今やインスタグラムを始めとするSNSと言えば、ほとんどの人が何かしらやっていると言っても過言ではないと思いますが、インスタグラムがそれほど流行っていないとき、いち早く初めて登録者数を伸ばしていた渡辺直美がバラエテイ番組に出ているのを見て、驚いたのです。

まず、直美チャンは視野が広い。後輩と出かけたときなど、直美チャンは写真を撮りまくりますが、1~2日おいてからアップする、食べ物の写真は載せないと言っていました(今は変わったかもしれませんが)。

自分が楽しいと思って撮った画像でも、それを見る人がどう受け止めるかはわかりません。食べ物の場合は直美チャンのインスタを見たお客さんが押し寄せて、お店に迷惑をかけるかもしれないし、「おいしいもの食べている自慢」と取る人がいないとは言い切れない。だから、少し時間をおいて、自分の写真がどんなふうにとらえられるかを冷静に判断しようと思っているのではないでしょうか。

人気商売の人にとって、SNSのフォロワーが多いことは、仕事を増やすことにつながりますが、一歩間違うとトラブルを抱えたり、自分自身が攻撃のターゲットになってしまう可能性もあります。直美チャンのそういう話を聞かないのは、ひとえに賢さゆえかもしれないと思ったものです。

あれから時は流れ、ますます人とSNSの距離は近くなっています。なんとなく、「SNSってカラダに悪いんじゃないの?」と思って調べてみたところ、実は数々の大学の調査で、SNSはメンタルヘルスに悪いとか、うつ病や摂食障害を誘発する一因となるといった結果が出ているのでした。特に若い人は「見えたものが全て」なところがありますから、SNSにアップされていることは「ホントウ」だと思ってしまって落ち込むのも無理はないことでしょう。

それ以上に私が危険を感じているのが、SNS人民裁判なのです。特定の誰かのことを指した話ではありませんが、有名人の不祥事が週刊誌に掲載されると、SNSがアツくなる。イメージと違った、嫌いになったくらいなら「個人の自由」ですが、降板させろ! 活動自粛だ! みたいな意見を読むと、この人は何の権利があってそんなことを言えるのかと不思議になってしまうのです。週刊誌がウソを書いているとは申しませんが、記者と言ってもいろんな人がいますから、そこに個人の主観や誘導が全くないとは言いきれません。仮に週刊誌の内容が全く間違っていないと言い切れるとして(それをどうやって証明するかもわかりませんが)、他人を社会的に葬るような宣告を平気でしてしまえるのが恐ろしい。

でも、これもSNSの影響なのだと思います。人気のYouTubeチャンネルを見ていると、「こんなやつとは縁をきれ」とか「〇〇が口癖のヤツは、ずっと負け組」というような「早く答えを出したい人のため」の「極端な話」であふれているからです。勝ち組と負け組、金持ちと貧乏というような、極端な二元論があふれるコンテンツにばかり触れていたら、発想が極端になってもおかしくはないでしょう。

渡辺直美の名言「失敗。」

  • イラスト:井内愛

成功と失敗というのも、毎日のように目にする二元論ですが、今や世界のナオミ・ワタナベが2019年10月4日配信の「VOGUE」で、「20代のうちやり忘れたことは?」という質問に対し、「失敗」と答えています。失敗をしておけばよかったとはスケールの大きい答えですが、その理由について彼女は「ずっと失敗をしたら終わりだと思っていたので、失敗を恐れて一歩を踏み出せないことが想像以上に多かった。(中略)30代では失敗してもいいから、何でもやってみようという感覚で過ごしたいです」と答えています。

これは私の推測ですが、ナオミは成功と失敗を「正反対のもの」と考えていないのではないかと思うのです。失敗の向こうに成功がある、その向こうにまた失敗があって、とすごろく的な捉え方をしているのではないでしょうか。

そもそも、成功とか失敗とジャッジするのは、不可能な気もするのです。たとえば、婚約破棄をした人を“失敗”という人もいるでしょう。しかし、破棄するにはそれなりの理由があるはず。そこに目をつぶって、形だけでも無理に結婚するのが成功なんでしょうか? 婚約破棄をした後に、素敵な人と出会って結婚したら、それは「婚約破棄したおかげ」でもあるわけで、こうなると婚約破棄がよかったのか悪かったのか、わからない。これが人生の面白いもしくは怖いところです。それなのに、失敗と成功というような二元論で物を見ていると、「今見えていること」でしかジャッジできないので、たいていは失敗に思えてくるのではないでしょうか。

「失敗は成功のもと」という諺がありますね。若い頃は、すみません、いつになったら成功するんでしょうか? と諺を作った人に尋ねたい気分になったものですが、今なら「なるほどね」と素直にうなずけるのです。

なぜなら、本当の失敗とは、挑戦すら、できないことを言うから。

野球にたとえてみると、代打としてバッターボックスに立てたものの、打てなかったとしたら“失敗”に見えるかもしれません。けれど、とりあえず打席に立てたことで「自分の弱点はこの球種だから、今度はこんな練習をしてみよう」というように、なんらかのヒントを得ることが出来たら、次に活かすことが出来るはず。しかし、出番がこない人は「打てなかった」という意味の失敗もないかわりに、「打席に立った」という実績も積めないので、ますます打席に立てないのです。そもそも、バッターボックスに立てた時点で、監督からは「実力がある」とみなされているわけで、その時点で半分成功していると言えるのではないでしょうか。

ついでに言うと、成功している人はポジティブ、失敗している人はネガティブみたいな、これまた二元論的解釈がされることがありますが、これもまた違うのではないでしょうか。

ナオミは「VOGUE」のインタビューで、「決していつも明るく前向きでポジティブでいるわけじゃない。だから、誰か一人がリーダーでその人について行くのではなく、自分が人生のリーダーになることが大事なんじゃないかなって思います」と答えています。今のナオミなら「そうなんですよ、私、すごいポジティブで落ち込んだことないんです。みなさん、私についてきてください」と大ウソをぶっこいて、日本のポジティブ代表の椅子に座ってもいいのに、それをしないで「私をむやみに頼りにするのでなく、自分の中に、リーダーを持ってね」と冷静に言える。

つまり、彼女はいつもポジティブでもネガティブでもなく、ニュートラル。ニューヨーク進出で大変なことも多いと思いますが、ニュートラルだからこそ、どの方向にも対応できるし、たやすく折れることはないと思うのでした。