薬剤師として30年以上のキャリアを誇るフリードリヒ2世さんが、日常のさまざまなシーンでお世話になっている薬に関する正しい知識を伝える連載「薬を飲む知恵・飲まぬ知恵」。今回は偽薬に関するお話です。
「病は気から」との出会い
最近、米国のドナルド・トランプ大統領がユネスコ(UNESCO: 国際連合教育科学文化機関)からの脱退を表明して話題になりました。実は2002年、そのユネスコ(パリのエッフェル塔の近くに位置するエコール・ミリテールという軍事学校のすぐ裏にあります)を会場にして開かれた「iSQua(イスクヮ)」と呼ばれる学会に参加したことがあります。iSQuaというのは、世界規模で医療の質・安全の継続的な向上を支援し、発展させることを目的とするユニークな学会です。各国の医療従事者や政府関係者が参加します。
学会の休み時間には会場を抜け出してルーブル美術館を見学し、その近くにある「パレ・ロワイヤル」と呼ばれる、崇高な庭園と現代アートを鑑賞できる場所にも出かけました。何のためかですって? 実はここに、フランスの著名な劇作家・モリエールの最後の戯曲「病は気から」(1673年発表、日本語訳は岩波文庫など)が初演された劇場があるのです。筆者は薬学研究者で演劇も好きなほうなので、この医学的な名前のついた有名な戯曲が初演された場所を見ておきたかったのです。
そして、今回のテーマも「病は気から」です。といってもお芝居の話ではなくて「偽薬」とその利用法のお話です。
偽薬であるプラセボを用いる理由
医学に少しでも明るい方でしたら、プラセボ(プラシーボ: placebo)という言葉を聞いたことがあるでしょう。外見は本物の薬のように見えますが、薬として効く成分は入っていない「ニセ薬」のことです。
プラセボという名前はラテン語の「プラケーボー」(「私は喜ばせる」の意)に由来するとされています。実際の現場では、少量ではヒトに対してほとんど薬理作用や味のないブドウ糖や乳糖が使われます(少し苦味を付けておくともっと本物らしく思えるかも?)。
では何のためにそんなものを使うのでしょうか。最近流行の「フェイク・ニュース」のネタ作りのため? いえいえ、まじめな医療専門家たちによる医療目的の「確信犯的」(?)行動です。プラセボの実際の使用目的としては、以下のようなものがあります。
<1>何らかの理由があって、患者さんに本物の薬を使うことなく、患者さんには本物の薬を使っているように思わせたい
<2>ある薬に本当に効き目があることを客観的に証明するために利用したい
薬への「依存性」がある患者さんに……
<1>については、ある病院にかつて筆者が勤務していた際に興味深い経験があります。ある外来患者さんが定期的に通院されていたのですが、その方は睡眠薬・Aと鎮痛解熱剤・Bに対して若干の「依存性」をお持ちだったのです。「依存性」というのは「その薬がなくては気分が優れない、飲むのが精神的・身体的にクセ(日常習慣)になっている」状態のことです。あまり好ましいこととは言えないでしょう。
そこで主治医の先生が患者さんのためによかれと思って、その患者さんには詳しい説明はせず、AとBの代わりにプラセボを処方したのです。私たち薬剤師は、あらかじめ医師から事情を知らされていたのでプラセボ調剤を承知しました(ちなみに世界保健機関<WHO>では、このような処方はできるだけ行わないよう勧告していますが……)。
それでは仮にそんな偽薬を飲んで、病気の症状が本当に改善するのでしょうか。結論から言うと「不思議なくらい効く」のです。「プラセボにはほとんど薬理学的作用がない」はずなのに……。この不思議な現象を「プラセボ効果」といいます。
いつもプラセボが「効く」というわけではありませんが、「不眠」「痛み」「高血圧」「頭痛」「気分障害」などには、かなりの割合でプラセボ効果が現れると言われています。ニセの薬で効き目が出てしまう。人体の持つ不思議な生理作用の一つですね。まさに「病(健康)は気から」ですね。
プラセボと逆の「反偽薬効果」とは
偽薬を本物の薬だと思いこむことで、病気の症状が改善するのとは逆のケースが発生することもあります。同じように偽薬と本物の薬を使っても、「(この薬には)副作用がある」と信じこんで、自分が望まない副作用(有害作用)が現われたり、いつもどおりの(ちゃんと効き目のある)薬剤を継続しているにも関わらず、患者さんが「自分にはちゃんと薬が処方されていない」とか「この薬は実は効かない薬だ」と思い込むことによって、薬剤の本当の効果がなくなったりするといった具合です。これを「反偽薬効果」(ノーシーボ効果、あるいはノセボ効果
プラセボ効果が現れるのは、患者さんの主観的な症状を記録する際、治療担当者がバイアス(思い込み、偏見)を持ってしまって治療効果をちゃんと観察しないのが原因だと考えられていたことがあります。「プラセボ効果なんかあり得ない」という偏見があったのでしょうか。
その後プラセボ効果の研究が進むにつれて、プラセボ効果が現れる神経メカニズムが少しずつ明らかになってきました。一例として「内因性オピオイド」(脳内麻薬といわれます)と「ドーパミン」(学習の強化因子とされています)という、元々人体にある2つの神経伝達物質とプラセボ効果との関係を調べた研究が発表されています。さらに詳しいことが解明されるのはもう少し先でしょう。
手術でもプラセボ
さらにプラセボというのは、薬だけではなく手術の評価にも用いられます。本物の治療のように見せるプラセボ手術(placebo surgery)が行われることがあるのです。
例えば、最近LANCETという世界的な医学誌に発表された論文によると、くじ引き試験で冠動脈狭窄症(心臓の太い血管が詰まる病気)の患者さん200人を2グループに分け、一方にはPCIという定番の手術(105例)を、もう一方にはプラセボ手術(95例)を行って2つの治療効果を比較した研究があったとのことです。ニセの手術を患者さんに実施するなんて、「(お医者さんも)役者やのぉ」と言いたくなりますね(このような臨床試験では、必ず患者さんから試験内容の同意を取っておくことになっています)。
その臨床試験の結果、冠動脈狭窄症に対して標準的なPCI手術が施された人と同手術をしなかった(ニセ手術を受けた)人の間では、治療結果にあまり違いはなかったとのことです。ニセ手術にもプラセボ効果があるのです。びっくりですね。でも何となく納得。
さて、プラセボのもう一つの利用法は「ある薬(治療法)が本当に効くこと」を証明するための道具として使う手法です(上記<2>)。特に薬の臨床試験におけるプラセボの役割は、とても重要です。薬を飲んで治療効果があったとしても、それがプラセボ効果によるものなのか、本当の薬理作用によるものなのかを区別する必要があるからです。
そこで真の治療効果を調べるには、臨床試験参加者の同意のもとで、プラセボを用いた「比較対照試験」を行うことが医学研究の信頼性を高めるために必要とされています。次回のコラムでは、どのようにそれを行うのかについて書いてみましょう。
※写真と本文は関係ありません
筆者プロフィール: フリードリヒ2世
薬剤師。徳島大学大学院薬学研究科博士後期課程単位取得退学。映画とミステリーを愛す。Facebookアカウントは「Genshint」。主な著書・訳書に『共著 実務文書で学ぶ薬学英語 (医学英語シリーズ)』(アルク)、『監訳 21世紀の薬剤師―エビデンスに基づく薬学(EBP)入門 Phil Wiffen著』(じほう)がある。