今日元気で会った人でも、明日会えるとは限らない。再会を約束しても、次はないかもしれない。
(『喪の旅 愛しい人に出会い直す』より)
愛する人を失ったとき、人はどのように生きていけばいいのでしょうか。悲しみを抱えたまま、それでも日々を重ねていく中で、少しずつ見えてくるものがあります。
今回は、死別の悲しみを抱いてどう生きていくかを取材した河合真美江さんの著書『喪の旅 愛しい人に出会い直す』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)より、息子を亡くした鍋島すみれさんのお話をお届けします。
教え子たちが幸せになるように、息子の分も
小学校の教員だった息子を亡くした鍋島すみれさん
ピッピッピッ……。ちょうど10回。リビングに置いた遺影のそばで、白い腕時計は今日も午後9時に鳴った。
「はいはい、待ってや」
京都府精華町の鍋島すみれさん(60)が声をあげる。「おかん、ここにおるで!」。あの子に呼ばれているようで、すぐ反応してしまう。
2019年のクリスマス。すみれさんが長男の福岡優希さんに贈った「G−SショックHOCK」。優希さんは入院中、毎朝腕につけた。そして夜9時に鳴ると、外して眠った。だが、腕時計の主あるじは20年5月に世を去った。34歳だった。
12月の雪の日に生まれたから「ゆうき」。追いつめられても、希のぞみを追求するひとになってほしい、との思いをこめた。家での口数は少なく、池井戸潤の『下町ロケット』や半沢直樹シリーズを黙々と読むような子だった。
すみれさんは約20年前に離婚。優希さんら4人を育て、支援学校の教員として子どもと向き合ってきた。この子には紙芝居、自閉症の子には学習の段取りをわかりやすく。自宅でも担任するひとりひとりに合う教材をつくった。大変だけど、やりがいが勝った。
いつしか、優希さんが小学校の教員を目指しているのを知った。「自分の背中を追ってくれたのかな」。そう思うと、うれしかった。
優希さんは試練にさらされた。教員採用試験に挑戦するなかで白血病を発症。克服すると、今度は肺気胸で手術を繰り返した。それでもあきらめなかった。小学校で講師を続けながら子どもと触れ合い、採用試験に挑み続けた。18年、ついに合格した。
辞令交付式から3日後、ふたたび倒れた。1年間の入院を余儀なくされた。「ここちゃうねん。学校の教室がぼくの場所やねん」。念願の教員になったのに悔しくて病室で叫んだ。その年の秋、気管切開して声が出せなくなった。
すみれさんの60歳の誕生日、優希さんは静かに逝った。「この日までってがんばったんやな。おにいちゃんの命日で、おかあさんの誕生日。毎年みんなが集まれるように」。妹と弟がいった。
コロナ感染が広がっていた。家族葬で済ませるつもりだったが、優希さんの教え子たちから声がかかった。「先生にお別れがしたいんです」。葬儀場のフロアにメモリアルコーナーができ、優希さんへの手紙や写真がずらりと飾られた。
「ほめられたのは福岡先生が初めてでした」
「学校にとけこめないでいたけど、先生は話を聞いてくれた」
すみれさんは感謝の言葉を次々にかけられた。弔問は2日間で400人にのぼった。優希さんが、子どもへのごほうびシールをいっぱい用意しているのは知っていたけれど、知らなかった優希さんが目の前に立ちあがってきた。
優希さんの言葉を思い出した。「できたね、がんばったねってほめるんや。ひとりでも楽しくない子がいたら、そこは学校じゃない」。情熱をもって子どもたちと接していたんだ。誇らしく思えた。
優希さんのいない暮らし。すみれさんの気持ちは前へ進めない。そんなある日。車を運転していて飲食店の看板が目に入り、胸をつかれた。
「おかん」。くっきり書かれた店の名。優希さんの低くてやさしい声が重なった。
優希さんが反抗期を過ぎた高校生のころに、こう呼ばれるようになった。当時は泥臭い響きがあまり好きではなかったのに、いまは違う。もう一度でいいから呼びかけてほしい。あの声が聞きたい。
再会は突然やってきた。取材を受けるなかで写真を探し、すみれさんが優希さんのスマホをいじった時のこと。動画を開くと優希さんの声が耳に飛びこんだ。
「ありがとう、あしたね」
優希さんの妹家族がお見舞いに訪れ、病室を離れる場面。「優希がいてる。生きてるやん!」。すみれさんは思わず叫んだ。
ここにおるで~。やっと見つけてくれたなあ。かくれんぼしていて見つかった、いたずらっ子みたいな優希さんの笑顔が心に広がった。
そうか。優希さんが言いたかったことが身にしみた。
「ありがとう」なんだね。
生涯で出会った子どもたちや友だち、復帰を待ってくれた同僚、そして家族へ。
子どもを認めることの大切さ。優希さんにあらためて教えてもらった気がする。
「子どもひとりひとりが幸せになるように、優希がやり残したことを受け継ごう。ひと踏ん張りや」
教員に再任用されれば、この春からもう1年がんばってみようと思っている。
著者:河合真美江(かわい まみえ) 1963年、東京生まれ。1986年に朝日新聞社入社。松江支局や大阪本社整理部、文化部、金沢総局などに勤務し、文芸やジェンダー、死別と向き合う生き方などを取材してきた。2025年6月に退社。「ベルサイユのばら」で宝塚歌劇と出会い、小学生のころから50年以上見てきた。記者として歌劇100周年のころを担当。

