球界に”衝撃”…戦力外通告or自由契約でまさかの退団となった大物選手6人

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 球界に入る者がいれば、去る者もいる。毎年10月にはドラフト会議が開催され、新たにプロ入りの切符を掴むが、一部の現役選手は戦力外通告などで厳しい現実が叩きつけられる。過去には、まさかの形でチームを退団した選手も数多く存在。そこで今回は、戦力外通告または自由契約を経験した大物選手を紹介する。

 

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村田修一

出身:福岡県

投打:右投右打

身長/体重:177cm/92kg

生年月日:1980年12月28日

ドラフト:2002年ドラフト自由枠

 

 横浜ベイスターズだけでなく、2009年のWBCでも4番として活躍した村田修一。プロ通算で360本塁打を記録した村田だが、NPBでの選手生活の終わりはあまりに突然だった。

 

 元々は投手だった村田は、日本大学に入学してから野手に転向する。大学では通算20本塁打を放ち、自由枠でベイスターズに入団した。1年目から25本塁打を放つ長打力を発揮し、毎年のように2桁本塁打を記録。何より、2008年の打率.323・46本塁打・114打点という成績は圧巻と言えるだろう。

 

 

 三冠王すら狙えるような成績を残した一方、当時のベイスターズは低迷期。「優勝争いがしたい」という気持ちを抑えることができず、FA(フリーエージェント)で2011年オフに読売ジャイアンツに移籍した。苦しむシーズンもありながら、2013年の8月にはセ・リーグの月間最多安打を更新するなど、チームの優勝に貢献した。

 

 2016年は打率3割超えで25本塁打を記録したものの、2017年は成績を下げた村田。すると、若返りを図る球団の方針もあり、まさかの自由契約。NPBでの現役続行を希望するも、獲得する球団は現れなかった。2018年は独立リーグの栃木ゴールデンブレーブスでプレー。同年限りで現役を引退した。

中村紀洋

出身:大阪府

投打:右投右打

身長/体重:180cm/93kg

生年月日:1973年7月24日

ドラフト:1991年ドラフト4位

 

 いてまえ打線の中軸を担い、美しいアーチを数々描いた中村紀洋も自由契約を経験した選手である。

 

 渋谷高校(大阪府)を甲子園に導いた中村は、ドラフト4位で大阪近鉄バファローズに入団。3年目の1994年から出場試合を増やすと、1995年から2004年まで2桁本塁打を記録。近鉄が優勝した2001年はキャリア唯一の打率3割超え(.320)・46本塁打・132打点と大暴れした。

 

 

 その後、2004年オフにメジャーリーグへの挑戦を表明。ロサンゼルス・ドジャースと契約したものの、思うような結果を残せず1年で退団し、2006年にオリックス・バファローズで日本球界に復帰した。だが、2006年はけが続きのシーズンとなり、成績を「公傷」とみなしてほしい中村と球団が対立。契約交渉はうまく進まずに自由契約となった。

 

 「所属先なし」となった中村に手を差し伸べたのが、落合博満が率いる中日ドラゴンズ。テスト生として合格を受けた中村は、育成契約からのスタートに。その後は自らの手で支配下契約を勝ち取り、最終的には2007年日本シリーズのMVPに輝いた。テスト生から這い上がった中村の活躍は、今後も語り継がれていくことだろう。

井端弘和

出身:神奈川県

投打:右投右打

身長/体重:173cm/73kg

生年月日:1975年5月12日

ドラフト:1997年ドラフト5位

 

 「アライバコンビ」と呼ばれた鉄壁の二遊間は、まさかの形で終わりを迎えることになった。

 

 ドラゴンズの2番バッターとして活躍した井端弘和は、芸術的なバッティングを見せたかと思えば、堅実に送ることもできる器用な選手だった。何より、荒木雅博との二遊間は相手チームに幾度となく絶望を与えた名コンビとして、今でも語り継がれている。

 

 

 井端は落合監督のもと、2004・2006・2010・2011年の4度のリーグ優勝に貢献。2013年のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、野手として最大の活躍を見せた選手でもあった。しかし、2013年のオフに落合がドラゴンズのGMに就任すると、大胆なコストカットを断行。契約交渉の場では、井端に対して大幅な減俸提示をして波紋を呼んだ。

 

 「事実上の戦力外」とも言える扱いに対し、井端はドラゴンズ残留ではなく自由契約の道を選び、ジャイアンツが井端の獲得を発表。ジャイアンツでは2年の在籍に留まったものの、球史に名を残すショートとして最後まで輝き続けた。

石井琢朗

出身:栃木県

投打:右投左打

身長/体重:174cm/78kg

生年月日:1970年8月25日

ドラフト:1988年ドラフト外

 

 長きにわたって横浜ベイスターズを支えた石井琢朗の戦力外通告は、多くのベイスターズファンに悲しみを与えた出来事だった。

 

 1988年にドラフト外で入団した石井は、1993年からレギュラーの座を掴む。安定したバッティング技術と高い守備力に加え、俊足を兼ね備えた野手として、93年から95年までゴールデングラブを獲得した。また、最多安打や最多盗塁のタイトルも獲得し、不動の1番ショートとして試合に出続けた。

 

 

 1993年から2006年まで規定打席に到達した石井だが、2007年に出場機会を減らすと、2008年は98試合の出場に留まる。さらに、若返りを図るチーム方針も拍車をかけ、石井は球団から引退勧告を受けた。「功労者に対する扱いとしていかがなものか」という声もあった中、石井は引退勧告を拒否して自由契約に。

 

 その石井に、広島東洋カープが救いの手を差し伸べた。石井を戦力として計算したカープは2008年の11月に獲得を発表。2010年は規定打席未達ながら打率3割を超えるなど、紛れもなく戦力として活躍した。

中田翔

出身:広島県

投打:右投右打

身長/体重:184cm/107kg

生年月日:1989年4月22日

ドラフト:2007年高校生ドラフト1巡目

 2024年シーズンから中日ドラゴンズでプレーしている中田翔。読売ジャイアンツからの移籍は、日本球界では珍しい形だった。

 

 大阪桐蔭高校の4番として甲子園でも活躍を見せた中田は、ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズに入団。3年目の2010年にプロ初本塁打を記録すると、2011年から10年連続で2桁本塁打を達成した。また、最多打点のタイトルも3回獲得するなど、不動の4番打者として活躍を続けていた。

 

 

 しかし、2021年のエキシビションマッチ(東京五輪開催によるシーズン中断中の特別試合)の試合中、中田が同僚に対して暴力行為をしたことが発表。この騒動により中田は1、2軍全試合の出場停止処分を受ける。そして、騒動から2週間ほどが経過した後、ジャイアンツへの無償トレードとなった。

 

 複雑な事情が絡んでの移籍となり、2021年は不振に陥ったものの、2022年は規定打席未満ながら24本塁打を放つなど復活。巨人でもクリーンアップの一角を担った。

 

 しかし2023年は、92試合出場で打率.255、15本塁打と前年より成績を落とすと、同年オフには出場機会の増加を求め、中田側が契約破棄の権利を行使。その後、中日からのオファーを受けて新天地でのスタートを切った。

山﨑武司

出身:愛知県

投打:右投右打

身長/体重:182cm/100kg

生年月日:1968年11月7日

ドラフト:1986年ドラフト2位

 

 山﨑武司は、戦力外から這い上がった選手の1人だ。

 

 1986年ドラフトでドラゴンズに入団した山﨑は、9年目の1995年に初めて2桁本塁打を達成。「遅咲き」とも言える活躍を見せると、1996年は打率3割(.322)・30本(39本塁打)・100打点(107打点)という脅威の数字を残し、本塁打王に輝く。その後も主砲として活躍を続けたが、2002年は極度の不振に陥り同年オフにトレードとなった。

 

 

 2003年からはオリックス・ブルーウェーブに移籍したものの、当時の監督だった伊原春樹とソリが合わず、監督室にバットを投げることもあったほどだ。そして、2004年に戦力外通告を受ける。

 

 引退も考えたと言われていた中、2005年から新設された東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。すると、イーグルス在籍3年目にキャリアハイの43本塁打を放ち、本塁打王のタイトルを獲得した。

 

 野村克也のもとで蘇った山﨑は、2009年のCS(クライマックスシリーズ)でも仙台で本塁打を放った。ダイヤモンドを一周し、野村監督と抱擁した瞬間はイーグルスファンの脳裏に深く焼き付いているはずである。

 

 

【了】