昔から、ふと情緒あふれる情景に出会ったときなど、スラスラと有名な和歌を暗唱できたらかっこいいなあなどと思っている。が、根性なしなので、ソラで言える歌は数えるほどなのだが、恋の歌でひとつすげえなあと思うものがある。
「君待つと 我が恋おれば 我が宿の すだれ動かし 秋の風吹く」
額田王の歌だ。好きな男に会いたい、いつ来てくれるのだろうと思っていると、風ですだれが動くのにも、男が来たのかと思いドキリとする、というもの。恋をする気持ちは、何千年経っても同じなのだなと思う。今で言うなら、メール着信する度に、好きな男からかと心臓がこむら返りになるけれど、中身を見てガックリ、みたいな感じ。
『あさきゆめみし』にも、現代に通じる恋の話はてんこ盛りだ。中でも個人的に感慨深いのは、夕霧と雲居の雁。夕霧は、源氏と葵の上のひとり息子だ。雲居の雁とはいとこ同士で、母親のいない2人は祖母の家で育てられる。親のいない寂しさを、お互い埋め合ううち、いつしか幼い恋へと発展する。しかし、雲居の雁の父親であり源氏の政敵・頭中将<とうのちゅうじょう>は、2人の仲を知ると、雲居の雁を自宅へ引き取り、夕霧から遠ざけてしまう。
雲居の雁との仲をなんとか認めてもらいたい夕霧は、懸命に学問に励み、階位を上げようと努力をする。この辺が非常に女萌えするシチュエーションである。そして遂に頭中将に認められ、雲居の雁をもらいに行く。しかし素直になれずすねる雲居の雁。謝りつつ押す夕霧。『あさきゆめみし』最大級の萌えシーンである。2人の恋を「春に遅れて咲く藤の花」に例えるところも奥ゆかしくてよいなあ。
こうして長い年月をかけて結ばれた2人。しかしそこで話が終わらないのが、千年のベストセラーたるところだ。恋愛中は、2人の間のすべてがイベントだ。しかし、いったん結婚してしまうと、一緒に食事をすることもセックスも、すべてが「生活」になる。神秘性が薄れてしまうのだ。あんなに盛り上がった世紀の大恋愛も、たくさん子どもが生まれて大所帯になると、すっかり生活感に満ちあふれてしまう。「情」は湧いても「ときめき」はない。
そんなとき、夕霧が求めるのが生活感のない、きれいなところだけが見える女。現代で言えば、若い女の愛人ってところ。生活も責任もないところで、「ときめき」だけ味わえる不倫は、(当の本人同士にすれば)楽しいことこの上ないだろう。現代の不倫をする女からは、「彼は妻よりも私のほうが好き」などというセリフを耳にする。そりゃあ生活という、現実的で責任のある関係を抜きにした、いいとこばっかり見られる都合のいい関係ならば、「ときめき」感は妻より不倫相手のほうがより強く感じられるのかもしれない。
夕霧も、同じような恋をする。亡くなってしまった親友の柏木、その妻であった二の宮だ。内親王で、子どももいない二の宮は、月を愛で、楽をつま弾く風流な生活をしている。すっかり所帯じみてしまった我が家にはない、非現実的で夢のような生活に、夕霧はすっかり心を奪われてしまうのだ。なんて勝手な野郎だ。まあ、雅を頭から否定して「そんな余裕ないわよ」などと受け入れない雲居の雁も悪いのだけれど。
源氏物語に、ひたすら楽しく、心躍る恋愛などひとつもない。そこにあるのは、女の人生の難しさだ。にもかかわらず、内容を知らない、もしくは理解できない人たちが、これを「プレイボーイのゆかいな恋愛物語」と思っている節があるのが、どうにも腹立たしいのである。
初めて関西に出張に行ったときのこと。二条、六条、住吉、須磨、明石と、源氏で見慣れた地名を目にして、ひとり興奮した。また春の嵐とくれば野分、葵祭とくれば車争い、雀の子とくれば伏せ籠と、私の頭にはびっしりと源氏ワールドがこびりついている。そこまでとは言わなくとも、女の心をガッチリと掴んだ名文学を、少し眺めていただければなあと思う。
<つづく>