漫画家・コラムニストとして活躍するカレー沢薫氏が、家庭生活をはじめとする身のまわりのさまざまなテーマについて語ります。
今回のテーマは「オススメしたいもの」だ。
オタクが自分の推しを周囲に勧めることを「布教」と呼ぶ。
なぜオタクが布教をするかと言うと、もちろん推しの尊さを多くの人に知ってもらいたいという宗教的な意味もある。
だが、宗教というのは常に信仰の対象ではなく、信仰する者の心を救うためにあるのだ。
推しがいれば「いつまで腐敗したこの世界で消耗してんの?」と意識が高い人に問われても、瞬時にろくろを回しながら「推しというゴッズチャイルドが落とされているからです」と答えることができる。
つまり推しがいれば、どけと言われても現世に居座るし、推しにお布施をするために、社会人のコスプレをして、神が人間に与えた罰の中でも最も重い「労働」も甘んじて受けることができるのだ。
逆に言うと、推しがゴルゴダってしまったら、衣装を社会人からジル・ド・レイに大胆チェンジして何をしでかすかわからない、ということだ。
つまり自分のためにも周囲のためにも、神には1秒でも長く現世にとどまっていただかねばならない。
神の滞在期間というのは信者の数、そして信者が落としたお布施の額に比例する場合が多く、これが少ないと「サ終」などの謎の現象で神が天に召されやすくなってしまうのだ。
よって信者たちは神が天に帰ってしまわぬよう、布教活動に勤しむのである。
私も布教は良くするが、そういった回り回って自分に利益が還元される布教以外で他人に何かを勧めるということはあまりないような気がする。
信者が1人増えるごとに自分の推しの寿命が延びる、売上額の10%バックなどの自分に利益が返ってこない布教というのは単純に「お前に良いことを教えてやろう」という「親切心」で行われるものである。
私は他人に対する親切心より、下手に他人に何かを勧めて「なぜ既婚者を紹介した?」などの面倒になるのは嫌だという自己保身の方が遥かに強い。
そして「良いものを他人に教えたくない」というドストレートすぎる性格の悪さからバックのない布教は積極的にはしない。
特に漫画は「私が紹介したせいで他人の本が1冊でも売れたら困る」という、自分の利益ではなく、他人の利益を1円でも減らすために黙っている。
ただ例外として「食べ物」に関しては、美味いものを食った瞬間、知力が下がるため、小賢しいことを考えずに「コレ、ウマイ、クエ」とすぐに勧めてしまっている気がする。
布教の目的は推しの買い支えや親切心だけでなく、気持ちの「共有」のために行われることも多い。
知らないアニメの話ばかり長時間聞かせてくる人間ほど迷惑なものはないし、そろそろ法で取り締まった方が良い。
しかし、聞かされる方もそのアニメを見さえすれば、迷惑行為だったものが、楽しい会話、白熱の議論、命のやりとりなど、とにかく知らないアニメの話を青魚の目で聞いていたときよりは有意義な時間を過ごすことができる。
つまり、盛り上がれる「共通の話題」を作るための布教であり、特にオタクは隙あらば自分の推しのことで盛り上がりたいと思っているので、共有も布教をする大きな理由のうちの一つだ。
そしてもう一つ「誰かを同じ地獄に落とさないと気が済まない」という理由で行われる布教である。
よくオタクは「沼」という言葉を使うが、そういう意味ではない。
オタクの言う沼というのはシャブ風呂みたいなものであり、確かに地獄ではあるが浸かっている人間の顔はいたって恍惚なのだ。
そうではなく、正真正銘の地獄を見たとき、人は「なぜ俺だけがこんな目に」という怒りから周囲を同じ目に合わせたいと思ってしまうのである。
買う方が悪いような大手製菓会社が年1で出す悪ふざけ菓子を勧めるのはこのためだ。
しかし、地獄もエンタメにしてしまうのが、鬼も呆れる人間の業である。
人間は面白いものや美味いものでも盛り上がれるが、でかいウンコの話でも同じレベルで盛り上がれたりするのだ。
ただクソを人に勧めるときは「これすごいクソだから食ってみ」と正面から勧めるのが礼儀ではないかと思う。
私はこれからも映画デビルマンを「すごいクソ映画だから見てくれ」と勧めていくつもりである。