
独創的なアイデアや、革新的な技術を持った自動車メーカーは、多くの場合(必ずしもすべてではないが)、そのアイデアに溺れて開発費用が嵩んでか、はたまたエンドユーザーに受け入れられなくてか、とにかく歴史に埋没していくメーカーが多いように感じる。ヴィンチェンツォ・ランチアが興したランチアというメーカーも、フィアットの助けを借りなければ歴史に埋没したメーカーだったように思う。
【画像】ランチア・ラムダの後継として誕生したアストゥーラ(写真7点)
ヴィンチェンツォ・ランチアは1881年8月24日、ミラノ北西部のフォベッロという町に生まれた。父親はスープの製造業者で、家庭は裕福であった。そんな彼がエンジニアの才能を発揮したのは、ランチア家が別荘として使っていた土地の敷地内にあった、チェイラーノ自転車修理業の店でのこと。本来は会計士を目指していたランチアだったが、ここでの体験が彼を自動車へと誘うのであった。
チェイラーノでの彼の才能を見抜いたのは、当時フィアットの常務取締役だったジョヴァンニ・アニェッリであり、彼をフィアットのレーシングチームに引き入れた。アニェッリが彼をフィアット・レーシングチームに引き入れたのは、卓越したエンジニアとしての腕ではなく、やはり卓越していたドライバーとしての才能を買ってのことであった。アニェッリの慧眼は見事で、ランチアは期待に応え、抜群のスピードを披露した。多くのレースでラップレコードは記録するも、運には恵まれず、大きなレースでの勝利はあまりない。
そんなランチアが、同じフィアットのテストドライバーだったクラウディオ・フォゴリンと二人で、Lancia & C. Fabbrica Automobiliを立ち上げる。これがランチアの名をもつ自動車会社の始まりであった。チェイラーノ時代に発揮した、エンジニアとしての才能はいかんなく発揮され、最初のモデル、アルファ(後にこう呼ばれるようになった)の4気筒エンジンは、当時1000回転も回ればよい方だった時代に、1450rpmを回してみせた。
歴史を動かした最初のモデルは、ラムダであろう。ボディは史上初のモノコック構造を持ち、サスペンションは独立懸架であった。エンジンはOHC。後々までランチアの代名詞ともなる、狭角V4エンジンがこの時誕生した。この車は卓越した性能や低く構えたボディなどから人気を博し、1922年から1931年までの間におよそ13000台が生産され、当時としては異例のヒット作となった。
しかしこれも、ある意味では唯我独尊の象徴的な存在とも言えた。というのも自動車業界(とりわけイタリア)では、自動車メーカーはシャシーだけをつくり、ボディの架装は、いわゆるカロッツェリアが請け負うというのが常識であったが、モノコックボディを持つラムダではそれができなかったのである。このため、当時から老舗コーチビルダーが存在した業界では、受けが悪かったであろうことは想像に難くない。そんなラムダの後継モデルとして誕生したのがアストゥーラであった。
業界の空気を察したのかもしれないランチアは、この車を工場で架装したセダンボディと、ベアシャシーの状態の2種で販売したのである。結果、富裕層は好みのボディをカロッツェリアに依頼することができ、元々技術に長けたランチアの高性能シャシーと相まって、アストゥーラは当時のイタリアで最も権威ある自動車の一つとしての地位を瞬く間に確立し、実業家、貴族などのステータスの象徴となった。
そんなアストゥーラを好んだのは、富裕層だけではない。当時の政界もこの車にぞっこんだったようで、1930年代後半のイタリア政府は、トルペードボディのアストゥーラを公用車として使っていた。パレードなどに使用されたミニステリアーレと呼ばれた6人乗りのコンバーチブルを使ったのは、時の首相ベニート・ムッソリーニ。政府はスペシャルモデルを発注し、1938年に盟友アドルフ・ヒトラーがイタリアを公式訪問した際のパレードにこの車が使われ、帰国の際にはそれをプレゼントしたという。
ランチアは、それまでアルファから始まるギリシャ文字を車名として使ってきたが、アストゥーラはその慣例を破った最初のモデルであり、同時にナショナリズムに迎合した最初のモデルでもあったようだ。ちなみにアストゥーラの名はローマ郊外、ネットゥーノにある歴史的なお城に由来する。
そんなわけでアストゥーラは、イタリアが世界の舞台で存在感を高めようとしていた時代に、イタリアの卓越したエンジニアリングと特注の贅沢を象徴する存在だったのである。シャシーはボディ・オン・フレーム構造に戻ったものの、ラムダ時代のpianale ribassato(ピアナーレ・リバッサート)と呼ばれた低床構造は引き継がれ、剛性を高めるために、X字型の補強を加えたボックスセクションのフレームレールを採用していた。
エンジンはお得意の狭角V型。しかしラムダのような4気筒ではなく、V8であった。アストゥーラはシリーズ1からシリーズ4まで生産され、シリーズ2までは排気量2604ccの、ティーポ85と呼ばれたVバンク19度のエンジン。そしてシリーズ3以後は、ティーポ91と呼ばれた17.5度のVバンクを持つ2973ccに改められた。
ロッソビアンコに収蔵されていたアストゥーラは、シリーズ3のモデルで、カロッツェリア・カスターニャが手掛けた、美しいエアロディナミカの名を持つクーペボディが架装された車だ。このシリーズ3のみ、ホイールベースがショートとロングの2種用意されていて、4台つくられたというエアロディナミカのうち、シャシーナンバー30-101のこの車だけが、ショートホイールベースであった。
ボディ自体は元々アルファロメオ8C2300ルンゴのシャシーに載せられていたものだったが、ムッソリーニの息子、ヴィットリオとブルーノの指示によって、アストゥーラに移植されたのだという。そして彼らはこの車でレースにも出場したそうだが、結果は残していない。80年代にピーター・カウスのもとに来て、赤に塗り替えられたが、現在は元の色である淡いグリーンに戻された。現在のオーナーの元で、2016年にはヴィラ・デステのコンコルソ・デ・レガンツァにおいて、コッパ・ドーロ賞を受賞している。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh