
今年の1月で82歳になったヴァン・ダイク・パークス(Van Dyke Parks)が12年ぶりに来日。フェアウェルツアーの成功を祈りつつ、米ローリングストーン誌による1968年の秘蔵インタビューをお届けする。(序文:荒野政寿)
”最後の来日公演”と銘打たれた今回のツアーは、3月26日(水)・27日(木)にビルボードライブ東京、さらに追加公演として4月1日(火)にビルボードライブ横浜、そして4月3日(木)に再びビルボードライブ東京という日程。3月26日・27日の東京公演のみ、スペシャルゲストとしてヴァン・ダイクと度々コラボしてきたイナラ・ジョージ(ザ・バード・アンド・ザ・ビー、リヴィング・シスターズ 他)が出演する。イナラの父が、ヴァン・ダイクがプロデューサーとして関わったリトル・フィートのロウエル・ジョージであることは、今さら言うまでもないだろう。
リトル・フィート「Sailin' Shoes」を歌うヴァン・ダイクとイナラ・ジョージ(2022年)
はっぴいえんど「さよならアメリカさよならニッポン」(1973年)のコラボ相手としてよく知られ、その後も細野晴臣と交流が続くヴァン・ダイクだが、アレンジャー/コンダクター/プロデューサーとして関わった作品が多岐にわたり、熱心なファン以外にはアーティストとしての実態が掴みにくいかもしれない。ビーチ・ボーイズとのコラボから始まり、ランディ・ニューマンやライ・クーダー、ルーファス・ウェインライト、フィオナ・アップル、ジョアンナ・ニューサム、スクリレックスまで手がけてしまう彼は、いったいどんな背景を持つミュージシャンなのか? 彼が世に出るまでの基本的なプロフィールを、今一度おさらいしておこう。
細野晴臣がヴァン・ダイクを語る(11:00頃)
声楽とピアノを学び、ピッツパーグの大学でアーロン・コープランドに師事した経験を持つヴァン・ダイクは、60年代初頭、フォーク・ソングのブームがきっかけで方向性に変化が表れる。兄のカーソン・パークス(フランク&ナンシー・シナトラに提供した「Somethin' Stupid」が、1967年に全米No.1を獲得)とフォーク・グループを結成、ロスアンジェルスに出て活動を始めるようになったのだ。グリーンウッド・カウンティ・シンガーズの一員としてレコーディングを経験後、ソロアーティストとしてもMGMから1966年にシングル2枚を発表。2枚目の「Come To The Sunshine」はボブ・ディランやマザーズ・オブ・インヴェンション、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのプロデューサーだったトム・ウィルソンが手がけるも、商業的成功を得られなかった。
西海岸のロック・シーンへ徐々に入り込みながら、ザ・バーズの『Fifth Dimension』(1966年)でオルガンを担当するなど、裏方として名を知られ始めたヴァン・ダイクは、同じ頃ビーチ・ボーイズの作品にも関与し始める。本人の弁によると、「Good Vibrations」(1966年、全米1位)のストリングスで3連符のパートを提案したのは彼だったそう。そして当時は未完に終わったいわくつきのアルバム『Smile』に、作詞やアレンジで貢献していくことになるのだ。
そんな中、大手のワーナー・ブラザーズから声がかかり、お試し的にジョージ・ワシントン・ブラウンという変名でリリースしたシングル「Donovans Colours」がヴィレッジ・ヴォイス紙で高評を得たことが決め手となり、ヴァン・ダイクの記念すべき1stアルバム『Song Cycle』(1967年)の制作が始まった。
以前ヴァン・ダイクに日本で取材した際、『Song Cycle』がどれほど心血を注いだアルバムだったかを事細かに語ってくれた。コンセプト・アルバムのように聞こえるが、実際はコンセプトなどなく、「暗闇の中で自分の道を探していて、どこに向かっているのかわからなかった」という状況で作業を進めていたそう。いにしえのショー・チューンからブルーグラスまで、様々な種類のオールドタイム・ミュージック的要素が混ざり合う、万華鏡のような音世界を振り返って、ヴァン・ダイクは「もはや存在しない世界へのあらゆる種類の言及で満たされていた」と説明してくれた。陰影を感じさせるパーソナルなアルバムになった背景には、1963年にホルン奏者だった兄ベンジャミンが事故死したことの悲しみ、ベトナム戦争、ジョン・F・ケネディ射殺事件があったそう(「The All Golden」で聞けるドラムロールは、ケネディに捧げられている)。作者に言わせると、『Song Cycle』とはある意味、「悲しみの告白」のアルバムなのだという。
しかし、期待に反して『Song Cycle』のセールスは低迷する。ワーナー・ブラザーズは音楽紙に「『年間最優秀アルバム』で3万5509ドルの損失を被った」とわざわざ広告を打った。今はもうさすがに損失分を回収して利益を生んでいるはず、と冗談めかして言いながらも、「あの広告の皮肉に、私は深く心を傷つけられたんだ…」と語るヴァン・ダイクの目には、うっすら涙が浮かんでいた。自信作が所属レーベルから否定された時、彼はまだ20代半ばの若者だった。
続く1968年のインタビューは、『Song Cycle』を出した翌年に、同作への反応を含めて心境を語った貴重な内容。今でこそジョアンナ・ニューサムがヴァン・ダイク起用を思い立った作品として知られ、カルト的な人気を誇る『Song Cycle』だが、当時は新人アーティストとしては異例の、”巨額の予算を投じたのに売れなかったアルバム”として語られていたことがよくわかると思う。痛みの中で次章へと向かおうとしている時期の、若きヴァン・ダイクの発言をしかと受け止めて欲しい。
1968年の秘蔵インタビュー
ヴァン・ダイク・パークス
「過小評価の天才」(Little demand for genius)
By JERRY HOPKINS
October 12, 1968
ヴァン・ダイク・パークスのアルバム『Song Cycle』は、リリースされた当初、ポップ史における革新的な出来事として絶賛された。ところがセールスの方はさっぱりだった。作った本人は、世間的な評価よりも売り上げの方を気に病んでいる。制作費だけで4万ドル(当時の金額)もかけたアルバムだが、リリースから約1年が経った時点で1万枚も売れておらず、利益を出すにはほど遠い。
ハリウッドの山の頂にある緑と茶色に彩られた自宅でインタビューに答えたヴァン・ダイクは「本当に憂鬱だ」と嘆く。「レコードが売れなければ意味がない。すべてはそれが基準さ。正直に言って、僕のモチベーションはお金だったからね。」
『Song Cycle』は、ヴァン・ダイク・パークスが「商業的」な成功を目指してリリースした作品だったと言える。どうやら彼は、売るための独自の複雑な方法を試したようだが、失敗に終わった。しかしアルバムのリリースから1年経った今なおヴァン・ダイクは、まだこれから売れると信じている。
「ミリオンセラーになるはずだ」と彼は言う。「普段は自分の作品を聴き返すことはないんだが、今日久しぶりに聴いてみた。もちろん、環境が変われば印象も変わる。景色が変わって、さらに素晴らしく聴こえた。本当にいい作品だ。僕がこのアルバムにこだわるのは、今聴いても感動させられる作品だから、というだけではない。単純に素晴らしい作品だからだ。僕は傲慢な人間ではないが、このアルバムを買おうとしない人たちはきっと、作品の素晴らしさにまだ気づいていないだけだと思う」。
ヴァン・ダイク・パークスは、決してナルシストなどではない。彼の言葉には、むしろ彼自身の真摯な態度や謙虚さが表れている。
「アルバムは所有するのではなく、関わることで初めて命が吹き込まれるんだ」と彼は言う。「僕は、このまま作り続けていきたい。自分の声が最高だとは思わないけれども、全体的には聴けるレベルだと思う。だからこのアルバムに関しては、少しサポートしてもらえるとありがたい」。
ヴァン・ダイクがサポートを求めるのは、ある意味で当然のことかもしれない。というのも彼はこれまでに、音楽界で優れたサポーターとしての名声を得てきたからだ。ヴァン・ダイクは、ハーパース・ビザールやザ・モジョ・メンの作品をプロデュースしたほかに、「スタジオ・ミュージシャン」名義でザ・バーズのアルバムにも参加している。また、フィル・オクスの最新アルバム『Tape from California』ではアレンジャーとしての才能を発揮した。さらに、ザ・ビーチ・ボーイズの楽曲「Heroes and Villains」や「Vegetables」の作詞も手掛けた。
ビーチ・ボーイズ「Heroes and Villains」は、ヴァン・ダイクによる2025年1月のライブでも披露された
まだ25歳(※当時)という若さのヴァン・ダイクだが、細身の両腕を木製ロッキングチェアの肘掛けに置き、背を丸めて床に敷いたラグマットに視線を落とす姿は、まるで老人のようだ。彼の口からは、まるで苦痛を訴えるかのように、複雑な言葉がこぼれ落ちる。ヴァン・ダイクは、古風な凝った言い回しで、はるか未来の世界を語る。彼は自分の家を「戦後の中産階級の建造物」と呼び、複数の学位を持つ友人は「教養があり過ぎて色々考えねばならない人」と表現する。彼の頭の中は、複雑にできている。ヴァン・ダイクが時折ゲスト出演するテレビ番組の司会者レス・クレイン曰く「思ったことがそのまま言葉としてほとばしる唯一の人物」なのだ。
ヴァン・ダイクの言葉を理解するのは難しい。しかし、決してコミュニケーションが取りづらい訳ではない。
家具の揃った室内で妻ダリーの横に腰掛けたヴァン・ダイクは、アルバムについての話を続けた。「このアルバムは、難解な社会学的事象、つまり世間一般との直近の関連性を最も繊細に表現したものだ。作品に惹かれるすべての人に受け入れられるように、意図して作られている。ボブ・ディランのアルバム『John Wesley Harding』ほど巧妙にとは言わないが、人々の心に焼き付けるために、必然的に大掛かりなプロダクションの形を取ることになった。僕らは何を売り込むべきだったのか? 僕らは自分たちの技を見せつけていただけなのか? つまりただの自己満足だったのだろうか? 僕は自分の能力を最大限に発揮して、できる限りの表現をしたかったんだ。その意味ではベストを尽くしたと自負している」。
「このアルバムには、僕の今の感情と、自分が認識し得る心の空間から生まれる言葉を積み上げた。それ以上に、何らかのリアクションを求めたり、ましてやリアクションを無理に引き出すようなこともなかった。僕はこのアルバムを通じて、継続的かつ能動的な関与を促したかった。サウンドをオーガナイズするという点では、上手くやれたと思う。フォーク音楽の可能性にこんなにも敏感な人間は他にいないだろう。僕は、あらゆる地方を巡ってみたい……」
ヴァン・ダイクは、各フレーズと断片的なイメージの合間に一呼吸置く。彼の思考が、頭の中に浮かんだスクリーン上へパッチワークのように映し出され、言葉の波となって溢れ出す。彼の言葉は袋小路に行き当たり、街を横切ったかと思えば突然消えて、2ブロック先に再び現れる。少々困惑するが、それでも話の内容は核心を突いていて、論理は一貫している。
(右から)ヴァン・ダイク・パークスとレニー・ワロンカー、1968年4月17日撮影(Photo by Michael Ochs Archives/Getty)
ポップ音楽の歴史にも、時代に沿った流れがあることを考慮すべきだろう。まず、ポップ・アイドルの概念が変化している点が指摘されている。ロックンロールをダンスフロアで楽しむ音楽からコンサートステージでプレイする音楽へと押し上げたオーディエンスは、今やアイドルに対して肉体美よりも、よりメンタル面での魅力を求めている。
ヴァン・ダイクのべっ甲縁のメガネや学者じみた物言い、そして繊細で激しい気性は、従来のスター像からはかけ離れていた。ところが今は時代が変わり、そんな彼でも大衆に受け入れられるのかもしれない。彼は今でも世間に受け入れられるかどうかを気にしているが、「ザ・バーズのデヴィッド・クロスビーやジム・マッギンのようなロックスターになりたい」などと言っていた時代はもう終わったのだ。
ヴァン・ダイクはプロデューサーやライターとして舞台裏で活動しながら、スターになりたいという願望を抱くようになった。しかし彼は、それ以前にも世間から一定の評価を受けていた。ヴァン・ダイクは「Studio One」や「Alcoa Theater」をはじめ100近くのネットワーク・テレビ番組に出演し、グリーンウッド・カウンティ・シンガーズというフォーク・グループの中心メンバーを務めた。また、カーネギー工科大学でクラシック・ピアノと作曲を学んでいた頃は、ポーランド・スタイルの結婚式に引っ張りだこのクラリネット奏者でもあった。多様なバックグラウンドを持つヴァン・ダイクが、パフォーミング・アーツの世界におけるあらゆる進歩に対してオープンであるのは、ごく自然な流れだろう。
話は、モーグ・シンセサイザーやコンピュータ音楽にも及んだ。彼はそれらマシンが音楽の発展に大いに貢献すると信じているが、世間一般にはなかなか受け入れられない現状を嘆いた。「シンセサイザーは明らかにハモンド・オルガンからの派生だからね。面白い話さ。アルミニウムが登場した時の状況と同じで、シンセサイザーも普及する可能性はある。僕の祖父は、アルミニウムは有毒で食べ物を汚染する、などと家族に警告していた。だから僕の家族はアルミニウムを避けていた。他の多くの家族もそうだったと思う。そんな感じで、シンセサイザーをはじめとするマシンも、そのうち素晴らしいものとして受け入れられるんだと思う」
ビートルズへのライバル心、「アメリカ再発見」のヴィジョン
『Song Cycle』は、ワーナー・ブラザースによる大々的な宣伝の後押しを受けて、市場に投入された。すると、当時流行していた自然食や瞑想などと並ぶ最先端の存在として、ロサンゼルスのポップ音楽界の仲間内で話題となった。
このアルバムは、その複雑さが特に注目された。ストリングスには、ドビュッシー、ベートーヴェン、マーラー、アイヴズといったクラシック音楽の影響が見られる。かといって決してヴァン・ダイクが盗用している訳ではない。クラシックのスタイルを取り入れながら、完全に現代的なサウンドのサイクルを作り出したのだ。アルバムで彼は、ヴァン・ダイク・パークス目線によるカリフォルニアとアメリカの姿を描いている。「Widows Walk」「Palm Desert」「Laurel Canyon Blvd」をはじめとする収録曲のアプローチは、時にはオーケストラ風で、またある時はシンフォニー調といった感じで、歌詞には新鮮な形の言葉遊びが散りばめられている。例えば「Palm Desert」では「Palm Desert sages abound」と歌っているが、おそらく、賢者(sages)がたくさんいる(abound)と、植物のセージ(sages)が生い茂っている(abound)を掛けているのだろう。また「Laurel Canyon Blvd」では、「Tracks of the beaten in automobile pound / the nine to fivers round / a long line of drivers wind / to dine in the divers and dandy line」と、リズミカルに韻を踏む。
「僕は最高の作詞家を自負している」とヴァン・ダイクは言う。「本当さ。ただ、テーマ探しにはもう少し妥協が必要かもしれない。もしかしたら僕は、有名ミュージシャン向けに歌詞を書くべきかもね。僕の音が気に入らないという人が多いからさ。僕は歌詞によってリズム感を出そうとしているし、敢えて支離滅裂な書き方をすることもある」
「Widows Walk」でヴァン・ダイクは「未亡人は未来と向き合う / 工場は貧しい人々と向き合う / 目の前の困難が心にのしかかる事実は変わらない」と歌う。
ポッドキャスト「Life of the Record」による、ヴァン・ダイク・パークス『Song Cycle』ドキュメンタリー回。同作の研究本(『33 1/3』)を執筆したリチャード・ヘンダーソンも参加
さらに彼は自身と同等の比較対象として、ザ・ビートルズを引き合いに出した。音楽的に優れたミュージシャンは数多く存在するが、そんなことができるのはヴァン・ダイクぐらいだろう。彼曰く、自分とビートルズは「同じ土俵」に立っているのだという。さらに、批判というよりは客観的に見たビートルズ論を展開するが、これもまた普通の人は敢えてやろうとはしないだろう。
「ビートルズがどのように人の手を借りて音作りをしてきたか、皆が知らないことはたくさんある」とヴァン・ダイクは、ビートルズが音楽制作に際して受けたサポートについて言及した。「彼らに才能があるのは間違いない。僕だって彼らと同じような経験や試練をたくさん乗り越えてきたから、共感できる部分はある。でも彼らはいろいろな意味で行儀が悪く、思い上がっていると思う。それは僕にとってどうでもいいことだが、彼らが業界全体や一般の常識とは異なるやり方でがんばれば、もっと上手くやれるはずだ」
「彼らは最近、アップル社と契約した。トレーナーや帽子といったグッズなんかも契約に含まれている」
ここでヴァン・ダイクは一息ついた。「きっと僕は、ビートルズに大きなライバル心を持っているんだろう。彼らの存在に正当性を見出そうとして、あまりにも長い時間を費やしてしまったのだと思う」
おそらくヴァン・ダイク・パークスは、ビートルズに対して「苦々しい」思いを抱いているのだろう。また、彼のビートルズに対する失望感が、このような発言につながっているのかもしれない。彼が自分の考えを口にする時は、ほとんど笑いもせず熱心に語る。ただ、ユーモアのセンスも失っていない。ヴァン・ダイクは再び、アルバムの話に戻った。「このアルバムは、リビングルームに飾っても遜色ないような、特別なものであるべきだ。そうでなければ、僕の声がそんなに醜いと思われているのかという感じで、ちょっと傷つくよ」
旅行の予定について話を向けると、彼は「あちこちの空港へ行ったが、僕の髪は長過ぎて(ヒッピーではないかと)疑いがかけられるみたいだ」と語った。
『Song Cycle』のハイライト「The All Golden」を歌うヴァン・ダイク(2010年)
エゴが邪魔すると、人は自分自身を冷静に見られなくなる。
彼の言葉には、南部特有の優雅さが感じられる。アラバマ生まれのヴァン・ダイクは、南部連合の血を受け継いでいる。彼曰く、革命も魅力的だが、敬意や礼儀、素朴さも重要だ。今の彼の生活は、素朴な中でも複雑な事情を抱えている。ヴァン・ダイク夫妻は愛犬ウィンストンと共に、周囲の景色を見渡す山頂に立つ庭付きの家で、ほとんどの時間を過ごしている。最近では、この天才に対する需要がほとんどなく、時間を持て余しているようだ。ヴァン・ダイクはランディ・ニューマンのアルバムを共同プロデュースしたものの、今後はコラボレーションしないという。「ランディは今まさに、広くさまざまな分野で大きな成功を収めようとしている。だから、僕なんかは当然手を引くべきだ」とヴァン・ダイクは理由付ける。さらに、新たに結成されたバンド、スリー・ドッグ・ナイトのプロデュースを手掛ける話もあったが、結局は実現しなかった。そして現時点でヴァン・ダイクには、新たなレコーディングのプランも特にない。
そこで今、ヴァン・ダイクは新たな分野への進出を検討している。彼は、アメリカ各地を巡って映像を撮影し、1本の映画にしたいと考えている(もともとはアルバムの中のサウンドで表現しようとしたものをビジュアル化したいという発想で、彼曰く、結果的にアルバムのセールスに結びつければ、と願っている)。ヴァン・ダイクは、黒人や恵まれない人々に対して深い関心を抱いている。また、ブロードウェイ・ミュージカルに関わる可能性もある。彼は熱心な自然保護活動家でもあり、ブルドーザーが木々を倒して山肌が削られていく光景を自宅から眺めながら、心を痛めている。彼は最近、コンピュータ・プログラマーと共にテレビ番組レス・クレイン・ショーに出演したが、「ただじっと座って見て」いたという。さらに彼の話は、「化学的なエクスタシー」「衝動に付随した事柄」、そして「ポストモダニズムにおけるメインストリートの神の思想」にも及んだ。
「僕は、解放された自分の姿を見せたいんだ」とヴァン・ダイクは言う。「逃げ隠れせずに、心に決めた目標に向かって突き進むことが大切だと思う」
インタビューで言及されている1972年の次作『Discover America』、2013年にリリースされた現時点の最新作『Songs Cycled』。近年のライブでは他にも、彼のディスコグラフィから幅広く披露されている模様
From Rolling Stone US.
ヴァン・ダイク・パークス来日公演
2025年3月26日(水)、27日(木)ビルボードライブ東京
1stステージ 開場16:30・開演17:30/2ndステージ 開場19:30・開演20:30
Special Guest:イナラ・ジョージ〈3/26(水)・3/27(木)公演のみ〉
2025年4月1日(火)ビルボードライブ横浜(追加公演)
1stステージ:開場16:30・開演17:30、2ndステージ:開場19:30・開演20:30
2025年4月3日(木)ビルボードライブ東京
1stステージ 開場16:30・開演17:30/2ndステージ 開場19:30・開演20:30