落札価格、81億円。かつてファンジオとモスがドライブした「伝説のシルバーアロー」メルセデス・ベンツW196R【前編】

5115万5000ユーロ(邦貨換算81億円)。かつてファンジオとモスがドライブしたメルセデス・ベンツW196Rストリームライナーの落札価格だ。本誌、グレン・ワディントンは2025年2月に開催されたオークションの前にシュトゥットガルトを訪ね、この偉大なグランプリマシンのヒストリー検証の作業を垣間見た。

【画像】これは間違いなく、タイヤを履いた重要な歴史遺産。メルセデスの歴史に名を残す、W196Rを間近で見る機会に恵まれた(写真8点)

白い手袋をはめたスタッフが貴重な資料を差し出す。いつもなら、こちらから求めなければ見せてもらえない。私たちは、シュトゥットガルト地方のフェルバッハにあるメルセデス・ベンツ・クラシックセンターのワークショップにいる。ここから10分のウンターテュルクハイムにあるメルセデス・ベンツ・ミュージアムで、間もなく重要なときを迎える1台を見にきたのだ。それも、ただの車ではない。

00009/54のレーシングヒストリー

部屋の隅のスロープに載っているのは、1954年W196Rシュトロムリニエンレンヴァーゲン(ドイツ語で”流線形のレーシングカー”の意)、シャシーナンバー00009/54だ。

フアン・マニュエル・ファンジオとスターリング・モスの二人がレースで使用したという点で唯一無二のマシンであり、ストリームラインボディのW196Rで初めて個人所有が可能になるという点でも、ほかに例がない。このW196Rは、1965年からアメリカのインディアナポリス・モータースピードウェイ(IMS)・ミュージアムに収蔵されていた。メルセデス・ベンツの天才エンジニア、かのルドルフ・ウーレンハウトの指示で同館に寄贈されたのである。1915年インディ500でラルフ・デパルマがメルセデス115hpで優勝してから50周年となるのを記念してのことだった。

メルセデス・ベンツ・ヘリテージ責任者のマルクス・ブライトシュヴァルトが、次のように説明してくれた。「真正性を検証してメーカーの報告書を用意してほしいという依頼がクラシックセンターにありました。そこで、センターの専門家が当社のアーカイブで調査を行い、当時の書類や写真と当該車両を比較しました。加えて、様々な調査手法を駆使して、個々のコンポーネントも分析しました。こうして、キーポイントに関する情報を集め、何より、このレーシングカーのシャシーがオリジナルのものだという確証を得ました」

つまり、これは間違いなく、タイヤを履いた重要な歴史遺産なのだ。4本のタイヤがむき出しではないのは、このマシンがモンツァで行われた1955年イタリアGPの仕様を留めているためだ。シーズン最終戦で、W196Rのシャシーにファクトリー製ストリームラインボディを架装したことが知られている、4台のうちの1台なのである。だが、その姿で生まれたわけではない。

メルセデス・ベンツはW196Rを引っさげて、1954年に最高峰のレースに復帰し、その年のフランスGPに流線形のマシンを3台送り込んだ。このシャシーナンバー00009/54は、1954年末に完成し、1955年1月30日のフォーミュラ・リブレ・ブエノスアイレスGPに出走した。注目すべきは、そのときはオープンホイールボディだった点だ。タイトなサーキットでは、トップスピードを犠牲にしても、マシンの端まで見えるボディのほうが有利だとメルセデス・ベンツは判断したのである。

ワークショップには、比較のためにオープンホイールの1台も置かれていた。ボディを外され、エンジンは分解された状態だ。これは1955年のスパで優勝したマシンで、ずっとメルセデス・ベンツが所有してきた。こちらはあとでよく見ることにしよう。そうすればストリームライナーのボディワークで隠れている秘密の一部が分かる。とはいえ、目移りしそうでたいへんだ。何しろすぐ向こうには、黎明期の巨大なレーシングカー、メルセデス・シンプレックスが2台あるし、カール・ヴェンドリンガーとクラウス・ルートヴィッヒがドライブしたグループCカーも並んでいる。ここはそういう特別なワークショップなのである。

白い手袋で資料を差し出したのは、クリスチャン・ビーダーシュタットだ。私は昨年初めに彼と会っていた。近隣の滅多に入れないメルセデス・ベンツ・クラシックのアーカイブで、1924年メルセデス2リッター・タルガフローリオの過去の記録を見せてもらったのだ。その話はまた別の機会に譲る。ビーダーシュタットはこう語った。

「これまでになく深く掘り下げた調査を行いました。まさにアーカイブを横断する旅でしたよ。過去の図面から、ファクトリーとドライバーとのやり取りに至るまで、このマシンと関連のあるすべての書類を探し出したのです。おかげでたくさんの神話を確認できました」

もちろん、彼のいう”ドライバー”も、ただ者ではない。W196Rが1954年にフランスでレースデビューを飾ったときは、フアン・マニュエル・ファンジオが1位、カール・クリンクが2位、ハンス・ヘルマンが7位でフィニッシュし、ヘルマンがファステストラップを記録。この年、ファンジオは F1チャンピオンに輝いた。翌年、ファンジオはこのW196Rをドライブした。オープンホイールの3リッターエンジンという仕様でデビューした1955年のブエノスアイレスで、ポールポジションを獲得。決勝は2ヒートとも2位で、総合優勝を成し遂げたのである。

1955年シーズンに向けて、メルセデス・ベンツはW196Rに新しいインテーク・マニフォールドを装着し(このためボンネットの片側に寄った特徴的な吸気口が必要になった)、出力を引き上げて、車重も70kg削った。チームを率いるアルフレート・ノイバウアーは、スターリング・モスもチームに引き入れた。いうまでもなく、これはモスがミッレミリアでW196S 300SLRを駆り、歴史的な勝利を挙げた年だ。モスはこのシャシーナンバー00009/54もドライブした。

それは、ストリームライナーのボディワークと2.5リッターのF1エンジンを装備して、モンツァでのイタリアGPに出走したときだった。ファンジオが同様のマシンでポールを獲得し、モスはその隣のグリッドに付くと、決勝でリードを奪ったが、メカニカルトラブルのため7番手を走行中にリタイアした。それでも、モスはこのマシンでファステストラップを記録した。2分46秒9、平均速度215.7km/hだ。こうして、ファンジオが2度目のF1タイトルを2年連続でつかみ、モスが年間2位でシーズンは幕を閉じた。この2シーズンで、W196Rは12レース中9勝を挙げた。W196Rのうち、ファンジオとモスの二人がドライブしたのは00009/54だけだ。最強を誇った時代を代表する1台であることはいうまでもない。

ビーダーシュタットはこう話す。「私たちの元には、最後にモスが出走したときと同じ仕様だと裏付ける書類があります。もうひとつのボディがどうなったのかは不明ですが、いつか見つかる日が来ないとも限りません。70年近く前の車ですし、アーカイブは膨大なので、すべてを整理するのは不可能なのです。車両やレース、ドライバーごとに調べることはできます。すべての出来事について証拠が残っていますから、何かの反証なら容易に見つかります。オリジナルの図面から全体像を把握すれば、現在もあらゆる点でかつての仕様どおりであることが分かるのです」

『ブウルタイルンク(評価日誌)』と表題の付いた書類がある。そこには、エンジンナンバーやシャシーナンバー、ボディナンバーなどが詳細に記録されている。燃料タンクやエンジンのスペックもある。ブエノスアイレスでのフォーミュラ・リブレ・レースでは300SLRと同じ3リッターを搭載し、のちに2.5リッターのF1仕様に換装した記録が残っている。

「1955年のモンツァでモスがエンジントラブルでリタイアしたあと、同種の別のエンジンが搭載されて、1965年にインディアナポリスでデモンストレーション目的の走行を行いました」とビーダーシュタットは語る。

ほかにも、出走したレースや最終順位、その際の走行距離までもが記録されている。また、『キャラクテリスティク・ヴァーゲン(車両の特徴)』という2組の書類には、「ラートシュタント(ホイールベース)2350」、「カロセリー・シュトロムリニエ(ストリームラインボディワーク)」とあり、燃料タンクが50リッターであることも記されている。ひとつは手書きで、ひとつはタイプされているが、細かい点まですべてタイプされたわけではなかった。

「手書きの書類のほうが詳細で、エンジニアがコンプレッションテストをした日付や、その日の天候まで書き込まれています。天候で左右されたからです」とビーダーシュタットは説明する。「作業が始まった状況や、製造時の仕様、どういったレースをし、なぜリタイアしたかが記録されています。そのあと1965年2月5日付けの書類で、インディアナポリスに1 台寄贈することと、どのマシンを寄贈するかについて、ウーレンハウトから指示がありました。さらに、ナンバー9が向こうに到着したらデモ走行ができるように、エッソの特殊なレース用燃料を4月30日に発注した書類まで残っています」

組立作業の日誌もあり、何をいつ修理、交換したか、すべて克明に記録されている。各レース、すべての人名、すべてのタイムを記したプレスリリースや社内の通信記録もある。

「内部から見た公式の見解が、誇りを胸に率直に伝えられています」とビーダーシュタット。「これほど継続的に記録が残っている点でも、上層部から常に重要視されていた点でもユニークです」

エンジニアのティム・ブリラとティム・シェールは、クラウス・バレと共にこのマシンを詳細に検査している。ブリラがオープンホイールについて説明してくれた。「これは去年、グッドウッドを走りました。今はここでエンジンの整備をしています」内部はおそろしく込み入っている。フロントミドに搭載するエンジンに、巨大なインボード式ドラムブレーキ(「シューの交換に3日かかります」とティム・シェール)、鍛造のサスペンションアームや、リアのスウィングアクスル用の縦置きトーションバーも見える。「今なら、こうした高品質のパーツを造るのも容易になりましたが、当時は違いました。コンピューター制御の工作機械などありませんからね」

00009/54は、美しく古艶を帯びている。1965年の寄贈に先立ってファクトリーでリフレッシュして以降、いずれかの時点に再塗装を受けた以外は、ほとんど手が付けられていない。残念ながら、エンジン音を聞くことは不可能だ。

「最後に走行してから時間が経ちすぎています。エンジンはマグネシウム製ですが、フルード類なしで保管されてきました。そのまま放置されると錆びてしまうのです。シャシーが走行できる状態になったら、リビルドが必要になるでしょう」とブリラは話す。

・・・後編に続く

編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵

Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation:Megumi KINOSHITA

Words:Glen Waddington Photography:Mercedes-Benz Heritage

THANKS TO Andrew Noakes, author of Silver Arrows: The Story of Mercedes in Motor Sport, published by Crowood Press.