内田篤人(29)が約7年半ぶりにJリーグの舞台へ帰ってきた。ドイツ・ブンデスリーガ2部のベルリンから、プロの第一歩を踏み出した古巣、鹿島アントラーズへ完全移籍で加入。内田がドイツへ旅立った2010年7月を境に、実に7年半も空き番号となってきた背番号「2」を介して鹿島の愛を感じ、自らも常に気にかけてきた愛着深い古巣に経験を還元したいと望みながら、30歳になるシーズンで新たな挑戦をスタートさせる。
■7年半ぶりに内田篤人のもとへ戻ってきた背番号「2」
7年半におよぶ空白の時間が終わりを迎えた。2010年7月を境に持ち主が不在の状態が続いていた鹿島アントラーズの背番号「2」が、ドイツ・ブンデスリーガ2部のウニオン・ベルリンから完全移籍で加入した内田篤人に託された。
戻された、と表現したほうがいいだろう。清水東高校から加入して2年目の2007シーズンから、ブンデスリーガ1部の古豪シャルケ04へ旅立つ2010年7月まで、「2番」を背負ったのは内田だった。
「いつかは帰ってきたいと思っていたチームだし、久しぶりにこのグラウンドで、鹿島の一員として練習できるのはすごく嬉しい。懐かしくていい感じだし、鹿島のエンブレムやフラッグを見ると、やらなきゃいけないという気持ちになりました」
2018シーズンへ向けて始動した今月9日。茨城県鹿嶋市内のクラブハウスに隣接するグラウンドで約1時間半、すべてのメニューを元気いっぱいに消化した後に、鹿島へ抱いてきた熱い思いを漏らした。
シャルケ04にいても、そして出場機会を求めて昨夏に移籍したウニオン・ベルリンにいても、常に古巣の動向を気にかけてきた。2013シーズンから2年間、無冠に終わったときには、こんな思いを抱いていたと明かしたこともある。
「鹿島は優勝して当然というか、勝たなければいけないクラブなので。一人のファンとして、勝てない試合をヤフーなんかで見ると『何をしているんだ』という気持ちになりましたよ」
ドイツがシーズンオフとなる初夏や、長く悩まされてきた右ひざのけがのリハビリで日本へ帰国したときには必ず鹿嶋市へ帰り、プロの第一歩を踏み出した古巣のグラウンドで体を動かしてきた。自身にとっての故郷のようなクラブである鹿島へ抱く、海よりも深く、山よりも高い愛が伝わってきた。
■紡がれてきた背番号「2」の歴史に込められた鹿島の思い
鹿島もまた、内田へラブコールを送り続けた。1995シーズンから強化部長職を務める鈴木満常務取締役は、内田と顔を合わすたびに「そろそろ戻ってきたらどうだ」と声をかけ続けてきた。
キャプテンのMF小笠原満男や守護神・曽ヶ端準ら、1998シーズンに加入した「黄金世代」から伝統が凝縮されたバトンを受け継ぐ世代として、鈴木常務取締役は内田を思い描いてきた。
しかし、海外移籍が常態化した日本サッカー界のなかで、テクニックとスピード、インテリジェンス、そして闘志を176センチ、62キロの体に搭載した内田もヨーロッパの目に留まる。
可能性を秘める選手を引き留めるのは、クラブのエゴとなる。万感の思いを込めて内田を送り出した鹿島は一方で、小笠原や柳沢敦(現鹿島コーチ)、中田浩二(現鹿島スタッフ)らのように、一度はヨーロッパへ挑戦の場を求めたレジェンドたちを快く迎え入れてきた。
内田に対しても然り。まさに相思相愛となる証が、空き番号としてきた「2」だった。サポーターの背番号とされる「12」を空き番号としているチームは多いが、他の番号をここまで大事にするクラブは、鹿島以外に存在しない。
鈴木常務取締役は「次に背負うのにふさわしい選手が現れるまで」と理由を説明していたが、その選手こそがまさに内田だった。固定背番号制となった1997シーズン以降で、鹿島の「2」を託されたのは実は3人しかいない。
ワールドカップ・アメリカ大会の優勝メンバー、ブラジル代表のジョルジーニョから、ジョルジーニョに憧れてベルマーレ平塚から移籍した名良橋晃に引き継がれたのが1999シーズン。そして、名良橋は退団する2006シーズンのオフにメッセージを託した。
「篤人に『2番』を渡してください」
■ドイツで積み重ねた濃密な経験を還元するために
ジョルジーニョ、名良橋、そして内田と全員が右サイドバック。常勝軍団の歴史と重みを感じずにはいられない。3月27日には30歳になり、現役の折り返し点はすぎたと自覚しているからこそ、右ひざはまったく問題ないと強調したうえで、昨シーズンは無冠に終わった鹿島の力になりたい。
「プロサッカー選手とは何かというのは、ドイツで負った深い傷が足にいっぱいあるので、そのへんでわかっているつもり。若い選手も多くいるし、自分ができることを練習からしかりやりたい」
1990年代後半から2000年代の頭に最初の黄金時代を迎えた鹿島は、紅白戦などで削り合う、つまり必要以上に激しくぶつかり、結果として一触即発のムードになることが少なくなかった。
ピリピリした空気は内田が在籍し、前人未踏のリーグ戦3連覇を達成した2007シーズンからの3年間も充満していた。いま現在は皆無になったと言うつもりはない。それでも、伝統を知っている一人として、自身が担う役割を理解している。
周囲を見渡せば、2010年7月までともに戦った選手は小笠原と曽ヶ端、同じ1988年生まれで「ヤス」と呼ぶMF遠藤康しかいない。2010シーズン限りで引退した大岩剛が、いまは監督を務めている。
「ヤスの情報によると、若手がかなりオレにビビっているみたい。今日も距離感がありましたよ。ランニングしていてパッと周りをみたら、誰もいなかったとか。でも、ドイツって練習が始まったらみんなピリピリして、ほとんど無駄話をしないから。でも、そんなにベタベタする必要はないかと。ここは仲良しこよしのチームじゃないから」
ピッチにおける一挙手一投足を、そして再び託された「2」を介して伝えるべきことはわかっている。日本代表への復帰を視野に入れながら、ピッチの貴公子は愛する鹿島のために全身全霊をかける。