ジェンダーフリーが進む現在ではあまり耳にしなくなりましたが、ある時期、市民権を得ていた言葉に「オトコのプライド」というものがありました。男性というものは非常にプライドが高い生き物なので、彼らのブライドをくじいてはいけないという教えです。今の40代以上の女性は耳慣れた言葉かもしれませんが、ピンと来ないであろう若き皆サマにご説明するとこんな感じです。

  • イラスト:井内愛

オンナのプライドとは何か? 小出監督の指導法でみえてくるもの

今から約10年前、人気絶頂だったある女子アナの秘密を探るという名目で、女子アナに無理難題をつきつけて、どう解決していくかを隠し撮りするという、おそらく今やったら問題になること請け合いの企画が行われたのでした。番組の下っ端の製作者がプライベートで連絡を取りたいと人気女子アナに連絡先を聞きますが、この時に女子アナは「今、携帯がここにない」とやんわり断るのです。どうして「教えたくないです」とはっきり断らなかったかと聞かれた女子アナは、「男性のプライドを壊さないため」と発言し、周囲からさすがと絶賛されていたのでした。

女子アナの場合、仕事仲間に敵を作ると週刊誌にタレこまれたり、ネットに「あの女子アナは気取っている、カネのある男しか興味がない」などと書かれかねないので、このように全方位に“いい人”である必要があるかもしれません。しかし、結局、このオトコのプライドとやらを尊重すると、女性は自分の意見が言えませんし、話し合うことすらできず、男性のいいなりになるしかない。ひねくれ者の私は、おいおい、オンナにプライドはないと思ってんのかよ、と画面に向かって叫んだのでした。赤ちゃんだって子どもだって、お年寄りだって、人にはみんなそれぞれプライドはあるはずです。 |

オンナのプライドは何かと考えたときに、浮かんできたのが、マラソン指導者の小出義雄さんなのでした。小出監督の教え子には2000年にシドニー五輪で金メダリストとなったQちゃんこと、高橋尚子さんがいます。日本女子陸上界初の金メダルということで、日本中が沸き立ちますが、もう一つ注目されたのが、小出監督の指導法なのでした。

それまで、スポーツと言えば、スポ根ドラマに代表されるように、コーチがしごいて選手は歯をくいしばりながら無条件に従うというものが一般的だったわけですが、小出監督はなんと選手をほめる方法で育てたのでした。ほめることで選手が育つなんてあるのかと懐疑的な人もいましたが、92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪銅の有森裕子さん、97年世界選手権の鈴木博美さん、03年世界選手権金の千葉真子さんなど、有名選手を続々と育っています。

小出監督の名言「おまえは世界一になれる」

監督は高橋選手だけでなく、自分が指導していた選手全員に「世界一になれる」と言い続けたそうです。熱しやすく冷めやすい日本人のこと、「ほめるのはいいことだ」と小出メソッドを真似る人が続出したのでしたが、特にいい結果は出ていないようです。確かに、ほめてどうにかなるほど、世の中は甘くないですよね。

「ほめるのはいいことだ、叱るのはいけない」と言うのが最近のトレンドですが、実は子どもをほめるだけで育てると「できなそうなことにしか挑戦しなくなる」という実験結果が出ています。子どもにもプライドがありますから、これまで親や大人にほめられていたのに、急にほめられなくなると傷つくからでしょう。また、ほめ言葉やご褒美、できなかったらお仕置きという方法で子どものお尻を叩くと、子どものやる気は激減してしまうことが心理学で証明され、これは「アンダーマイニング現象」と呼ばれています。それでは、人が成長するために必要なものは何かというと、純粋にそれが楽しいという気持ち、つまりやる気です。小出監督がニュース番組に出て、「企業が勧誘した子は大成していない。自分からやらせてください、私を指導してくださいと言った子が大成する」と話していたことがありますが、「どうしてもやりたいんだ」という志はやはり大事なのでしょう。

小出監督はほめて育てる人の代名詞、だが真のすごさはそこじゃない

小出監督は「ほめて育てる人」の代名詞ですが、私は彼の真のすごさはそこではないと思うのです。“万引きランナー”と呼ばれた原裕美子さんをご存じでしょうか。小出監督の教え子の一人で、世界選手権にも出場した有望選手ですが、厳しい体重管理がもとで摂食障害になり、怪我が続いて思うように走れなくなってしまいます(陸上選手は痩せているほうがいいタイムが出るため、選手たちは徹底した体重管理を申し渡されるそうです)。摂食障害を患う人の一部は、窃盗症という病気を発症してしまうことがあるそうですが、原さんも万引きがもとで7度逮捕されています。窃盗症は精神障害の一種で、「お金がないから盗んだ」「モノがどうしても欲しいから盗んだ」というような単純なものではないため、治療に時間がかかることも知られています。

その原さんが自著「私が欲しかったもの」(双葉社)内で、小出監督のことにふれています。小出監督は「まだまだこれからだよ」「原、おまえの足首いいね~。Qちゃんみたいだ」と折に触れてほめてくれたそうです。しかし、それだけではない。当時の原さんは食べ吐き(大量に食べて吐くことで、体重を増やさないようにすること)をしていたそうですが、それを監督に打ち明けると「原、まずは怪我を治しなね。体重が増えてもいいからちゃんと食べて治すんだ。体重が増えるっていうことは、それだけ体に栄養を与えているということだから、気にしなくていい」と、マラソンのことより先に骨粗しょう症や無月経について心配してくれたのだそうです。

スポーツは「勝ち負け」がはっきりしており、「勝つこと」はあらゆる意味で大事なことです。やるからには勝ちたいと選手やコーチが願うのは当たり前ですが、「勝つこと」でメディアが取り上げ、スポンサーがつくことから考えると、負けることでいいことは一つもないのです。負けが続けば「私なんて、必要とされていないのではないか」「私は無価値な人間なのではないか」と自分の存在を否定することすらあるでしょう。実際、スポーツでは結果を出せない人は自然と淘汰されていく厳しい世界であることは否定できません。

けれど、小出監督は「まず体を治せ」と言ってくれた。これは原さんというか女子選手にとって「走らない自分にも価値がある」と言ってもらったこととイコールなのではないでしょうか。

「負けたのはおまえが悪いからではなく、監督がダメだからだ」

小出監督は選手が負けそうな時ほど、ゴールで待っていることを自分に課していたそうです。それは「負けたのはおまえが悪いからではなく、監督がダメだからだ」と言ってあげるためだったそうですが、「勝てないおまえも無価値ではない」という姿勢があったからこそ、選手たちは再挑戦できたのではないかと思います。

若いとかかわいいとか痩せているとか。女性は小さい時から、自分の一部を削り取られ、評価されることが多いものです。ほめられたらその時は嬉しいかもしれませんが、それが一時であることを女性たちは知っていて、ほめられる人ほど「いつかほめられなくなる」と不安を抱えているかもしれません。そんな中、小出監督は「そうじゃない部分」を否定せず、その人の全部を見てあげた。小出監督はそれがオンナのプライドを守る方法だと知る、数少ない人だったのかもしれません。