JR西日本は7月24日の社長会見で、東海道・山陽新幹線「のぞみ」にN700Sを追加投入すると発表した。現在、「のぞみ」に使用しているN700A相当車は「のぞみ」運用から外れ、8両編成に短縮して、おもに「こだま」へ転用する。そして現在、「こだま」に使用している500系は2027年をめどに引退するという。

  • 16両編成で「のぞみ」としても活躍した500系。2027年をめどに引退する予定となった(写真はイメージ)

新型車両を投入すれば、玉突き的に旧型車両が廃車になる。世間ではよくある話で、新幹線も例外ではない。東海道・山陽新幹線の歴代車両である0系、100系、300系、500系、700系、N700系、N700A、N700S、それぞれに背負った時代背景がある。新幹線に乗った人々は、それぞれ思い入れがあるだろう。

その中でも、500系は姿や色合いが異色の存在だった。従来の東海道・山陽新幹線にはないデザインで、独特のかっこよさがあった。加えて、日本の高速鉄道にとって「世界最速」の名誉を回復した車両でもあった。

かつて東海道新幹線における最高速度210km/hは、当時の鉄輪式鉄道の最高記録だった。しかし1981年、フランスの高速列車TGVが最高速度260km/hで運行開始して世界最速となり、1982年に最高速度270km/hとなった。1989年には300km/hの営業運転を始めている。一方、日本の新幹線は1986年に100系が最高速度220km/h、100系「グランドひかり」編成が最高速度230km/h、1992年に300系が最高速度270km/hとスピードを上げていった。

1997年、300km/hで走る500系が登場し、TGVの記録に並んだ。しかも表定速度はTGVを上回り、実用面で世界最速としてギネス世界記録となった。

14年前まで東京駅を発着していた

500系はJR西日本が単独で開発・製造し、1997年3月に山陽新幹線で運行開始した。鋭角的で斬新なスタイルはかっこよかった。当初は東海道新幹線に乗り入れなかったため、関東在住の筆者は羨ましかった。東京まで走ってほしい。そう願った鉄道ファンは多かったと思う。その声が届いたというわけではないと思うが、8カ月後の1997年11月から東京~博多間の「のぞみ」4往復に投入された。最速列車の所要時間は5時間を切り、4時間49分だった。

500系の増備は進み、最終的に16両編成9本、計144両が製造された。1998年、東京~博多間の500系「のぞみ」は7往復となった。その後、2007年にN700系が登場すると、次第に東京駅発着の500系「のぞみ」は数を減らしていく。2008年3月ダイヤ改正で、とうとう東京~博多間は2往復になり、2010年3月のダイヤ改正で「のぞみ」運用はなくなって、東海道新幹線から姿を消した。いまから14年前のことである。

東海道新幹線沿線の人々の中には、「500系がまだ走っていたのか」と思う人もいるかもしれない。あるいは、2015年にアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』とタイアップした「500 TYPE EVA」や、2018年の「ハローキティ新幹線」で知った人もいるだろう。東京駅発着の時代を知らない人にとって、500系のかっこよさを知る機会になったはずだ。

東海道新幹線から退いた500系は8両編成に短縮され、山陽新幹線「こだま」の運用に就いた。これにより、玉突き的に0系・100系が去っていった。今度は500系が去る番になった。2027年に全車引退したとすると、製造から約30年も走り続けることになる。最後まで無事に走ってほしい。

奇抜なデザインが生まれた理由は

白地に青い帯が定番の東海道新幹線において、500系や「ドクターイエロー」などの車両は文字通り「異色の電車」といえた。独自に塗装した車両が多い山陽新幹線も、基本は白地であり、車体色にグレーを採用した500系や700系「ひかりレールスター」車両は際立つ存在といえる。「ひかりレールスター」の外観は700系を塗装変更したものだが、500系の場合は外観も独自性が強い。

鋭角的なノーズ、コクピット状の運転席など、500系のデザインは世界的なインダストリアルデザイナーのアレクサンダー・ノイマスター氏が手がけた。当時、ドイツ在住だったアレクサンダー氏は、ドイツ国鉄の高速列車ICEも手がけている。しかし彼が直接にJR西日本へ提案したわけではない。

現在発売中の「新幹線EX 72号」(イカロス出版)によると、500系の設計は日立製作所、近畿車輛、日本車輌製造、川崎重工の4社で分担されたという。取りまとめ役は近畿車輛で、デザインについてはJR西日本のデザイン顧問でインダストリアルデザイナーの木村一男氏が監修した。木村氏は日産自動車在籍時代に初代「シルビア」や「サニークーペ」を手がけている。鉄道分野では100系や281系(特急「はるか」の車両)も手がけ、500系以降に700系と285系(寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の車両)も手がけた。

4社のエクステリアデザイン案のうち、日立製作所の案が採用された。この案に関わったデザイナーがアレクサンダー・ノイマスター氏だった。原型は1991年に開催された日立製作所のイベントで展示された「HST350」型。このイベントでは、JR各社の車両担当社が招待され、後にJR西日本と日立製作所が共同で高速試験車両「WIN350」を手がけている。500系は「WIN350」の試験結果を生かして設計、製造された。

500系の尖った先頭車は、トンネル突入時の空気圧力波対策のためだった。全長27mのうち半分以上の15mを尖らせ、その上に小さなドーム状の運転席を設けた。まるでジェット戦闘機のような外観になっている。Cd値(空気抵抗係数)は0.1台だという。市販のスポーツカーで0.25以下なら世界的高水準と呼ばれるというから、とんでもなく空力に優れている。空力性能が良すぎるため、ブレーキが効かなくなると心配されたほどだったという。

ただし、空力や軽量化など考慮して車体断面が小さいため、客室内は窮屈な印象も与えている。とくに側面が曲面となっていることから、窓際の席の上まで荷棚が張り出し、立ち上がると頭をぶつけてしまうほどだった。先頭車の運転席側は荷棚を作る空間もなくなり、4列シートとして通路側に荷物置場を設置した。つまり、500系は居住性を犠牲にしたといえる。それもスポーツカーに通じるところがある。

開発理由は航空自由化への挑戦

東海道新幹線を走った歴代の車両は、0系、100系、300系、500系、700系、N700系、N700A、N700Sと続いている。このうちJR西日本オリジナル車両は500系のみ。そのためか、JR東海が東海道新幹線を語るとき、あるいはグッズを作るとき、500系は除外されることが多い。「JR東海の車両ではない」「他社の乗入れ車両だから」と言ってしまえばそれまでだが、500系のファンとしては、のけ者扱いで寂しい。

なぜJR西日本は独自に500系を開発したのか。そこには山陽新幹線ならではの理由があった。旅客機との競争である。東海道新幹線は東京~新大阪間で巨大な需要があり、「速度の旅客機」「輸送量の新幹線」という棲み分けができた。一方、山陽新幹線の新大阪~博多間は、東海道新幹線と比べて需要が小さい。山陽新幹線と空路で需要を奪い合う関係だった。

それでも山陽新幹線に勝ち目はあった。1952(昭和27)年に制定された航空法では、航空路線の規制が厳しかった。1986年まで、日本航空、全日空、東亜国内航空の3社で路線の棲み分けが行われ、運賃は認可制で総括原価主義とし、過度な競争によって安全性が失われないように配慮された。

しかし1986年、その棲み分けが廃止され、同一路線を複数の航空会社が運行できるようになった。1994年に5割以内の航空運賃の割引が認められ、1996年になると航空運賃が標準原価の25%以内で自由化された、1997年に航空会社の新規参入が認められ、スカイマークやエアドゥが発足した。現在は路線が免許制から許可制となり、混雑空港でダイヤの許可制は残しつつ、その他の路線は届出制で開設できる。航空運賃も許可制から届出制になった。これらの航空自由化施策によって、航空会社間で航空運賃とサービスの競争が始まった。

JR西日本にとって、航空自由化は看過できない事態だった。JR東海も航空自由化を睨み、300系を開発投入して「のぞみ」の運行を開始したが、JR西日本にとって最高速度270km/hでは足りない。もっと速い列車が必要だった。そこで、1990年に新幹線高速化プロジェクトを立ち上げ、最高速度350km/hを目標に開発が始まった。これが「WIN350」誕生の経緯であり、この高速試験の結果をもとに500系が開発された。

東海道新幹線からの撤退は「異端児」だから?

旅客機がライバルならば、JR東海も500系を製造すればよかった。しかしそうならなかった。理由としては、500系がさまざまな面で規格外だったことが挙げられる。まず、東海道新幹線において最高速度300km/hの車両はオーバースペックであり、その性能を得るための車両価格が高い。JR東海は同じ車両を「のぞみ」「ひかり」「こだま」で共用しており、たとえば「こだま」で到着した列車を「のぞみ」として折り返すなどの運用を行う。そのために、すべての車両形式で同じ座席配置としたい。しかし全車両を500系に置き換えると、膨大なコストアップになる。

余談だが、デザインのかっこよさで人気の500系も、東海道新幹線のおもな利用者であるビジネスパーソンからは不評だったようだ。「天井が低く車内に窮屈感がある」ことに加え、当時はまだ喫煙車があり、天井の低さから「前後席のタバコの煙が漂ってくる」ことも理由のひとつだった。

そこでJR東海とJR西日本は、300系の居住性と500系の山陽新幹線内300km/h運転に対応する車両として、新たに700系を共同開発した。これで500系は増備の必要がなくなった。JR西日本も100系「グランドひかり」編成を交代するために700系を採用した。これ以降、東海道新幹線と「のぞみ」はすべて同じ座席配置となっている。

  • 1990年代後半から2000年代にかけて、500系や700系が「のぞみ」で活躍した(写真はイメージ)

もうひとつ余談として、筆者が大井車両基地を取材した際、車内清掃の人々が網棚用のモップを使っていた。長いモップを曲げて、網棚や壁、網棚の上の曲面天井に合わせた形状とし、網棚の上を客室の端から端までいっぺんに拭き取る。このモップは担当者の工夫で作られたという。これも500系専用の形を用意する必要があった。小さなことではあるものの、JR東海が車両の仕様を統一する背景はこんなところにもあるのだと感心した。

そうは言っても、500系はやはりかっこいい。世界最高速に並び、日本の誇りを取り戻す車両になったのではないかと思う。東海道新幹線の車両は15年程度で引退し、500系も登場から13年で東海道新幹線を離れた。その後、JR西日本は14年にわたって500系を現役で走らせてくれた。「500 TYPE EVA」や「ハローキティ新幹線」には驚かされたが、これらの列車をきっかけに、新幹線に親しみを感じた人もいただろう。

16両編成時代の栄光と、8両編成の余生。どちらも500系らしいと思う。引退まであと2年ほど。どうか無事故で走り抜けてほしい。できればもう一度、東京駅にも顔を出してほしい。「推し旅アップデート」キャンペーンを展開するJR東海も、我々の「500系推し」を理解し、願いを叶えてもらえないだろうか。