コンバートで覚醒!捕手から転向してブレイクした名選手6人。才能を開花さ…

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 プロ野球の世界では、コンバートによって飛躍した例がある。その中でも捕手から内野手・外野手に転向し、打撃に専念したことでブレイクしたケースも多い。2022年に三冠王を獲得した村上宗隆も、高校時代は強打の捕手として名を馳せていた。ここでは、プロ入り後に捕手から転向してブレイクした選手を紹介する。(文・シモ)

小笠原道大

投打:右投左打

身長/体重:178cm/84kg

生年月日:1973年10月25日

経歴:暁星国際高 - NTT関東

ドラフト:1996年ドラフト3位

 

 「ガッツ」の愛称で知られる小笠原道大は、捕手から転向して活躍した選手だ。

 

 小笠原は、1996年ドラフト3位で日本ハムファイターズ(現:北海道日本ハムファイターズ)に入団。

 

 

 1998年に内野手から捕手登録に変更すると、同年は主に代打として71試合に出場し、打率.302の成績を残す。翌1999年に一塁手へ転向すると、同年は135試合の出場で打率.285、25本塁打、83打点とブレイクを果たした。

 

 2002年には打率.340、翌2003年には.360をマークし、2年連続で首位打者を獲得。2006年には135試合の出場で打率.313、32本塁打、100打点の成績を残し、打撃2冠(本塁打王・打点王)に輝いた。

 

 同年オフにはFAで読売ジャイアンツに入団するが、パ・リーグからセ・リーグへと舞台を移しても、小笠原の勢いは止まらなかった。

 

 移籍1年目に142試合の出場で31本塁打を放つと、4年間で計132本塁打を記録。2011年には、史上38人目の2000本安打を達成している。

 

 そして、最後の働き場所として選んだ中日ドラゴンズでも結果を残し、2015年限りで現役を引退。プロ通算19年間で打率.310、2120安打、385本塁打、1169打点は立派な数字である。

 

 大きな構えから繰り出されるスピード感あるフルスイングは、今でも脳裏に焼き付いて離れない。

衣笠祥雄

投打:右投右打

身長/体重:175cm/73kg

生年月日:1947年1月18日

経歴:平安高

 

 「鉄人」の愛称で親しまれ、プロ野球最多の2215試合連続出場記録を持つ衣笠祥雄も、捕手としてプロ入りした選手だ。

 

 衣笠は、平安高(現:龍谷大平安高)の強肩・強打の「4番・捕手」として1964年春夏の甲子園大会に出場。その後、1965年に広島カープ(現:広島東洋カープ)へ捕手として入団した。

 

 

 プロ入り後は6試合で先発マスクを被るも、当時の白石勝巳監督のもとで一塁手に転向。プロ4年目の1968年には一軍に定着し、127試合の出場で21本塁打を記録した。

 

 プロ8年目の1972年には、130試合の出場で29本塁打、99打点の成績を残してリーグを代表する打者に成長した。1984年には37歳で102打点をあげ、打点王のタイトルを獲得している。

 

 特筆すべきは、1977年の30歳から1986年の39歳までのホームラン数が平均して20本以上を記録している点だ。現役最終年となった40歳の時にも、130試合の出場で17本塁打を記録した。

 

 守備の方でも、1975年に一塁から三塁にコンバートされてから、3度のゴールデングラブ賞を獲得している。

 

 プロ通算2677試合の出場で打率.270、2543安打、504本塁打、連続フルイニング出場歴代4位(1970年10月19日〜1987年10月22日)と、その成績は今でも燦然と輝き続ける。

和田一浩

投打:右投右打

身長/体重:182cm/90kg

生年月日:1972年6月19日

経歴:県立岐阜商 - 東北福祉大 - 神戸製鋼

ドラフト:1996年ドラフト4位

 

 西武ライオンズ、中日ドラゴンズで活躍した和田一浩も、捕手から外野手に転向した選手だ。

 

 和田は1996年ドラフト4位で西武に入団する。チームの次世代捕手として期待されていたが、当時の西武には絶対的な捕手・伊東勤が君臨していたため、プロ5年目までは、捕手、内野手、外野手、DHなどさまざまなポジションを経験した。

 

 

 次第に持ち前の強打で頭角を現わし、プロ5年目の2001年には82試合に出場し、打率.306(規定未満)、16本塁打、34打点の成績を残した。

 

 プロ6年目に外野手1本に絞ると、その打撃力が開花。同年は115試合の出場で打率.319、33本塁打、81打点の成績を残し、チームの優勝に大きく貢献した。

 

 以降、西武で打率3割以上の成績を4度、移籍した中日でも3度の3割以上を記録。西武時代の2005年には、129試合の出場で打率.322、153安打の成績を残し、首位打者と最多安打を獲得している。

 

 そして、中日時代の最終年2015年には、史上最年長42歳11か月で2000本安打を達成するのである。

 

 プロ通算19年間で、打率.303、2050安打、319本塁打の成績を残した和田。30代以降に1901本の安打を積み重ねて2000本安打を記録したのは、特筆すべきだろう。

山﨑武司

投打:右投右打

身長/体重:182cm/100kg

生年月日:1968年11月7日

経歴:愛工大名電高

ドラフト:1986年ドラフト2位

 

 スラッガーとして活躍した山﨑武司は、捕手として入団した選手だった。

 

 山崎は1987年ドラフト2位で中日ドラゴンズに指名され、捕手として入団した。

 

 

 プロ4年目の秋季キャンプで外野手に転向すると、プロ9年目には66試合の出場で打率.291、16本塁打、39打点の成績を残して頭角を現わす。翌1996年には127試合の出場で39本塁打を放ち、本塁打王を獲得した。

 

 以降、中日の大砲としてレギュラーを張ることになる。しかし、プロ16年目の2002年に26試合出場で打率.192、2本塁打、5打点と極度の不振に陥ると、2003年にはオリックス・ブルーウェーブ(現:バファローズ)にトレードされた。

 

 移籍1年目は、110試合の出場で打率.232、22本塁打、68打点とまずまずの成績を残した。しかし、移籍2年目は62試合の出場にとどまり、同年オフに戦力外通告を受けてしまう。

 

 そんな中、2005年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスに入団したことで、山崎に転機が訪れる。

 

 それが、2006年に楽天の監督に就任した野村克也との出会いである。

 

 野村のもとで山崎は、2007年に38歳で43本塁打、108打点をマークして打撃2冠を獲得。41歳となった2009年には、142試合の出場で打率.246、39本塁打、107打点の成績を残し、チームを2位に押し上げる原動力となった。

 

 2011年オフには古巣・中日に復帰し、2013年に現役引退。山﨑はプロ野球生活25年で403本塁打を放ったが、野村との出会いから引退までの8年間で167本の本塁打を放った。

 

 個人的には、2009年のCS1st 第2戦でホームランを打った際、ベンチの野村と抱き合う姿が忘れられない。

関川浩一

投打:右投左打

身長/体重:178cm/75kg

生年月日:1969年4月1日

経歴:桐蔭学園高 - 駒澤大

ドラフト:1990年ドラフト2位

 

 闘志あふれるプレーが特徴的だった関川浩一は、捕手から外野手1本となり成功した選手である。

 

 1990年ドラフト2位で阪神タイガースに入団。プロ1年目から一軍でマスクを被るも、当時は正捕手の木戸克彦、山田勝彦などが正捕手として出場していたため、捕手としての出場機会は多くなかった。

 

 

 それでも、プロ3年目の1993年には89試合、翌1994年には103試合と出場機会が増えていく。1995年には初の規定打席に到達し、124試合の出場で打率.295、2本塁打、30打点、12盗塁の成績を残した。

 

 プロ7年目には95試合の出場で打率.306(規定未満)、5本塁打、26打点の好成績を残す。一方、同年も捕手のみではなく、外野との併用が続いていた。

 

 そんな中、関川に転機が訪れる。それが、同年オフの中日ドラゴンズとの2対2のトレードである。

 

 広いナゴヤドームを生かした守備を生かすために、新天地では外野手1本で起用された。移籍1年目の1998年には、125試合の出場で打率.285、1本塁打、36打点、15盗塁の好成績をマーク。

 

 そして、翌1999年には135試合の出場で、打率.330、4本塁打、60打点、20盗塁とキャリアハイの成績を残し、中日の優勝に貢献した。

 

 走攻守にわたって気持ちの入った関川のプレーは、阪神時代の鬱憤を晴らすように躍動していた。

飯田哲也

投打:右投右打

身長/体重:173cm/72kg

生年月日:1968年5月18日

経歴:拓大紅陵高

ドラフト:1986年ドラフト4位

 

 捕手から外野手に転向して成功した選手と言えば、ヤクルトスワローズの黄金時代を支えた飯田哲也だろう。

 

 飯田は、1986年ドラフト4位でヤクルトに入団。当時は代走や捕手で数試合出場していたが、プロ4年目には二塁手として起用される。

 

 

 すると、そのままレギュラーに定着し、同年は117試合の出場で打率.279、6本塁打、33打点、29盗塁の成績を残した。

 

 翌1991年には新外国人ジョニー・レイの加入により、今度は中堅にコンバートされるが、この出来事が飯田の才能を開花させる。

 

 同年は打率242、4本塁打、26打点、15盗塁の成績を残すと同時に、守備ではゴールデングラブ賞を獲得したのである。

 

 そして、翌1992年に「1番・中堅」に定着すると、5月からシーズン終了までの間に27連続盗塁を記録するなど躍動し、野村ヤクルトのリーグ優勝に貢献した。

 

 飯田のプレーで印象に残るのは、なんといっても1993年の常勝・西武ライオンズとの日本シリーズ第4戦だろう。

 

 ヤクルトが1-0とリードして迎えた8回表、2死一、二塁の場面。西武ライオンズの鈴木健のセンター前ヒットを素早く返球し、二塁からホームに生還しようした走者(笘篠誠治)を刺したシーンである。

 

 このプレーでヤクルトを日本一に導いたのだが、今でも強烈に印象に残る伝説のバックホームと言えるだろう。

 

 

【了】