日本の芸術家、岡本太郎(おかもとたろう)の名前を聞いたことがある人は多いでしょう。

しかし、「太陽の塔」などの有名な作品や「芸術は爆発だ! 」といった発言は知っていても、どんな生涯を送った芸術家なのかまでは、くわしく知らないのではないでしょうか。

この記事では、岡本太郎の残した作品や本、名言などを解説するとともに、岡本太郎の作品を鑑賞できる美術館を紹介します。

  • 岡本太郎とは

    岡本太郎(おかもとたろう)の軌跡をみていきましょう

岡本太郎(おかもとたろう)とは

岡本太郎(おかもとたろう)は、日本を代表する芸術家で、「芸術は爆発だ! 」などのインパクトのある名言や、個性的なキャラクターが印象的とされる人物でもあります。

岡本太郎は抽象美術運動やシュルレアリスム運動にも接触しており、「太陽の塔」などの奇抜な配色・形の絵画やオブジェを多く残しています。

岡本太郎の本

岡本太郎が残した著書の中から代表的な本を紹介します。

  • 『沖縄文化論- 忘れられた日本』

『沖縄文化論- 忘れられた日本』は、1961年に出版されました。

過酷な歴史の波に翻弄されながら、古代日本の息吹を伝える沖縄文化や島民を画家の視点からとらえた作品です。岡本太郎は、この本で毎日出版文化賞を受賞しています。

  • 『岡本太郎 歓喜』

1997年に出版された『岡本太郎 歓喜』は、奇抜な発言などが注目されがちな岡本太郎の、先鋭的な芸術に挑み続けた一面に触れられる書籍です。

この一冊で多くの岡本太郎の作品を見ることができます。

  • 『青春ピカソ』

『青春ピカソ』は、2000年に出版された岡本太郎の芸術論がまとめられた一冊です。岡本太郎とピカソ絵画との出会いや、ピカソと創作について語り合った内容が綴られています。

岡本太郎にはほかにも多くの名著がありますので、興味がある方はぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

岡本太郎現代芸術賞(TARO賞)

岡本太郎芸術賞(通称・TARO賞)とは、岡本太郎の遺志を継いで「時代を創造する者は誰か」を問うための賞です。

岡本太郎が亡くなってすぐに創設されたこの賞は、旧来の慣習や規範にとらわれない、自由な発想や視点を持って創作活動を行う芸術家を支援するとともに、その業績を顕彰することを目的としています。

  • 岡本太郎とは

    岡本太郎は芸術作品のほかに、著書も多く残しています

岡本太郎の生涯

ここからは岡本太郎の歩んだ人生を振り返っていきます。

漫画家の父と小説家の母の間に生まれる

1911(明治44年)2月26日、岡本太郎は神奈川県川崎市にて漫画家・岡本一平と小説家・岡本かの子の長男として生まれました。父の一平は酒と女性にお金を散財しており、それを気に病んだ母・かの子は自殺未遂をするなど家庭は崩壊状態だったそうです。

母・かの子の自殺未遂をきっかけに一平は反省をしますが、今度は逆にかの子が次々と浮気を重ねていくようになります。岡本太郎はそうした幼いころの経験から、独身主義を誓うようになりました。

岡本太郎は自我が強く、妥協のできない性格でした。小学校を1度退学するなど、型破りな芸術家的な性質は幼少より備わっていたようです。

18歳でパリへ渡る

絵の才能を認められた岡本太郎は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学しますが、長く在学することなく、「芸術は教えるものではない」と退学してしまいます。

岡本太郎は東京美術学校を退学したのち、パリへ渡りました。ルーブル美術館の多くの芸術作品、とりわけピカソに大きく心を揺さぶられます。

岡本太郎は絵画を見て、二度涙を流したことがあったそうです。

一度目はルーブル美術館のセザンヌ、そして二度目はピカソの「水差しと果物入れ」を見た時です。ピカソの作品を見た感動が「ピカソを超える」と闘志へと変わり、それはアンチピカソを公言するほどでした。

岡本太郎とピカソの作品との出会いは、それほど衝撃なものだったのです。

第二次世界大戦で中国へ出征

岡本太郎は約10年間パリで過ごしました。しかし、第二次世界大戦でドイツがパリに侵攻したことをきっかけに、日本へ帰国します。岡本太郎は帰国後すぐに徴兵され、中国へ出征することになりました。

戦場ではパリに渡っていた岡本太郎に対して偏見の目があったようで、規律の厳しい軍隊に配属されて連日厳しい訓練を受けたそうです。華やかなパリでの生活から一転して戦場での生活に変わりました。

このことを岡本太郎は自著において「天国から地獄を味わった」と残しています。岡本太郎は、出征している間の5年間を「あれほどむなしかったことはない」と感じていたようです。

前衛的な作品を数々発表

戦後、岡本太郎は東京都世田谷区にアトリエを構え、制作活動に打ち込みます。1947年(昭和22年)には「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と新聞にて宣言。それは日本の美術界を否定するものでした。

その後、岡本太郎は「太陽の塔」などの前衛的な作品を数々発表したり、日本全国を旅して記録写真を残したりと精力的に活動します。1950年代からはテレビのバラエティ番組などへの出演も増えていき、お茶の間の人気者になりました。

岡本太郎の死因

岡本太郎は年齢を重ねても、意欲的に創作活動を続けます。80歳の時に自身の所蔵する多くの作品を川崎市に寄贈したことにより、川崎市岡本太郎美術館の建設が計画されました。

1996年(平成8年)、岡本太郎はパーキンソン病による急性呼吸不全によって死去。満84歳でした。岡本太郎は葬式を好まない人物であったため、葬儀は行われず、お別れ会が執り行われました。

  • 岡本太郎の生涯

    岡本太郎は精力的に芸術活動を行いました

岡本太郎の代表的作品

岡本太郎は多くの芸術作品を残しています。ここでは、岡本太郎の代表的な作品をいくつか紹介します。

「痛ましき腕」

・制作年
1936年(1949年再制作)
・所蔵 
川崎市岡本太郎美術館

岡本太郎はピカソの「水差しと果物鉢」の鑑賞をきっかけに、抽象画を描き始めます。「痛ましき腕」は戦争により焼失しますが、1949年に再制作されました。

「森の掟」

・制作年
1950年
・所蔵
川崎市岡本太郎美術館

岡本太郎は「対立する要素を作品に共存させるべき」という対極主義を唱えていました。この「森の掟」は、対極主義を通して社会の巨大権力の空虚さを批判している作品です。

「太陽の塔」

「太陽の塔」は、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の目玉として制作された作品です。

塔の中は、生物の進化の過程を表す「生命の樹」が展示されています。「太陽の塔」は過去・現在・未来のエネルギーを象徴すると同時に、生命・祭りの中心を示す作品になっています。

  • 岡本太郎の代表的作品

    岡本太郎は多くの芸術作品を残しています

岡本太郎の名言

岡本太郎が残した名言の数々は、彼の芸術に対する姿勢をうかがい知ることができるものばかりです。ここでは、一部の言葉を抜粋して紹介します。

・芸術は、爆発だ!

・なんでもいいから、まずやってみる。それだけなんだよ。

・逃げない、はればれと立ち向かう、それがぼくのモットーだ。

・信念のためには、たとえ敗れるとわかっていても、おのれを貫くそういう精神の高貴さがなくて、何が人間ぞと僕は言いたいんだ

これらの名言は、「何かにチャレンジしたいけど勇気が出ない」という時に後押しをしてくれる言葉ではないでしょうか。

  • 岡本太郎の名言

    名言から岡本太郎の人物像が見えてくるでしょう

岡本太郎の作品を鑑賞できる美術館

岡本太郎の作品に触れられる場所には、どこがあるのでしょうか。

岡本太郎記念館

岡本太郎が自宅兼アトリエとして使用していた建物が「岡本太郎記念館」となっています。

こちらでは多くの彫刻やデッサン、エスキースなどを鑑賞が可能です。また岡本太郎が使っていた筆や絵具なども展示されています。

住所:東京都港区南青山6-1-19
アクセス:東京メトロ、銀座線・千代田線・半蔵門線「表参道駅」より徒歩8分 

川崎市岡本太郎美術館

岡本太郎が川崎市に寄贈した作品が所蔵、展示されている美術館です。

岡本太郎が制作した作品の鑑賞はもちろん、カフェテリアでは企画展に合わせた限定メニューを楽しむことができます。また、館内のショップでは、岡本太郎作品をモチーフにしたアクセサリーや書籍、文具といったグッズを購入することも可能です。

住所:神奈川県川崎市多摩区枡形7-1-5
アクセス:電車・小田急線向ヶ丘遊園駅南口から徒歩17分

万博記念公園

1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会、その跡地を整備してできた公園です。こちらの公園では、万博を象徴する「太陽の塔」を見ることができます。

住所:大阪府吹田市千里万博公園1-1
アクセス:電車・大阪モノレール「万博記念公園駅」から徒歩5分

  • 岡本太郎の作品を鑑賞できる場所とアクセス

    岡本太郎の作品に触れられる場所は多くあります

岡本太郎の作品や生き方から学べることは多い

岡本太郎は既成概念にとらわれるのを嫌い、オリジナリティや革新性を愛した芸術家といえます。その精神は作品のみならず、生き方や残された名言からも読み取ることができるでしょう。

岡本太郎の作品や言葉は、「現状を打破したい」「新しいことを始めたい」といったモチベーションが高まった時に背中を後押ししてくれるはずです。