
マセラティ450Sは、ティーポ54の名で1954年から開発が始まり、1956年から1958年にかけて、11台が製作されたオープン2シーターのレーシングマシンである。この車が登場する以前にワークスマシンとして活躍した350Sのシャシーを基本とし、複数が350Sのシャシーを使って製作されていることから、正式な生産台数にはそれを記述したものによってばらつきがあるものの、わかっているシャシーナンバーは11台存在し、すべての車が今も現存している。
【画像】唯一無二の存在!マセラティ450Sコスティン・ザガート・クーペ(写真9点)
オープン2シーターボディのデザインは、メダルド・ファントゥッツィによるもので、彼の工房からはこの時代の一連のマセラティ、300S、350S、そして200Sなども生み出されており、それゆえこれらのマシンのデザインは、強い近似性が感じられるものである。ちなみにファントゥッツィが興したカロッツエリアは、デザインのみならず制作も行い、ピニンファリーナ・デザインのワンオフ・フェラーリ330や、ピート・ブロックデザインのデトマソ5000(日本ではタミヤ模型がキングコブラとして発売したスロットカーとして知られる)など、多くの制作も手掛け、その工房は今も存在するという。
450の名は、そのエンジン開発から始まった。もっとも参戦を予定したスポーツカーレースにおいて、1955年のル・マン24時間における大惨事の影響でいったんはその開発が中止されるのだが、インディ500用のエンジンとして再び開発が始まる。結局インディにこのエンジンのマシンが参戦することはなかったのだが、マセラティは戦前に2度、ヨーロッパのレーシング・エンジンとして唯一インディ500優勝経験を持ったメーカーであった。
そんな450用のエンジンは90度V8、4カムシャフトで、開発を主導したのはグイド・タデウッチ(Guido Taddeucci)というエンジニアである。後にマセラティ5000等も手掛けた社内エンジニアだ。450用のエンジンは当時400psを発揮していたといわれ、50年代のレーシング・エンジンとしては最強の一つであった。
さて、ロッソビアンコ博物館に所蔵されていた450Sコスティン・ザガート・クーペであるが、シャシーナンバーが最終的に4512と打刻されたモデルであり、このボディが架装されたモデルはこの1台だけ。すなわちワンオフである。その成り立ちに関しては諸説あるようで、元々テストカーとして誕生した3501というシャシーナンバーのモデルが、後に4501と再打刻され、さらに4512とされたという説と、4501として誕生し、それがボディを載せ替えた段階で4512となったとされる説がある。
ただ、4501というシャシーナンバーのモデルが、1957年のブエノスアイレスにおける1000kmレースに出場し、結果は伴わなかったものの、スターリング・モスとファン・マニュエル・ファンジォのドライブでポテンシャルを見せつけたことは確かである。この車はそのままファクトリーに戻され、ル・マン24時間に向けた大改造に取り掛かる。そしてフランク・コスティン・デザインの独特なスタイルを持つボディを、カロッツエリア・ザガートが架装してル・マンに出場することになるのだ。クーペボディを纏った背景は、もちろん空力特性を向上させて、長いストレートに対処することだったのだが、現実的にはクーペボディの方がストレートではロードスターよりも遅かったという。
ル・マンでもドライブしたのはスターリング・モスであった。コンビにハリー・シェルを迎えてのレースだったが、スタートから5時間後にアクスルを壊してリタイアしている。その後この車は再びファクトリーのスクラップヤードに戻り、その年の終わり、マセラティがスポーツカーレースからの撤退を表明したことで、車両は売却されることになった。
この唯一無二のコスティン・ザガート・クーペに目を付けたのは、アメリカ人エンスージアストのバイロン・スターバー(Byron Staver)だった。彼はこのレーシングマシンをロードカーにコンバート。その際、インテリアスペースを確保することと、エンジンの熱を遮断する目的で断熱材を入れることで、ホイールベースを20cmほど延長(25cmという説もある)し、同時に豪華な内装と、分割されていたウィンドスクリーンをシングルとし、さらにステアリング位置を右から左に移すなどの大胆な補修を行った。
それが現在の姿であるが、現在は外装色がブラックとなっている。それはロッソビアンコのピーター・カウス以後、アルフレッド・ブレナー(Alfredo・Brener) が購入して再びアメリカに戻った際に、再塗装されたものである。
文:中村孝仁 写真:T. Etoh