YouTube・サブスク動画配信サービスの台頭、視聴率指標の多様化、見逃し配信の定着、同時配信の開始、コロナ禍での制作体制――テレビを取り巻く環境が大きく変化する中、最前線にいる業界の“中の人”が語り合う連載【令和テレビ談義】

第6弾は、バナナマン、東京03、オードリーなどと仕事し、“東京芸人”をよく知る放送作家のオークラ氏、制作会社・シオプロ社長の塩谷泰孝氏が登場。2人とともに『バチくるオードリー』、そして『新しいカギ』を手がけるフジテレビの木月洋介氏をモデレーターに、全3回シリーズのテレビ談義をお届けする。

第2回は、東京のお笑いシーンに身をおいてきたオークラ氏の半生をたどる。放送作家として多忙を極めていた状況から、コメディ舞台、そしてドラマ脚本への活躍の場を広げるようになった背景とは――。

  • 『自意識とコメディの日々』(太田出版/左)とオークラ氏

    『自意識とコメディの日々』(太田出版/左)とオークラ氏

■カルチャーと笑いが一緒になっていく

木月:オークラさんの書いた『自意識とコメディの日々』を読んでいると、あの頃の東京のお笑いシーンのあんなに芯食ったところに芸人さんとしていらっしゃって、後にそこを盛り上げていく存在になるというのが改めてすごいなと思いました。

オークラ:僕ら世代で『シティボーイズライブ』を作るという目標があったから、そのためにこれをやっていけばいいんだというのが明確に分かったので、それをやっていったという感じなんですよね。それとバナナマンという才能のある人たちとたまたま出会えたということも大きいでしょうし。

木月:そのやっていくことが見えていたのは、どれくらいの時期だったのですか?

オークラ:96~97年くらいですね。あの頃ってダウンタウンさんの影響が大きくて、94年に松本(人志)さんが『遺書』を出して、『寸止め海峡(仮題)』をやって、95年に浜田(雅功)さんが「WOW WAR TONIGHT」を出して、笑いこそが一番の価値観だ!みたいな雰囲気があったんですよ。それで96年になってくると、日本全国に笑いの感覚がカルチャーとして重要視されるようになった。96年の青山演劇フェスティバルってテーマが「演劇を笑え!」で、劇団ナイロン100℃が『ビフテキと暴走』、宮沢章夫さんが『スチャダラ2010』、そして三谷幸喜さんが『笑の大学』をやったくらいで、お笑いとクリエイティブがすごく一致した感じがあったんですけど、一方でテレビは「若手芸人は体張ってください」という考え方が主流で、テレビに出たかったらヒッチハイクしてください」とか…それはそれで面白いんですが…。

木月:オークラさんはその頃、呼ばれる芸人さん側ですよね。

オークラ:そうそうそう。だから僕らが一生懸命ライブを彩って演出とかすると、当時のテレビマンに「何カッコつけてんの?」ってまあ言われましたよ(笑)。ちょうど(クエンティン・)タランティーノとかが出てきだして、ミニシアターで見てクールでかっこいい演出と笑いっていうのが合うなと思ったんです。それを一番体現していたのはシティボーイズですし、『(ダウンタウンの)ごっつええ感じ』(フジテレビ)もまさしくそうでした。フジテレビの深夜で『世界で一番くだらない番組』とか、後に『踊る大捜査線』をやる本広(克行)監督とかがやっていたあの辺の流れも、カルチャーと笑いが一緒になっていく感じがありますよね。

木月:東京03さんの『FROLIC A HOLIC』とか、そういう感じですもんね。いわゆるお笑いライブとは一線を画した感じのもの。

オークラ:今となって思い返すと、芸人のネタだけではなかなか見てくれないから、みんなが見てくれるにはどうしたらいいのかと考えていたというのもありますよね。

木月:バナナマンさんのライブのチラシも当時からカッコいいなと思ってましたもん。何でこんなにおしゃれに作るんだろうと思って。当時では異色でしたよね。あれもオークラさんがやってたんですよね。

オークラ:そうそう、まずは見た目というのを大事にしました。プロの知り合いができるまでは、自分でやろうと思って。映像とかも、編集所を借りると1時間10万円とかして、そんなのは頼めないから、Premiere(編集ソフト)買って自分でやるんだけど、当時持ってたVAIOはハードディスク1ギガくらいしかないから、2本のVTR作るのに作っては移し替えてっていうのを何回もやって(笑)

  • バナナマン

■死ぬほど会議をやっていた『トリビアの泉』

木月:そうやって芸人さんをやりながら、だんだんプロデュース的な立場に移行していくんですね。もちろん、放送作家もやりつつ。

オークラ:当時はまだコント作家って日本では認められてなかったので、放送作家をやらなきゃいけなかったんです。

塩谷:『トリビアの泉』とかやってましたよね。

オークラ:それは、僕が三木(聡、『トリビアの泉』ブレーン)さんと『シティボーイズライブ』で一緒にやってたところからつながるんです。チーフ作家の酒井健作さんのことを、僕は最初「テレビマンの手先みたいな放送作家だろうな」と思ってたんですよ。当時、僕はマッコイ斉藤さんの影響を受けて、『本能のハイキック!』とか『はねるのトびら』とかやってて“俺らお笑い軍団だぜ”みたいな感じでちょっとイキってたんですけど(笑)、酒井さんといろいろ話す中で、放送作家として一番テレビ的なことを教えてもらいました。そんな酒井さんが、『世界で一番くだらない番組』とかで三木さんが作っていたナンセンスなVTRショーが好きで、それを地上波のゴールデンタイムで見せるためにはどうしたらいいのかというところから、雑学を紹介するときにナンセンスVTRを出すという『トリビア』になるんです。

木月:そこが秀逸でしたもんね。2004年当時僕ら下っ端AD内ではトリビアの会議がとにかく週何度もあって、長いとウワサでした。あのナンセンスVTRを考える会議を死ぬほどやっていたんだろうと想像します。

オークラ:週5回やってたかな? 僕は週2回しか出てなかったですけど。でも、当時放送作家として2年目とか3年目くらいのキャリアで、制作会社のチーフDとか演出クラスの作ったVTRにダメ出ししなきゃいけないというのは、なかなか大変でしたよ。『トリビア』はつらかったなあ。ペーペーの作家が、今の塩谷にダメ出ししてるようなもんですからね。

塩谷:いやいや(笑)

木月:当時は、放送作家としての本数も相当多かったんじゃないですか?

オークラ:『トリビア』と『はねるのトびら』と『本能のハイキック!』の3本くらいしかやってないのに、ずっとフジテレビにいるような感じでしたね。『はねる』なんて、夜の8時に会議が始まって、10時間以上ずーっとやってましたから。

塩谷:今じゃそんな会議、できないですよね(笑)

オークラ:2003年くらいから『エンタの神様』(日本テレビ)によるお笑いブームが来て、身近にいた芸人たちが人気者になって、あの世代の一部の人たちはめっちゃ合コンとかしてたんですよ。でも僕は、会議でずっとフジテレビにいたから、そういうのに1回も参加したことがなくて、「俺は遊べねえのか!」ってうらやましかったですね(笑)