鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、日本最初の武家政権を作った偉人、もしくは牛若丸こと源義経の兄であり敵役のように語られるなど、良くも悪くも世間一般によく知られた存在です。

それほどまでに歴史上の有名人でありながら、源頼朝にはその最期がどのようなものであったのか、実はよくわかっていないという意外な一面があります。その死因についてはさまざまな臆測が流れており、中には「暗殺説」のような物騒なものも…。

今回は源頼朝の死因について、わかりやすく解説します。

  • 諸説ささやかれる源頼朝の死因について解説します

    諸説ささやかれる源頼朝の死因について解説します

源頼朝の死因は本当に落馬? 死亡時の真相は?

苦労の末に鎌倉幕府を開くことに成功した源頼朝ですが、建久10年(1199年)1月13日、数え年53歳でその生涯を閉じたとされています。ここではさまざまな説について解説していきます。

公式記録『吾妻鏡』に晩年の詳細が残っていないため、諸説が入り乱れる

源頼朝の死について、鎌倉幕府の家臣が編纂(へんさん)した鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』での記述は釈然としないものになっています。

というのも『吾妻鏡』では、建久6年(1195年)年12月22日、源頼朝が友人の家に遊びに行ったという記事の後、建久7年(1196年)から建久10年(1199年)1月、つまり源頼朝が亡くなるまでの約3年間の記録が、なぜか欠落しているのです。そしていきなり建久10年(1199年)2月に飛び、源頼朝の長男である源頼家(よりいえ)が2代将軍となる旨の記述から再開します。

『吾妻鏡』にて源頼朝の死について触れられたのは、その死から13年もたった建暦2年(1212年)2月28日の項です。内容としては、相模国(現在の神奈川県)を流れる相模河の橋が壊れていて、修理すべきかの判断を3代将軍・源実朝に仰いだというものです。その中で、その橋はもともと建久9年(1198年)に新設されたもので、源頼朝がその橋供養に参列した際、帰路に落馬し、程なくして亡くなったという説明がわずかに記載されているのみなのです。

なお『吾妻鏡』にはこのように、落馬した日付や死亡した日付の記載はありませんが、源頼朝が死亡した当時の公家たちの日記や史料によると、建久9年(1198年)12月27日に落馬、翌年1月11日に危篤に陥り13日に死去したとあるため、落馬してから亡くなるまでは2週間程度だったといわれています。

落馬による受傷説

現在、源頼朝の死因として有名なのが、『吾妻鏡』の記述を根拠とした落馬説というわけです。確かに戦国武将の伊達政宗は落馬により大けがを負っていますし、佐竹義重は狩猟中に落馬して亡くなっていますので、可能性としてはありえるでしょう。

ただし一言で落馬といっても、死因として考えると詳細については諸説あります。例えば落馬による頭部外傷性の脳出血や、傷からの破傷風など、さまざまな可能性が考えられます。

病気説

源頼朝が落馬したのは事実として、武家のリーダーとして乗馬には慣れていたはずの源頼朝がなぜ落馬したのか、という点についても疑問が残ります。そこで、急な体調の変化により騎馬状態を維持できなかったのではないか、つまり脳卒中や心臓発作などの突発的な発症、またはその前ぶれとしてのめまいやしびれを起こし、結果として落馬した、とするのがこの説です。

源頼朝は塩辛いものを好んでいたことが知られており、また幕府を開いたばかりのリーダーとしてストレスを抱えていたことが想像されます。さらに当時の歌人の藤原定家は『明月記』に、源頼朝が亡くなったのは急病だろうという内容を書き残しています。そうしたことを考慮すると発症も不思議ではないでしょう。

歯周病による脳卒中(脳梗塞)や誤嚥性肺炎説

『吾妻鏡』によると、源頼朝は亡くなる4年ほど前から歯の病気に苦しんでいたと記されており、これが歯周病なのではないかと推測できます。

実は最近の研究では、歯周病菌には動脈硬化や脳梗塞などとの関連性があるとされています。そのため源頼朝は、歯周病菌により脳卒中(脳梗塞)を引き起こし、そのことが落馬につながったのではないかという説が成り立ちます。

また歯周病をきっかけとする別の説として、落馬後の療養中に、誤嚥(ごえん)性肺炎、そして敗血症になって死亡したのではというものもあります。これは水を誤嚥し、気管支から肺へと入ってしまった際に、歯周病菌が一緒に入ってしまって疾患を引き起こしたというものです。

飲水の病(糖尿病)説

当時、近衛家実(このえいえざね)によって書かれた日記『猪熊関白記(いのくまかんぱくき)』には、源頼朝は重い飲水の病で、その後亡くなったといううわさを聞いたという旨が書かれています。水を大量に飲む、つまり喉が渇く病気といえば、糖尿病やその合併症が考えられます。

源義経や平家による祟り、暗殺などの臆測も

  • 説によっては信ぴょう性が低いといわれるものもあります

    説によっては信ぴょう性が低いといわれるものもあります

前述のように、幕府の公式記録である『吾妻鏡』には源頼朝の詳細な死因が記載されていなかったために、さまざまな臆測が広まりました。中には現実離れしているのではと感じてしまうような説も存在します。

亡霊や水神の呪い説

軍記物語『承久記』には、源頼朝は水をつかさどる水神に取り憑かれ発病して死んだとあります。

また南北朝時代に成立した歴史書である『保暦間記(ほうりゃくかんき)』では、源頼朝は落馬の現場となった橋供養の帰路にて、源義広、源義経、源行家、そして安徳天皇の亡霊を見て、呪われて病気となり亡くなったとあります。

いずれも現実的には考えにくい説ですが、橋の供養後、落馬の前後で源頼朝の体調に異変が起き、病気により源頼朝が亡くなったことに関するうわさに尾ひれがついていった、と考えられるのではないでしょうか。

うわさがうわさを呼んだ要因としては、源頼朝のそれまでの偉業が大きく関わっているのではないかと考えられます。鎌倉幕府の初代将軍として最高権力者に上り詰めるまでに、源頼朝は敵味方問わず多くの人の命を奪ってきました。

特に、源頼朝の実の兄弟でありながらも最終的に討たれ、自害に追い込まれた源義経や、平家に擁立され、壇ノ浦の戦いにおいてわずか数え年8歳(満年齢6歳)で入水したとされる安徳天皇には、当時も今も大きな同情が集まっています。彼らが亡くなる要因を作った源頼朝は、偉業を成した人物であるとともに、冷酷な人物として多くの人から恐れられる存在です。

功罪相半ばする人物であるからこそ、その死因はドラマチックに脚色され、怨念となった被害者たち、もしくは人間より上位の存在である水神から「罰」を与えられた、というストーリーができあがったのではないでしょうか。そしてその大衆の願望をより大きく反映したものが、次の暗殺説です。

暗殺説

源頼朝が暗殺されたという説は、昔から大衆によって支持されてきました。これも怨霊説と同様に証拠や根拠には乏しいのですが、明確な死因についての公式記録が残っていない以上、記録を残せないような何かやましいことがあるに違いないという理由から、一定の支持を得ている説です。

歌舞伎の演目の人違い説

昭和7年(1932年)に初演された歌舞伎の『頼朝の死』という演目は、人違い説を描いたものです。

その内容は、源頼朝が女装して浮気相手の家に夜這いしようとしたとき、不審者と勘違いした警備の御家人に切り殺されてしまったことがきっかけで展開していきます。そのときの最高権力者の最期としてはあまりに格好がつかないので、妻の北条政子と重臣・大江広元(おおえのひろもと)は、源頼朝の情けない死に方を「落馬で死んだ」ということにして隠蔽(いんぺい)したというものです。

そして、父の死に疑問を持つ2代将軍の源頼家が、真相を探っていくという構成となっています。

女性にだらしない源頼朝への不満と、その裏に何かが隠されているのではないか、と考える民衆の気持ちを創作に反映したといえるでしょう。

源頼朝の急逝後、息子・源頼家が2代将軍になり、13人の合議制が敷かれる

さまざまな説のある源頼朝の死因ですが、いずれにしても源頼朝と北条政子の長男である源頼家が急遽、その跡を継いで2代将軍となります。源頼家が数え年で21歳のときです。

まだ経験の浅い源頼家を支えるために、また源頼家の独裁を抑えるために、13人の合議制が敷かれます。しかしその後、源頼家は殺され、北条家による執権政治へとつながっていくのでした。

源頼朝の墓は現在「法華堂跡」と呼ばれる場所に

源頼朝は死後、法華堂に葬られました。もともとこの法華堂は、源頼朝が造らせた持仏堂でした。後に法華堂は廃絶してしまいましたが、この一帯(現在の神奈川県鎌倉市・白旗神社付近)は現在、「法華堂跡」として国の史跡に指定されています。また現在ある源頼朝の墓については、江戸時代に島津重豪が整備したとされるものを修復したものです。

そもそも源頼朝とはどんな人?

  • 源頼朝は源義朝の三男として生まれました

    源頼朝は源義朝の三男として生まれました

幕府を開き武家に実権をもたらしたという類いまれな功績を持ちながら、その最期が明確になっていない源頼朝ですが、その一生は数奇なものであったといわれています。

武家・源義朝の三男として誕生

源頼朝は久安3年(1147年)、源氏の中でも清和天皇の子孫「清和源氏」である源義朝の三男として生まれます。

平治の乱の後、伊豆に島流しとなり妻・北条政子と出会う

平治元年(1159年)の「平治の乱」で父・源義朝と共に挙兵するも失敗。源義朝は死に、自身も平清盛に処刑される寸前となります。しかし清盛の継母・池禅尼の嘆願により助命され、伊豆に流罪になりました。

そこで後に妻となる北条政子と出会い結婚します。その後は北条政子や、その実家である北条家の後ろ盾を得て関東の武士たちを統一していったのでした。

征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いた歴史的偉人

源頼朝は弟・源義経などの協力もあり、源義仲(木曽義仲)や平家を次々と破るものの、戦功のあった源義経を追放、源義経が逃げ込んだことを口実に奥州藤原氏を制圧しました。建久3年(1192年)には征夷大将軍に任じられ、名実ともに鎌倉幕府の最高権力者として君臨します。

そして建久10年(1199年)、さまざまな臆測を残し、数え年53歳で亡くなったと伝えられています。

謎に包まれた源頼朝の最期は、今なお人々の想像をかき立てる

公式記録やうわさ話の類いを総合してもいまだ謎の多い、源頼朝の死因についてですが、歴史的に見ればその後、源頼朝の後を継いだ息子の源頼家が北条氏との対立で追放され、幕府は混乱状態に陥ります。そしてその後は北条政子の実家、北条氏が実権を握りながら、鎌倉幕府は150年程の歴史を紡ぎます。夜這いによる誤認殺害説で中心的な存在となる北条政子ですが、後に将軍の後見人となるなど、これ以上ない権力を手中に収めます。

そういった事実と、謎多き源頼朝の死が重なり、今もなお民衆の想像を大きくかき立てるのかもしれません。