
2025年末に突如リリースされた2枚組の大作「This Is My Way to Tell You That Everything Is Real and Happening Right Now」でデビューした新人Daguerreotypes(ダゲレオタイプス)。SNSでそのアルバムを紹介すると、いきなり本人から日本語のメールが届いた。
インスタのフォロワーは1000人に満たず、ほとんど背景情報もない謎のアーティストは、いざ話してみると、所属レーベルもエージェントも存在しない、孤独な完全インディ音楽家だった。ところがデビューアルバムで聴かせた端正でいてダークなフォークミュージックは、いきなりPitchforkでレビューされ、Bandcamp Dailyでも取り上げられた。ミュージシャンを目指しながらも長年誰にも顧みられることのなかった苦労人の知られざる経歴、音楽的影響、さらにこのご時世における音楽家の役割などを、黒鳥社/Tiger Mountainの若林恵が訊いた本邦初インタビュー記事。記事の最後にはリスニングイベント+オンラインライブの案内も。
2枚組20曲の大作を引っ提げミネアポリスの秘宝がアルバムデビュー。James Samimi Farrの鮮烈にして奇怪なビジョンを封じ込めた驚きのバロックフォーク。時代を画する異才の登場か。まずは必聴。#blkswnjukebox
【#1979】Daguerreotypes - This Is My Way to Tell You That Everything Is Real and… pic.twitter.com/LmAuKjztht — 黒鳥社 / blkswn (@blkswn_tokyo) January 26, 2026
─デビューアルバム「This Is My Way to Tell You That Everything Is Real and Happening Right Now」が昨年末にリリースされ、これまで完全に無名だったインディアーティストだったのがにわかに注目を集める存在となりましたが、いまはどんな活動に勤しんでいますか?
Daguerreotypes:今回のアルバムがリリースされる前から、すでに次のアルバムを制作していまして、実はもうかなり進んでいます。デビュー作が注目を集めると、多くのミュージシャンは次を急いでつくらなければならないというプレッシャーを感じるものだと思いますが、わたしの場合は少し違っています。というのも、デビューするまでの15年から20年ほど、誰にも注目されない時期があったからです。その間に、自分自身のために、自分の興味のために曲を書くという習慣を身につけました。ですから、すでにかなりのストックがあります。
─次作はどんな内容になりそうですか?
D:今作と比べると、もう少し外の世界に目を向けています。今作はとても内向きで、わたし自身の人生や家族、アートとの関係をどう理解するかといったことを扱った、言ってみればドメスティックな作品でした。今回はもう少し外の世界を見つめ、分析しようとしています。その意味では、少しアグレッシブなものになっているかもしれません。
─ミネソタのミネアポリスに暮らしているんですよね?
D:そうです。
─ICEの問題など、しばらくアメリカの政治の最大の争点になっていた地域ですが、そうした環境のなかで音楽をつくるのは大変ではないですか? 先日行われたグラミー賞やスーパーボウルのハーフタイムなどを見ても、政治から逃れるのが、ますます困難になりつつありますよね。
D:そのことには、わたしもある程度同意します。音楽が政治的なものである、ということはたしかにそうなのですが、それは多くの人が想像するようなかたちでの政治性とは少し違うものだと感じます。音楽は、政治の言語とは異なるそれ自体の言語や論理があって、その範囲において政治的なものなのだと思います。加えて、グラミー賞やスーパーボウルのようなプラットフォームが、本当に社会変革を生み出せるものなのかという点についても懐疑的です。どちらも根本的にはスペクタクル(見せ物)で、真の社会変革を生み出す力をそこに期待するのは難しいのではないかと感じます。
─音楽が社会変革の原動力になるとすれば、どのようなモデルが考えられるのでしょう。歴史的な例で、インスピレーションを受けたものはありますか?
D:音楽は社会運動に寄り添う美しい伴奏になり得ると思いますし、人の心を鼓舞する力もあります。たとえば、アメリカ公民権運動から生まれたSweet Honey in the Rockのリーダー、Dr. Bernice Johnson Reagonの音楽は本当に素晴らしいものです。ただ、最近は、音楽が政治の文脈において人を本当に変えられるのかについては両義的な気持ちがあります。音楽の影響は、もっと個人的で、精神的なものです。それは、人の心を動かし、共同体の一員だと感じさせます。そのこと自体が大きな意味を持つのだと思いますが、それが政策や政府の考えを変えることができるのかといえば、そこまで言えるかどうかはわかりません。それができると証明されるのなら喜んで考えを改めますが。音楽と政治は対話関係にありますし、プロテストソングにもインスピレーションを受けます。ただ、現代のプラットフォームはすでにさまざまな利害に絡め取られていて、純粋なメッセージを伝えること自体が難しくなっているのではないでしょうか。
─音楽は本来的には、現世的な政治の時間とは別の時間軸に属しているものだと思ったりもします。
D:そうですね。音楽は時間と切り離せないアートフォームです。曲を聴くと、時間が伸びたり歪んだりする。旅から帰ったとき、日常の景色が少し違って見えることがありますよね。音楽もそれと似ています。世界を再文脈化してくれる。そのことが強い政治的含意をもつかもしれませんが、行為そのものは党派的なものではありません。
フォロワー700人の音楽家がPitchforkを動かすまで
─音楽を始めたきっかけについて教えてください。
D:わたしはカナダのケベック州、チェルシーという人口約6000人の農業の町で育ちました。1885年に建てられた家は、冬になると息が白く見えるほど寒い家でした。小さな家で、姉と兄とわたしは同じ部屋で床にマットレスを敷いて寝ていました。最初の音楽の記憶は、母が寝る前に歌ってくれた歌です。1日の出来事を話し、祈りを捧げ、母が歌う。その時間は、音楽が母の愛と深く結びついた、滋養に満ちたものでした。父はプロではありませんが、フィンガースタイルのギターを弾いていました。ミシシッピ・ジョン・ハートやサン・ハウス、レヴァランド・ゲイリー・デイヴィスなどの古いブルースが家に流れていました。
─子どもの頃から、ミュージシャンになることを夢見ていたのですか?
D:はい、それが夢でした。10歳でギターを始め、その後フラメンコギターのレッスンも数年受けました。高校時代にはバンドを組み、曲も書いていました。正直に言えば、あまり上手なバンドではなかったのですが、他のメンバーと一緒に音楽を作るという体験はとても刺激的でした。
─その後はどうなったのですか?
D:大学進学でモントリオールに移り、そこでライブを重ねました。ある程度はうまくいきましたが、強い関心を集めるには至りませんでした。それ自体悔しいことでしたが、それ以上に悔しかったのは、自分の音楽がまだその関心に値していないと感じたことです。
アーティストとしての才能が成熟するまでには時間がかかりました。曲を書いて「これは自分にしか書けない」と感じることができたのは25歳の頃でした。誰かの模倣ではなく、初めて自分自身の声を見つけたと感じられたことが大きな転機になりました。
それでも、持続的にツアーできるほどの関心は得られず、レーベルから声がかかることもありませんでした。その頃、妻と出会い、家庭をもつことがわたしにとって大切なことでしたので、音楽を最優先にすることができませんでした。家族を支える父親であり、良き夫でありたいと思って定職に就きました。曲作りはやめませんでしたが、「それに興味を持つのは自分だけでいい」と受け入れなければなりませんでした。芸術は本来、受け手がいて完成するものだと思います。わたしは自分のためだけに書くのではなく、誰かとつながりたいと思って書いています。でも、それがいつも叶うわけではない。だから状況を受け入れるしかありませんでした。
─今作のレコーディングに至ったのはどういう経緯からですか?
D:以前のバンドでベースを弾いていた友人が再び一緒にやろうと声をかけてくれ、彼の家族が所有する小屋で、小さな即席スタジオをつくりレコーディングを始めました。つくりかけの物置のような場所で、工具が散らかっているなかにTascamとマイクを並べ、毎日録音を重ね、合間に川で泳ぎ、彼の家族が食事をつくってくれました。2日目か3日目には、何か特別なものが生まれていると感じました。これまで聴いてきたどの音楽とも違うという手応えがあり、もしかすると、これには聴き手がいるのではないかと思えたんです。その後ミネアポリスに戻り、2年間かけて録音を磨き上げました。アレンジを重ね、不足している楽器を追加し、遠隔で録音も行いました。プロデューサーのCharles Jamesが音を加え、アルバムの音響世界を形づくっていきました。
─完成したあとはどうしたんですか?
D:思い切って音源を色んな人に送りつけました。ミュージシャンやメディア関係者のメールアドレスをリストにし、型破りなメールを書いて送りました。Pitchforkにレビュー枠をもっているJayson Greeneに送ったメールは、「長いあいだ無名でいると、洞窟の中のサンショウウオのように目を失ってしまう」という一文で始まるものでした。彼は「これまで受け取った中で最高のピッチだ」と返信してくれ、追って「Pitchforkがレビューを掲載してくれることになった」と連絡が来たのです。本当に信じられませんでした。当時のわたしのInstagramのフォロワーは700人ほどでしたから。
─いまは何人ですか?
D:850人くらいです(笑)。それでも本作は、PitchforkやBandcamp Daily、さらにNPR All Songs Consideredの創設者のBob Boilenがラジオで取り上げてくれました。フランスやスペインからもメールが届き、ゆっくりと草の根的に広がっています。
─ミネソタに移ったのは結婚がきっかけですか?
D:はい。義父がパーキンソン病を患っており、パンデミック中に第一子が生まれた頃、彼の容体が良くないと聞きました。当時わたしはカナダで学位取得中でしたがミネソタへ移る必要があり、すべてを手放して移住しました。
─奥さまはアメリカ出身なんですか?
D:はい。彼女の母親はイラン出身で、父親はここミネソタの人です。妻自身はアラスカで育ちました。父が向こうでラジオ番組をやっていたんです。
─へえ。
D:アラスカの公共ラジオで働いていて、地方のエリアに放送局を立ち上げたりしていました。すごく面白い仕事ですよね。妻はずっと旅をしているような人生で、子どもの頃はイスラエルのハイファで過ごした時期もありますし、他にもいろいろな場所に行っています。

─ジェームズさんは大学卒業後は、いわゆるデイジョブ(本業)を持っていたんですね。
D:そうですね。卒業してすぐは、音楽をもう少し真剣にやりたくてトロントに移ったのですが、やはり大きな反応はなく、最初はカフェで数か月働きました。その次に、古書店で働きました。稀覯書や地図のカタログ作りを手伝う仕事です。
─いいですね。
D:最高でした。一日中音楽を聴きながら、美しいものを眺められる仕事で。それからはライター兼エディターとして働くようになり、それがずっと主な収入源になっています。
─出版社で?
D:いまはマーケティング・エージェンシーで働いています。
─その仕事は好きですか?
D:好きですよ。仲間も素晴らしいですし、書くことそのものが好きなので、きちんと書けたときは純粋に楽しい。しかも音楽のエネルギーを奪わない仕事なので、家に帰ってから音楽に向き合えますし、何より、妻が子どもたちと家にいられるだけの生活を支えられる。それはわたしたちにとって何よりも重要なんです。
音楽を「簡単すぎるもの」にしたくない
─影響を受けた音楽について以前お伺いしたところ、ディアマンダ・ギャラス(Diamanda Galás)やマーク・ホリスといった名前を挙げていました。意外な名前だなと思ったんですが、どういう経緯でそれらと出会ったんですか?
D:高校時代のわたしが特別に良い音楽を聴いていたかというと、そうでもなくて、なんでも聴いていました。当時はベン・ハーパーやジャック・ジョンソンをよく聴いていて、いま振り返ると、その時期には必要な音楽でした。
ケベックにはCEGEPという高校と大学の間の教育制度があって、2年くらいの「プレカレッジ」的な期間があるのですが、そこでわたしはリベラルアーツのプログラムに参加し、『イリアス』や『オデュッセイア』のような古典文学をたくさん読みました。そのときの先生がモントリオールの〈Constellation Records〉の所属アーティストで、彼が、ディアマンダ・ギャラスのライブ盤『Malediction and Prayer』、マーク・ホリスのセルフタイトル作『マーク・ホリス』、ボニー・”プリンス”・ビリーの『I See a Darkness』、それからティム・バックリィのライブ盤などを教えてくれたんです。
先生は、当時わたしが音楽でやろうとしていたことを感じ取っていて、「いまの聴き方のままだと、行きたい場所には届かない」と思ったのだと思います。加えて、ギターのレッスンを受けていたプレティーンの頃、フラメンコもよく聴いていましたが、これが、音楽を違う角度から捉えるきっかけになりました。歌い方もリズム感も、西洋的な伝統とはまったく違っていましたので、そういうものが全部つながって、音楽への好奇心が育っていったんだと思います。
─とはいえ、ディアマンダ・ギャラスはだいぶ意外です。
D:ディアマンダ・ギャラスのライブ盤に、B.B.キングの「The Thrill Is Gone」のカバーがあるのですが、彼女のバージョンは曲の冒頭が、拷問のような叫び声に近い声と、不穏なピアノから始まります。本能的に拒絶したくなる音ですが最初の拒絶反応を押し殺して、音の中にさらに深く入っていくと、音の体験には、慣習的な心地よさだけには収まらない幅があることに気づかされます。そこから、彼女の音楽の才能を聴き取ることができるようになったんです。すべてが意図をもっていて、緻密で、技術も驚くほど高い。万人向けではないかもしれませんが、意図と技術に裏打ちされたアートであることは間違いないです。
─マーク・ホリスには、どういう点で影響を受けましたか?
D:マーク・ホリスの唯一のソロ作は沈黙で始まり、沈黙で終わります。最初のピアノが鳴り始めるまで、部屋の音が鳴っています。最後も同じで、曲が終わったあともしばらく、部屋の音だけが残ります。マークは生前に「1音目を弾けるようになるまで2音を弾くな。必要がないなら1音すら弾くな」といった言葉を残したとされています。そうした強い意図が、後期のトーク・トークやソロ作に漲っています。わたしの音楽の作り方はもっと雑多で、混沌としていますが、彼には規律があり、制御があり、1音だけでも曲にしてしまうような勇気があります。彼は、音楽的な誠実さの北極星だと思います。90年代後半の作品ですが、何年経っても似たようなものに出会ったことがありません。
─20代前半で悩んでいた頃、どんな音楽を作りたいと思っていましたか?フォークのようなもの?
D:大学時代は、フォーク・ポップのようなものを作りたかったんです。ところが、トロントに移ってから、状況が変わりました。トロントには素晴らしいソングライター・シーンがあって、フォーク・ポップ的な作曲に興味がある人たちが、同時にジャズ的な訓練や感覚ももっていました。伝統的なソングライティングへの愛と、高度な演奏技術が不思議に結びついているんです。Sandro Perri、Ryan Driver、The Weather Stationといったアーティストたちに共通していたのは、まず演奏技術が高いこと、そして歌詞がとてもユニークなことです。哲学的で、さまざまな問題を扱っていました。そのことがわたしのソングライティングの姿勢も変えましたし、「こう書いていいんだ」と解放してくれました。
─今作は、冒頭でギターのチューニングを下げるところから始まりますよね。とても美しいアルバムではありますが、端々にちょっと不穏というか、ゴシック的な雰囲気もあります。
D:アルバムに度々登場するダークな要素は、わたしが聴いてきた音楽の影響もありますし、聴き手にとって「簡単すぎるもの」にしたくない、という気持ちもあります。わたし自身、聴くときに「少し格闘が必要だ」と感じる瞬間こそ、アーティストから愛されていると思えるんです。相手がこちらにも半分歩み寄る努力を求めてくれたとき、こちらの知性を尊重してくれていると感じるんです。逆に、最初から最後までただ快いものだけが与えられると、ある種の「敬意の欠如」を感じてしまいます。ちなみに「I Saw the Thrush」という曲に関して言えば、スコット・ウォーカーのことを念頭に置いていました。「Tilt」や「The Drift」といった作品にあるような感覚です。
バハイ教の信仰と「第三の空間」
─ジャケットのイメージを見て、すごく不安定そうな人のような印象を受けたのですが、こうやってお話ししていると、とても社交性があって、それがある意味意外でもあったのですが、実際には不安定な側面はあるのですか?
D:あると思います。そもそも、いまの時代は、人間でいること自体が難しいじゃないですか。人間関係も、何もかもが難しい。いまは移行期のような時代で、誰もが”何かになりつつある”時代だと思うんです。加えて、日々の生活は責任だらけです。仕事を維持し、子どもたちの面倒を見て、妻を支え、義父のことも気にかけて、雪かきをして、家の修理もしてと。ただそこで、不安定になってしまい、苦しさに沈み込んだら、頼ってくれている人たちを裏切ってしまう。であればこそ、崩れられない代わりに、アートの中に、完全に感情を背負える場所をつくる必要があります。わたしにとってアートは、暗さや奇妙さ、場合によっては反社会的なところも含めて、自分の全部を置いておける自由な場所なんです。人が普段押し込めている部分が音楽や作品と接続して、少しだけ孤独ではなくなる。わたしにとってアートは、そういう場所であってほしいと思っています。
─いまのお話しをお伺いすると、かなり強い「責任」の感覚をおもちのように思えますが、それはご両親の影響ですか?
D:両親からの影響は大きいですし、特に母はとても強いスピリチュアリティを持っています。それはわたしにとっても人生の大きな部分です。根本的な感覚として、わたしは「人生は個人よりも大きい」と感じています。わたしたちは共同体の中で生きていて、個人は、それを構成する細胞みたいなものです。だから他者に対して責任を感じます。彼らはわたしでもあり、わたしは彼らでもある、という感覚があるんです。
─それはキリスト教的な価値観から出たものですが?
D:いえ、わたしはキリスト教徒ではありません。バハイ教徒(Bahai)です。19世紀のイランで生まれた宗教で、人類の一体性を教えています。
─バハイ、ですか。
D:はい。母が18歳のときにその信仰に出会って、わたしもその中で育ちました。音楽に関する記事や反応でも、わたしの作品に「霊性」や「神」に関わる何かを感じ取る人がいるようですが、キリスト教っぽくは聞こえないので、「これは何なんだ?」となるみたいで、それも面白いですね。
─イランに行かれたことはありますか?
D:いいえ。バハイの人間がイランに行くのは難しいんです。バハイはイランでは宗教として認められていません。コミュニティに対する迫害もかなり深刻です。妻の祖父はバハイ教徒だったという理由で、実際にイランで処刑されています。
─なんと。ミネソタはリベラリズムが強い地域だと聞きますが、そのなかで、どんな立場になるのでしょう?
D:そもそも、自分は党派的な意味で政治に強くコミットするタイプではなく、特定の政党に属してもいません。正直、党派政治がさまざまな問題を解決できるということに、あまり信頼を置いていないんです。むしろ、わたしの関心と優先順位は、草の根のコミュニティづくりにあります。近所の人たちが集まって、自分たちの住むブロックでどんな暮らしをしたいのか話し合う。そういう場には、とても大きな力があると思っています。連邦政治について議論するよりも、目の前のブロックで起きることなら、ある程度は自分たちでコントロールできます。

─最後に、アーティスト名について聞かせてください。
D:ダゲレオタイプ(銀板写真)は、商業的に初めて普及した写真の方式です。銀のプレートのようなものに像を定着させるんですが、角度をつけないと見えない。そうしないとただの反射に見えるんです。
わたしがこの名前を大事にしている理由はいくつかあります。まず、「反射でもあり、像でもあるもの」を見る、という感覚が好きなんです。それはある意味、自分の制作プロセスにも似ています。それから、そもそも仮名をもつということ自体が美しいと感じています。James Samimi Farrと、本名で作品を出してもよかったのですが、それだと何か危うい感じがしたんです。自分の本名で公の場に出ると、作品が攻撃されても、無視されても、愛されても、それが直に自分自身と結びついてしまう。でも別の名前にしておけば、音楽の背後にいる人間としての自分を少しは守れるし、聴き手もまた、「James Samimi Farrという人間」から距離を取ることができます。つまり「Daguerreotypes」という第三の空間で出会うことができるんです。
─なるほど。とはいえ、本名も実に印象的です。どこ由来のものなのか、すぐには判断できない。とくに”Samimi”は中東の名前のように聞こえます。
D:そうですね。生まれたときのファミリーネームはFarrで、ただのJames Farrでした。結婚したとき、妻の姓のひとつがSamimiで、それはわたしが先ほど話した、イランで殉教した妻の祖父の姓なんです。子どもたちにもその名前を残したくて、自分もその姓を名乗ることにしたんです。

Daguerreotypesデビュー記念
リスニング+オンラインライブ
2枚組のデビュー作「This Is My Way to Tell You That Everything Is Real and Happening Right Now」のリリースを記念して大音量で本作を聴くリスニングイベントに、本人James Samimi Farrがオンラインで参加。質疑応答に加え、自身が暮らすミネアポリスの自宅から、特別に弾き語り演奏数曲をライブで披露。注目のアーティストの本邦初イベントを東京・虎ノ門の黒鳥福祉センターから特別にお届けします。
日時:2026年3月28日土曜日 13時開催(15時終了予定)
場所:黒鳥福祉センター(港区虎ノ門3-7-5 地下1階)
*オンラインでの配信は行いません
参加費:2000円
申し込み:https://daguerreotypes-20260328.peatix.com/event/4927377/view