「就農を考えるなら、実際に人に会って話を聞くのが一番手っ取り早い」。そんな思いで就農イベントへ

宮崎県出身の西久保武揚さんは、大学卒業後に就職。配属先の東京で10年以上働いた後、静岡県浜松市で就農した。サラリーマン家庭で育った西久保さんが、縁もゆかりもない浜松で農業をするという選択をしたのはなぜだろう。

「祖父母が農家で、稲刈りの時などよく手伝いに行っていました。子どもながらに自由で楽しそうだなと思っていましたね。でも、新卒で就職したのは農業とはまったく関係のない分野。店舗設計の施工会社で、営業から、デザイン・設計・施工まで携わりました。また、別の会社では、漢方薬局のブランド立ち上げも手掛け、商品開発・店舗開発などを任されていました。いずれも充実したサラリーマン生活で、そこに何の不満もありませんでした。

転機になったのは、結婚して子供が生まれたこと。自分が生まれ育った自然豊かな環境で子育てがしたいと思うようになったんです。では仕事をどうするかと考えた時、思い浮かんだのが農業という選択肢でした」

いつか農業をしたいという幼少期からの淡い思いと、起業して自分なりに何かやってみたいというチャレンジ精神から、雑誌や本を買い集め、就農について自分で調べ始めたという。しかし、こうした冊子には具体的な事例や就農事情までは詳しく紹介されていなかった。どうやって農業を始めるのか、どんな形態があるのか。結局わからないことだらけ。

「これはもう、実際に人に会って話を聞くのが一番手っ取り早いだろう」と、各地で行われていた就農イベントに足を運ぶようになった。池袋で行われた就農イベントもその一つだ。

就農イベントでは、さまざまな規模の農業法人や各都道府県がブースを出し、移住や就農の実態、また支援体制や研修制度について、窓口となる担当者から直接話を聞くことができる

就農イベントで得た情報をもとに、各地の就農支援制度を徹底比較

就農活動を始めた当初は、どんな事業形態があるのかよくわからず、将来的には農業法人の設立をイメージしていたという。そのため、西久保さんは法人のブースを積極的に回り、個別に会社訪問をすることもあった。しかし、話の中心は成功事例が多かったという。

「いきなり成功事例ばかりを聞いても気後れするばかりで……。そんな多額の投資をする度胸は自分にはないことを思い知りました。就農イベントでは、先輩農家が参加していたら、どうやって就農したのか、農家になるまでの方法論をしっかり聞き出すことが大事だと思います。また話をうかがった方のケースに限定されるので、もっと多くの事例を知りたいと思うようになりました」

そこで、就農イベントに参加する際には、各自治体が用意している就農支援制度を比較することにした。
「栽培したい作物など品目にはこだわりがありませんでした。作物を育てることはあくまでも手段であって、目的は農業で経営を成立させることだと考えていたので。そのため、就農に向けて具体的な対策を考える必要があったのは、栽培技術の習得・農地の確保・初期投資資金でした。

まず、栽培技術。習得までに時間はかかるけど、就農してから実地で学んで、自分で何とかするしかないと腹をくくりました。

就農を考えるにあたって重視していたこと① 農地確保の確実性

問題なのは、農地と資金だった。特に農地は、縁もゆかりもない土地で就農するため、サポートがないと身動きがとれない。

「研修制度を設けている自治体はたくさんありました。また、農地あっせんのサポートはあるんですが、農地の確保に確実性がないと感じるものもありましたね。研修が終わっても農地が見つからず、1年以上就農できなかった人の話も聞いていました。そのため、就農先の決め手として重視していたのが、農地確保の確実性です。

確保までしっかり面倒を見てくれる制度や自治体はどこにあるのか。根気よく探していたところに見つけたのが、静岡県農業振興公社の『がんばる新農業人支援事業』でした」

1年間の研修期間後は、研修した地域で就農することが条件で、農地の確保もJA、市、町、県で組織する地域受け入れ連絡会が請け負う。研修を受けた人の9割以上が就農し、地域に定着しているという実績もあり、確実性が高いと感じた。

「がんばる新農業人支援事業」は静岡県農業振興公社が新規就農支援の一環で行っている事業。これまでに244名が研修を受け、219名が就農している

当初、西久保さんの奥さまの出身地でもある浜松の募集はなかったが、公社の担当者から1~2年で浜松において募集予定があるから、焦らずに待った方がいいとのアドバイスを受け、待つこと1年。たった1名の応募だったが、見事合格した。

就農を考えるにあたって重視していたこと② 販売力

さらに、西久保さんが就農に向けて、就農活動の当初から重視していたのが、「出口」=「販売」の戦略だ。これには会社員時代の経験が根底にある。

「飲食チェーンの店舗設計やデザイン、施工から営業まですべて任されていました。引き渡しは無事に完了したものの、工事代金の回収が遅れて、上司に厳しく叱られたことがありました。商品(成果物)をお客さんに引き渡した後、代金を回収するところまでが仕事なんだと。

これは、農業も同じだと思ったんです。作物を作ったら終わりではなくて、販売して収入を得て完結する。営農と生活とを経済的に成立させるという目的があります。作物を作るのは手段でしかない。何が目的であるのかを忘れずに、手段を目的化しないようにと考えています。

その点で、静岡県は、温暖で作物を育てやすい気候であること、東京や名古屋といった大消費地に近く、販売力のある地域だと感じました。新規就農者でも稼げる環境が整っているんじゃないかと思いました」

支援事業で指定された品目はセロリ。新規就農でセロリの栽培なんて絶対に無理だと周囲から言われた日々

「がんばる新農業人支援事業」の浜松地区の栽培品目に指定されていたのはセロリ。浜松市は冬から春にかけてセロリの生産量日本一を誇る一大産地だ。だが、当の西久保さんは一度もセロリを食べたことがなかったという。しかも、種まきから収穫までの期間が長く、高い栽培技術が必要な難しい品目だと知る。

セロリは全量JAに出荷することで、栽培に集中できている

周囲からは、新規就農でセロリの栽培なんて絶対に無理だと言われていた西久保さん。研修期間中は、疑問を差し挟まず、とにかく手を動かして仕事を覚えた。
「1年間の研修でひと通りのことを学んだと思っていましたが、いざ独立してみるとわからないことだらけ。でも、研修先の農家さんがすぐ近くにあったので、いつでもサポートやアドバイスを受けることができたのはありがたかったですね」

研修終了後は、浜松市農業委員会の仲介で、離農するセロリ農家の地主から30アールの土地を借りた。そして、年を追うごとに少しずつ農地を拡大。現在は70アールまで広がった。

先輩セロリ農家の元で1年間研修を積んだ後、独立。高い技術が必要だが、独立後もアドバイスを受けながら栽培を軌道に乗せた

農家の仕事はすべてが丸見え。技術以上に大切なのは、地域で信頼される人間になること

順調に農地を拡大してきたように思える西久保さんだが、農地を広げるための実情は簡単なことではないという。

「農地って空くようで空かないんです。空いている土地がないわけではないけど、条件がよくないことが多い。最初に土地を借りた地主さんが地域に顔が広いこともあって、あそこにいい土地があるよ、と折々によい情報をいただけたのは大きかったです。

おかげでそれほど苦労せずに、ここまで広げることができました。まじめにやっているのを見てくれていたのかもしれないですね。人の縁があって続けてこられた感じです」

ただ、その「ご縁」は、何もせずにただ待っているだけで向こうからやってきたものではない。

「農業は仕事内容がすべて見えてしまう。やってる仕事が地域の人にまる見えなんです。昔からこの地域に住んでいる方が多いので、新しい人間が入ってくると、それだけで目立つ。いい話も悪い話もすぐに伝わってしまいます。

ハウスや畑の周りを常にきれいに保つように心がけたり、丁寧に栽培したりしていると、あそこはいいもの作ってるね、と自分の知らないところで、みんなが話している。自分は知らなくても、周囲の人はみんな自分のことを知っています。車や歩いて通りかかった時、人の畑をよく見ているんです」

仕事の一つ一つが地域での信頼につながると考え、ハウスや畑の周りは常にきれいにしておくよう心掛けている

研修終わりくらいに研修先の農家さんに言われた言葉がある。
「技術なんてどうにでもなる。それより、地域の人に認められるようになることが大事だ」と。

「就農してみたら、本当でした。真摯(しんし)にやっていれば、わからないことはまわりの先輩農家さんが丁寧に教えてくれます。そのおかげで、品質のよいセロリ生産につながりました。何より、土地は信用できる相手にしか貸してくれません。土地を借りるにも、その場所で農業を続けていくにも、信用がすべてです。

暮らしのすべてが仕事と重なり合うので、少し大げさに聞こえるかもしれないけど、人間としてのあり方が地域での評価につながると感じます。移住して新規就農するというのは、そういうことなんだと思います」

地道に地域での信頼を積み重ね、就農12年目の今、西久保さんはセロリ生産部会の役員を務めている。栽培しているセロリも全量JAに出荷している。

「土地を貸していただいている地主さん、就農時にサポートしてくれた人たち。こうした地域の皆さんに応えていきたいですね。私は農業を通じて地域に根差していくことが性に合っていたんだと思います。

農家って究極のSDGsだと思うんです。世代が変わっても農業があると地域の活性化は続く。農家にしかできない役割だと思います。今後はセロリのさらなる普及や、僕のような新規就農者の呼び込みにも貢献していきたいですね」

新規就農を考えているあなたへ。

就農して12年。今だからわかることもたくさんある。新規就農を考えている人に向けて、西久保さんからアドバイスしてもらった。

●コミュニケーション
「信用を得ることにもつながりますけど、田舎の方が地域の人同士のコミュニケーションが多いです。都会や人間関係に疲れたから、というような理由で農業を始めるのは考えた方がいいかもしれないですね」

●生活資金
「生活資金は1年間分くらいは確保しておくとよいと思います。作付けしても、収穫するまでの半年から1年は出ていくばかりで収入がありません。営農資金とは別に、生活資金を確保しておくことはとても大事です。生活にゆとりがないと栽培にも焦りが出てしまう。ノープランでは大事なときに的確な選択ができないと思います」

●初期投資
「新規就農は大きなチャレンジです。それまでの仕事を辞めて、住む場所を変えるだけでも相当な覚悟が必要です。その上、農業は初期投資がかかるし、経営が軌道に乗るまでに時間もかかります。

ちなみに私の初年度の投資は、トータル1400万円でした。中古ハウス付きの農地30アールと、もろもろの資材や設備を調達するのにかかった700万円は自己資金で賄いました。残り700万円は、市が認定した「認定就農者」が活用できる就農支援資金を借り受けて、育苗ハウスを新設しました」

●非農家出身で就農した人にアドバイスをもらう
「実家が農家の人にとって、農地や倉庫、機材は最初から家にあるものなので、そこに意識が向かないことがあるんです。特に、就農に向けての試算や事業計画などは、大きなズレが出てくることがあります。非農家出身の農家さんに相談に乗ってもらうといいと思います」

営農にはさまざまな形がある。就農を考える時、まずは農業を通じて何を実現したいのか、自分の目的を明確にすること。その結果、おのずと、必要な支援、品目、地域、栽培法などが見えてくる。漠然とした考えを整理しながら自分の目的を見極めるための、“戦略的な就農イベント活用”。西久保さんから学んだ、就農イベントの新しい活用法をぜひ参考にしてほしい。

【取材協力・写真提供】西久保武揚さん