎亮平 教授、同センターの櫻井健志 特任助教、同大大学院工学研究科先端学際工学専攻の田渕理史 大学院生(当時)、農業生物資源研究所、筑波大学らによるもの。詳細は「米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America:PNAS)」に掲載された。

ガ類オスのフェロモンに対する感度は、生物の嗅覚の中でも突出しており、例えば性フェロモン研究のモデル昆虫であるカイコガは、170分子のフェロモンを触角で検出すると、フェロモン源探索行動を起こすと理論的に考えられていたが、実際にはそうした少数のフェロモン分子を受容したフェロモン受容細胞が微弱な神経活動を起こし、その結果、オスのフェロモン源探索行動が起こるまでの脳内の仕組みはよくわかっていなかった。

これまでの研究から、フェロモン受容細胞で受容されたフェロモンの情報は電気信号に変換され、触角葉と呼ばれる嗅覚情報処理中枢の投射神経に伝達されることが知られており、同じ濃度のフェロモン刺激に対する神経応答を比較した場合、フェロモン受容細胞と投射神経の間で信号の増幅が起こっていることが示唆され、その増幅が、多数の受容細胞が少数の投射神経に収束することに起因すると考えられていた。しかし、フェロモン源探索行動を引き起こすために最低限必要な性フェロモン濃度(行動のしきい値)に近い濃度では、活動する受容細胞の数は少数であることから、ごく微量のフェロモンに対する応答は、これまで示唆された仕組みでは説明がつかなかった。

オスカイコガがメス(中央)の放出するフェロモンを検出して、フェロモン源探索行動を起こしている様子

また、匂いのように空気を媒介して伝わる性フェロモンは、空気中でフィラメント状に離散的に分布しており、1つのフィラメントは100ms前後であると報告されているほか、1つのフィラメント中では10~20msの性フェロモンの"バースト(濃度の変動)"が生じていることも報告されており、研究グループは今回、性フェロモンの濃度変動に起因する時間的に同時でない受容細胞の神経応答が脳内で時間的に統合されることで、行動閾値付近の高感度性が生成されているという仮説を立てて研究を行った。

この仮説の検証には、ミリ秒単位でフェロモン受容細胞の神経活動を正確に制御することが必要となるため、光照射により神経活動を高い時間分解能で制御するための分子ツール、青色光感受性の陽イオンチャネルchannelrhodopsin-2(ChR2)をフェロモン受容細胞だけで発現する遺伝子組換えカイコガを新たに作出し、光によってあたかもフェロモン刺激を与えたかのような実験環境(系)を構築して実験を行った。

動画
青色光刺激によるフェロモン源探索行動を示すオスカイコガ。青色光照射直後のChR2発現カイコガの様子(wmv形式 1.66MB 32秒)
青色光刺激によるフェロモン源探索行動を示すオスカイコガ。通常のカイコガの様子。ChR2発現カイコガのみがフェロモン源探索行動を示していることがわかる(wmv形式 1.28MB 26秒)

実際に、同系を用いて、カイコガのオスが時間的に同時でない受容細胞の活動を統合する仕組みをもつかの調査として、1回の刺激ではフェロモン源探索行動がほとんど起こらない条件に設定したパルス状の光刺激(弱い光刺激)を、さまざまな時間間隔で2回与えたときの行動および神経活動の解析を行ったところ、パルス間間隔が80ミリ秒以内のときにフェロモン源探索行動を示す率(行動の発現率)および投射神経の神経活動が増加することが判明したという。

 時間統合によるフェロモン源探索行動の発現率の向上。光パルス間の時間間隔が80ms以内の場合に、行動の発現率の上昇がみられる。縦軸は、フェロモン源探索行動を示したカイコガの率、横軸は光パルス間の時間間隔

この結果、カイコガには80msの時間枠内の受容細胞の活動を触角葉の投射神経で時間的に統合し、効率的にフェロモン源探索行動を起こす仕組みが備わっていることが判明した。この時間的統合の時間枠は、自然条件下での単一の匂いのフィラメントの時間枠とほぼ一致するとのことで、研究グループでは、1つのフィラメント内のバーストによって起こる受容細胞の活動を統合することでフェロモン源探索行動の発現の感度を向上させる仕組みであると考えられると説明する。

また、こうした投射神経の活動の増加は、1回の刺激でほとんどの個体が行動を示す光刺激(強い光刺激)のときにはみられなかったとのことで、その結果、刺激が微弱なときは時間的統合を行い性フェロモンへの感度を向上させる一方、刺激が十分に強いときには時間的統合を行わず性フェロモン分布の情報をより高精度に取得するという、状況に依存して柔軟に情報を処理していることが示唆されたとする。

時間統合による触角葉投射神経の神経活動の増加。弱い光刺激のときには、光パルス間の時間間隔(ISI)が80msから神経発火の増加傾向がみられ、60ms以内では有意な増加がみられる。縦軸は、神経細胞の発火頻度、横軸は光パルス間の時間間隔(ISI)。■は弱い光刺激を与えた場合を示し、●は強い光刺激を与えた場合を示している

これらの結果を受けて、刺激の強さに応じた時間的統合の違いが生じる仕組みを薬理学的な手法を用いた研究を行ったところ、投射神経の活動パターンの形成に重要な役割を果たす触角葉では、局所介在神経から抑制性神経伝達物質であるGABAが放出されるが、GABA阻害剤の存在下では弱い光刺激のときだけでなく、強い光刺激に対しても時間的統合が見られることを確認。その結果、時間的統合は投射神経の内在的な性質であること、ならびに強い入力の時には受容細胞の活動が局所介在神経の活動を誘導し、それにより放出されたGABAが投射神経もしくは受容細胞を抑制することで時間的統合が起こらなくなるという巧妙な仕組みが存在することが示唆されたという。

ただし研究グループでは、GABAの詳細な作用機構は明確ではないため、今後、研究を進めることで、その解明に結びつくことが期待されるとするほか、今回確立された新たな嗅覚研究の方法論を利用することで、これまで明らかにすることができなかったフェロモンや匂い情報処理の新たな知見が得られることが期待されるともコメントしている。